「母の入院(その2)」

「透析するかしないかは、医者が決めることではありません」という信頼する医師の言葉に気を良くした私は、次の日、まず母に、「肺炎をなおす強い薬を使うと尿が出なくなり、人工透析をしなければならなくなると思うけど、どうしたいか。このままか、透析覚悟で肺炎の強い薬を使うか」と尋ねた。母からは、「肺炎をなおしたい。どうするかは、あんたにまかせる」という返事だった。その上で主治医に相談した。「このまま肺炎を放置するのでは、治療の意味はないように思う。抗生物質を使って頂いて、腎臓の機能が低下したら透析をして頂けないだろうか。」これを聞かれた主治医は、少々むっとされたようで、「肺炎を放置している訳ではありません」と語気を強く言われた。実は、抗生物質を全く使っていないのではなく、腎臓に負担のかからないように用心して使っているとのことだった。私は、素人の無知の上での非礼を詫びた。その上で、なお、食い下がった。「昨日より明らかに悪くなっている。本人も透析を覚悟しているので、強い抗生物質を使ってでも、肺炎をスッキリなおして頂けないだろうか。」これに対する主治医の答えは、「私は、90歳を超えられた方の透析は考えません」であった。

 私は、母の息苦しそうな姿を思い浮かべ、透析するしないの選択権は患者にあるはずだ、と思いながらも、ぎりぎりの選択をして下さっている主治医の努力が感じられ、お礼を言ってその場を辞した。

 その後、甥と姪を空港まで送って帰ってきた義兄(姉の夫)から、「お母さんは、あの子たちには、『もう私も寿命だろうね』と言われたそうだよ」と聞かされた。私は、とっさに、「これが子と孫との違いなのか」と思った。つまり、責任の違いである。子どもは親に対する自分の責任を先に考え、いろいろ反論したりするから、子どもには弱音になるようなことはめったに吐けないが、孫は責任ある立場ではないから、安心して弱音を吐けるという思いがあるのであろう。私は、この時、母の本音を聞いたような思いがして、自分も覚悟をしなければならないと思った。

 母は、一時、小康状態にあったが、今(5月8日午後現在)は、血圧が低下し、意識もはっきりしていないようである。腎臓の悪化が進み、血小板も通常の3分の1に減っているという。

 側にいてやりたいがそれも叶わない。不安の中、釧路にいて、ただ祈るばかりである。主よ、母の命を御手に捉えたまえと。(了)