「牧師は清貧に甘んじるべきか」

 今、日本福音ルーテル教会で牧師の配偶者の教会への関わり方の見直しが行われています。問題とされていることは、牧師夫人という言葉が存在することからも推測されるように、一信徒に過ぎない牧師の配偶者に、牧師の配偶者でるという理由だけで、能力以上のことが期待され、信徒が誰でも担ってよいことが牧師の配偶者のやるべきこととして無反省的に放置されてはいないかということです。この問題を議論していく中で、本筋とはずれてはいますが、次のようなおもしろいやりとりがなされました。

 牧師:以前は牧師はピアノを買うことにも気を遣った。今、牧師が大型の液晶テレビを買おうものなら、信徒の批判の目に晒されるだろう。牧師は清貧に甘んじるべきだという無意識の意識が教会には生きているように思う。牧師とて、自分の生活費を自分の思うとおりに遣う自由はあっていいはずだと言いたくなることもある。
 信徒:ある意味ではそれは必要なことではないか。牧師に限らず、ある種の職業にはその職業特有の自己規制が必要だと思う。医者には医者らしい生活ぶりを期待するのはごく普通の人間感情だし、牧師にもそのようなことが期待されるのは当然のことだと思う。
 牧師:そのとおりだと思う。牧師も、その自己規制をする中で、ここまでは許されると判断する範囲で生活をしているということを理解して欲しい。

 わたしは、このやりとりを聞いていて思いました。確かにある種の職業にはその職業特有の自己規制が必要である。だが、どの職業にどのような自己規制が必要かは、他から言われるべきものではなく、その職業にある人が自ら決すべきことではないか。牧師がどのような生活の仕方をするかは、牧師が自らの立場を考えて牧師自ら決すべきことで、他から、牧師の生活はこうあるべきだと注文をつけることではない、と。

 信徒と牧師の関係は、ややもすると、雇い主と雇われ人という関係に見られがちです。そして、牧師の配偶者の教会との関わりも、その延長線上で捉えられてしまうところに問題の本質があるように思います。

 牧師がその職業から要請される自己規制をどのように捉えるかは牧師の自由でなければなりません。それと同じように、一信徒に過ぎない牧師の配偶者が、教会にどのように関わるかは、その牧師の配偶者の全くの自由であるべきだと思います。