「神の業が現れるため」

 ヨハネによる福音書9章に、生まれつき目の見えない人について、弟子たちから、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問われたイエス様が、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになられる場面が記されています。

 弟子たちがこのような問いを発するには、理由がありました。それは、十戒を記した『出エジプト記』20章5節に、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と記されているからです。当時、ユダヤでは、病人が出るとか、子どもが生まれないとかは、神様からの罰として受け止められていたのです。

 これに対して、イエス様は、そのような人生における「障害」と思われることを通して、そのようなことがその人になければ決して起こらないすばらしい出来事を、神様はその人に起こされるのだ、と言っておられるのです。

 では、この人が生まれつき目が見えない人でなければ決して起こることはなかったであろうこの人に現れた「神の業」とは、一体、何でしょうか。この人は、イエス様によって目の病を癒され、見えるようになります。この人が見えるようになったことが、この人に現れた神様の業だったのでしょうか。それは違います。目が見えるようになっただけであれば、それは、普通の人と変わりがありません。普通の人には起こらない何かがこの人に起こって初めて、生まれつき目が見えないということが意味をもってくるからです。

 この人は、イエス様に「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた、と記されています。この「ひざまずく」というのは、礼拝するという意味です。この人が生まれつき目が見えない人であったが故に、当時の普通の人がしなかったイエス様を救い主と信じて礼拝するということが、この人に起こったのです。

 神様は、私たちの人生に苦難を与えられます。その苦難は、何の意味もない苦難ではなく、その苦難をとおしてでなければ決して起きない神様の御業を、私たちに起こすためです。

 イエス様を救い主として礼拝する、人間にとってこれ以上のすばらしい出来事はありません。それができる自分であることに感謝したいと思います。