「信仰の成長」

 神学校で新約神学を教えておられたある先生は、よく、「信仰義認の教理は劇薬である」と言っておられました。神の恵みによる罪の赦しを信仰によって受け止めるという信仰義認の教理は、まかり間違えば、信仰における行為を無視する開き直りを誘発しかねない危険性を孕んでいるということです。

 この危険性に陥らない鍵はどこにあるのか。信仰義認にとって、この問いは極めて重要だと思います。そして、その答えは、自分の罪を自分でも赦せない罪として認識できるか否かに掛かっているということだと思います。

 よく、「洗礼を受けたときのあの信仰に立ち戻りたい」という人がいます。私は、これは、その人の信仰が成長していないことの現れだと思います。

 信仰が成長するとは、どういうことでしょうか。それは、神様の恵みの深さがより深く認識されることではないでしょうか。そしてそれは、自分の罪の深さがより深く認識されることによって起こるのではないでしょうか。罪の深さをマイナスの数字で表現するとして、昨日は自分の罪はマイナス10だと思っていたが、それが、マイナス100だということが分かった。そのマイナス100を神様が赦してくださっているということが分かった。いや、マイナス1000だということが分かった。それが赦されている。そのように、罪の深さがより深く認識されると同時に、その深い罪が赦されていることを認識する。そのことによって、神様の恵みの深さを認識する。そのようにして、信仰は成長するのではないでしょうか。

 私は、洗礼を受けたとき、それなりの信仰があると思っていました。しかし、今思うと、あのときの信仰で良くも洗礼を受けられたものだと、身震いしたくなります。しかし、良く考えてみますと、では今の信仰で洗礼を受けるに充分かといいますと、決して充分とは言えません。そもそも洗礼を受けるに充分な信仰などないのです。なぜなら、不信仰な私たちを神様が捉えてくださる神様の行為が洗礼なのですから。

 神様の独り子が十字架に掛かることによってしか、解決の着かない私の罪。その罪の深さを知るには、私は一生を必要とするでしょう。それはとりもなおさず、神様の私への恵みの深さを知るのに、私は私の一生を必要とするということです。昨日より今日、より深い神様の恵みを味わいたいと思います。