X JAPANのYOSHIKI「紅白」へ
2022.12.19

【紅白】「THE LAST ROCKSTARS」特別企画でTV初パフォーマンス YOSHIKI「新しい歴史を刻むつもりで」【メンバーコメントあり】

 X JAPANのYOSHIKI、L’Arc~en~CielのHYDE、LUNA SEA/X JAPANのSUGIZO、ギタリストのMIYAVIによるバンド「THE LAST ROCKSTARS」が、大みそかの『第73回NHK紅白歌合戦』(後7:20~11:45)に特別企画で初出場することが19日、決定した。

 同バンドは、今年11月11日に「世界に旋風を巻き起こす」という志を胸に結成された。X JAPANのリーダーであり、天皇陛下即位十年の記念式典の奉祝曲やゴールデングローブ賞の公式テーマソングを手がけるなど、米誌で日本の歴史上もっとも影響力のある作曲家の1人として評されているYOSHIKI。L’Arc~en~Cielとしてアジア人初となるマディソン・スクエア・ガーデンでの単独ライブ、ソロアーティストとしても海外ツアーを成功させているHYDE。

 LUNA SEA、X JAPANのメンバーとして活動する他、英国のサイケデリックトランス・バンド JUNO REACTORの一員として、世界各国で公演を行うなど多岐に活躍しているSUGIZO。超絶技巧のスラップ奏法で世界を熱狂させ、9度のワールドツアーを実現、ハリウッド映画への出演や国連UNHCR親善大使としてもワールドワイドに活動するサムライギタリストMIYAVIと、日本のロック界を代表するアーティスト4人が集結した。

 「THE LAST ROCKSTARS」は来年、国内そしてアメリカでのライブ開催を発表している。また、今回の『紅白歌合戦』がテレビ初パフォーマンスとなる。どんなパフォーマンスを披露するのか期待が高まる。

 YOSHIKIは「THE LAST ROCKSTARS結成後、初めてのパフォーマンスを紅白で披露させていただくことになり、とても光栄です。X JAPANやソロでの出演含めて過去11回出演してますが、12回目はTHE LAST ROCKSTARSでの“初出場”になります」としみじみ。「紅白に新しい歴史を刻むつもりで、気合いを入れて挑みます。楽しみにしていてください」と呼び掛けている。

■各コメント

【YOSHIKI】
THE LAST ROCKSTARS結成後、初めてのパフォーマンスを紅白で披露させていただくことになり、とても光栄です。X JAPANやソロでの出演含めて過去11回出演してますが、12回目はTHE LAST ROCKSTARSでの“初出場”になります。
これまで、出演者の皆さん全員の合唱でピアノ伴奏をしたり、ステージでゴジラを倒したり(笑)、KISSをはじめ素晴らしいアーティストの方々との共演など、紅白での思い出は数えきれないほどあり、感謝しています。
紅白に新しい歴史を刻むつもりで、気合いを入れて挑みます。楽しみにしていてください。

【HYDE】
初めてのステージが紅白とは! 僕もテレビで観たい!

【SUGIZO】
4人での初ステージ。久々の紅白。全霊で臨みます。

【MIYAVI】
この四人でバンドとして立つはじめてのステージ。ここから新しい世界に向けてまた旅がはじまります。このドキドキとワクワクを皆さんと一緒に共有できれば幸いです。Bang,bang,bang!!!!!!!
2022.12.19 16:12 | 固定リンク | エンタメ
C-C-Bの笠浩二さんが逝去
2022.12.18

《訃報》C-C-B笠浩二さんが逝去『Romanticが止まらない』で一世を風靡、近年「移動は車椅子だった」

『Romanticが止まらない』の大ヒット曲で知られるバンド『C-C-B』のドラマー・笠浩二さんが14日、亡くなっていたことがNEWSポストセブンの取材でわかった。2022年11月8日に還暦を迎えたばかりだった。地元の葬儀会社によると、葬儀は17日に行われているという。

 笠さんは1983年に当時、結成していたCoconut Boysのシングル『Candy』でメジャーデビュー。その後、バンド名『C-C-B』に改称し、リードボーカルとして歌った『Romanticが止まらない』(1985年)が大ヒット、同年には第36回NHK紅白歌合戦に出場している。1989年のバンド解散後は、ソロアーティストとして活動を開始、バラエティ番組などにも出演してきた。当時の様子を音楽雑誌編集者が振り返る。

「当時の笠さんは不規則な生活、そして精神的なストレスなども加わって体調を崩していました。幼少期からの持病であるぜんそくも重なり、摂食障害なども発症して、音楽活動を続けられるような状態ではありませんでした。最終的には脚気(かっけ)にもなり、足元がおぼつかなくなったこともあったそうです。そうした状況下、親族の勧めで笠さんは都会を離れ、地方に移り住むことを決断しました」

 1999年に笠さんは、先祖代々の土地である熊本県南阿蘇村に移住。その2年前に同じく移住していた笠さんの両親と同居することになった。親族に支えられながら、自然豊かな阿蘇で健康的な生活を続けていたこともあり、徐々に身体も回復。地元で音楽活動を再開し、交流を続けていた『C-C-B』の元メンバーとも2002年ごろからセッションを行うようになったという。

「その頃から『C-C-B』再結成の機運が高まり、2005年にはフジテレビで放送されたドラマ『電車男』の挿入歌として『Romanticが止まらない』が採用されたこと、そして同じくフジの『SMAP×SMAP』で稲垣吾郎さんが笠さんのパロディで扮していたキャラクター『CCB吾郎』も手伝い、再注目されるようになりました」(前出・音楽雑誌編集者)

 こうした流れのなかで、リーダーでベーシストの渡辺英樹さん(享年55)ら3人で、2008年に『C-C-B』名義で再結成を発表。さらに2014年には解散25周年をきっかけにアルバムを発売。しかし、翌2015年、メンバー全員でのライブツアーを目前に、渡辺さんが多臓器不全のため亡くなってしまう。笠さんは訃報を受けて《彼は、C-C-Bをもう一度スタートするために、リーダーとして一生懸命に中心的役割を率先して動き、やっとライブツアー自体がスタートするその目前でした》とコメントしている。渡辺さんは高校時代からバンドを組んでいた親友でもあった。

『C-C-B』でのライブツアーは叶わなかったが、その後も笠さんは熊本を拠点にソロ活動を続けていた。しかし、2016年に起きた熊本地震が住んでいた阿蘇を襲う。

「笠さんは、被災をきっかけに音楽で“地元に恩返しがしたい”と意気込んでいました。地元の中学校の校歌を作曲するなどしていましたが、最近では、体調が思わしくなかったようで、東京で会ったときはかなり痩せてみえました。今年もライブ活動を行っていたようですが、体調は思わしくなかったのかも。直近での移動は車椅子だったようです。亡くなったのはご自宅で、一緒に住んでいたお母さんもかなりショックを受けていたと聞きます」
2022.12.18 15:25 | 固定リンク | エンタメ
今年の『M-1』誰が優勝しても“番狂わせ”
2022.12.18

『M-1グランプリ2022』今年は予選から波乱が続出した。昨年のファイナリストのももが3回戦敗退する驚きは序章にしかすぎず、準々決勝では、ラストイヤーだった阿佐ヶ谷姉妹、見取り図、ランジャタイ、金属バット(ワイルドカードで復活)らが落選。昨年決勝に進出したモグライダー、インディアンス、ゆにばーすらも敗れ、準決勝では優勝候補筆頭と目されていたオズワルドらが敗退したのだ。

決勝初進出が5組、それ以外も2度目のファイナリストで、いわゆる“常連組”不在。誰が優勝しても「アップセット」と言われそうなメンバーだ。まさに本大会のキャッチコピー「漫才を塗り替えろ。」を体現している型破りで「ヤバい」コンビばかりだ。事実、決勝進出者発表会見はさながら大喜利大会と化しカオスな状態になっていた。

そんな2022年の『M-1』ファイナリストの経歴や関係性等を今一度振り返ってみよう。

コントとの「二刀流」コンビの進撃

昨年に続き2年連続の決勝となるのはわずか2組。そのうちの1組が、ロングコートダディだ。昨年は4位で惜しくも最終決戦に残ることができなかったが、漫才中のフレーズ「肉うどん」がトレンド入りするなどインパクトを残した。堂前は『座王』でも100勝以上が手にするゴールドビブスを所持するオールマイティな実力者。今年は『キングオブコント』でも2020年に続き決勝進出しており、歴代でも数少ない同一年でのダブルファイナリストに。賞レース決勝の経験値はメンバー随一といえるだろう。

今年の大きな傾向のひとつとしてロングコートダディのように、コントとの「二刀流」のコンビが目立つことだ。彼らの“盟友”ともいえる男性ブランコもその1組。男性ブランコはロコディの2期後輩だが、大阪時代、「一緒にやりましょう」と声をかけ、1時間で新ネタを4本ずつおろし、ユニットネタ、VTRでのネタ披露もするというストロングスタイルのユニットライブをしていた仲。準決勝で敗退し、敗者復活に回ることになった今年の『キングオブコント』王者ビスケットビラザーズとも男性ブランコは同期だ。ちなみに「よしもと漫才劇場(通称マンゲキ)以前・以後」で「西の二刀流」が増えているとハナコ秋山は指摘している(『見取り図じゃん』22年12月5日)。マンゲキは開始当初、“コント禁止”で漫才重視だったため、本来コント師だった芸人も漫才が鍛えられたのではないかと。

そのマンゲキに所属し、現在もロングコートダディらと切磋琢磨しているのがカベポスターだ。2022年は「ytv漫才新人賞」と「ABCお笑いグランプリ」という関西の2大若手登竜門タイトルを同年ダブル優勝という史上初の快挙を達成し、松本人志をして「安定の面白さ」と言わしめた。これらの賞レースで強いネタを使ってしまっているという不利な部分もあるとは言えるが、全国的にはまだまだ知られていないためインパクトを残しやすいという利点もあるだろう。実績的には申し分ないコンビだ。

そして、ロングコートダディ同様、同一年のダブルファイナリストになったのがヨネダ2000。こちらは史上初の『THE W』とのダブルファイナリストだ。『THE W』では、2本ともコントで戦い準優勝を果たしたため、彼女たちも「二刀流」といえるだろう。

女性コンビが決勝進出を果たしたのは2009年のハリセンボン以来13年振りの快挙。もし優勝すれば女性として初、さらに最年少記録の更新となる記録ずくめ。まさに規格外な彼女たちにふさわしい。今夜は不条理な彼女たちの世界に連れて行ってくれるに違いない。

大学お笑いサークル出身者の飛躍
2年連続決勝進出コンビのもう1組が真空ジェシカ。昨年の決勝進出によりバラエティ番組への出演が急増したが、常にトリッキーなボケを繰り返し、物議を醸してきた。当初は炎上騒ぎにもなったが、最近では彼らのキャラクターが受け入れられた感があるため、『M-1』でもハマり大爆笑を生む土壌はできあがったといえる。

真空ジェシカといえば、川北は慶應義塾大学「お笑い道場O-keis」、ガクは青山学院大学「ナショグルお笑い愛好会」出身という昨今、賞レースで好成績を収め注目される大学お笑いサークル出身者で人力舎に“スカウト”されたエリートでもある。大学お笑いサークルの老舗である早稲田大学「寄席演芸研究会」(通称ヨセケン)出身の山田邦子が審査員に新たに加わった今年、いよいよ彼らが本領発揮する大会になるかもしれない。

同じくダイヤモンドの野澤も明治大学「木曜会Z」も大学お笑いサークル出身。そのダイヤモンドは、昨年の『おもしろ荘』(日本テレビ)で「コーヒーのサイズ」をリズム良く繰り返すネタを披露して優勝し話題を集めた。『M-1』には、2018年から4年連続準々決勝進出を果たすも、準決勝の壁は高く阻まれていたが、ネタの作り方から衣装まですべてを変えて挑んだという今年、一気に決勝に進出することになった。

2017年の決勝進出から5年を経て返り咲いたのがさや香だ。最初の決勝でつけられたキャッチフレーズは、麒麟(2001年)、千鳥(2003年)、スリムクラブ(2010年)と同じ「無印(ノーマーク)」。いわゆる「麒麟枠」を象徴する伝統のキャッチフレーズを背負い挑むも7位。その後はダイヤモンド同様、準々決勝敗退を重ねたが、昨年は準決勝進出。敗者復活戦では、「からあげ4(よん)!」と叫び爪痕を残した。また、2020年には『歌ネタ王決定戦』で優勝も果たした。今大会では数少ないハイテンションで「陽」のしゃべくり漫才だけに好成績が期待される。ちなみにダイヤモンド小野とさや香の石井は、それぞれ前のコンビ時代に「ジャンピング☆ブラザーズ」というユニットを組んでいたという縁もある。

タイタンの躍進
今年のファイナリスト発表で大きな驚きを与えたのは、タイタンから2組が選出されたことだろう。吉本以外の事務所から複数のファイナリストが出たのは第1回と第2回の松竹芸能以来。しかもタイタンは少数精鋭の事務所だからよりインパクトがあった。

その1組であるウエストランドは、「今回のファイナリストの中では、僕らが一番悔しさを知っている」と井口が胸を張るとおり(「お笑いナタリー」22年12月9日)、ここまで苦渋をなめ、泥臭く戦ってきたコンビだ。

デビューして早くから『THE MANZAI』の「認定漫才師」になるなど注目を浴びた彼らは、2013年には『笑っていいとも!』(以上、フジテレビ)の隔週レギュラーにもなった。しかし、ここから不遇の時代が続き、井口のぼやきは加速する。2020年に遂に『M-1』ファイナリストになるも、本人曰く「(最下位の)10位よりもウケていない9位」に沈んだ。逆境が似合う彼らは、その悔しさを爆発させたぼやき漫才を見せてくれるに違いない。

ウエストランドとともに決勝進出となったのが、SMA、オフィス北野からフリー時代を経てタイタンに所属したキュウだ。間をたっぷり使ったスローなテンポと独特な佇まいで見るものを釘付けにする漫才は、麒麟・川島やスピードワゴン・小沢を筆頭に先輩芸人が「好きな芸人」として挙げることが少なくない。一昨年の敗者復活戦では「ゴリラであいうえお作文」のネタが大きな話題にもなった。決して手数が多くない漫才は『M-1』では不利な部分もあるが、それだけにハマれば逆にインパクトは絶大(参考:「めっちゃええやん」芸人はどうやって観客を自分の世界に引き込むのか)。爪痕を残すのは、間違いない。他のコンビ以上に、笑神籤で決められる出番順が大きな鍵になりそうだ。

『M-1グランプリ2022』決勝1位~10位紹介

エントリーNo.26 真空ジェシカ

2012年結成/人力舎
2年連続2回目(2021年、6位)

昨年の決勝では紹介VTRで「(『M-1グランプリ』とは)僕らが唯一、世に出られる手段」と紹介されたが、その言葉どおり今年は多くの番組に出演。昨年は漫才だけでなく予選ブロック敗退時に川北茂澄がウィッグをつけて赤いマントを羽織り「『キングオブコント』の待機の仕方」というボケを用意していたことも話題となった。

エントリーNo.1771「ダイヤモンド」

2017年結成/吉本興業
初出場

デニス、マテンロウ、横澤夏子、おかずクラブなどバラエティ番組で早々にブレイクする芸人が多かった東京NSC15期出身のダイヤモンド。(小野竜輔は同期にあたる大阪NSC32期出身)。賞レースの常連となったニューヨーク、今年初めて『キングオブコント』で決勝に進出したいぬにつづいてのファイナリストとなった。

エントリーNo.1794 ヨネダ2000

2020年結成/吉本興業
初出場

昨年はヨネダ2000として2回目の挑戦ながら準決勝に進出。2022年は先日の『THE W』で準優勝を果たした。女性コンビの『M-1』ファイナリストは2009年のハリセンボン以来。女性コンビでの初優勝、優勝時の最短芸歴、さらに誠は霜降り明星・粗品が持つ最年少優勝などさまざまな記録がかかる。


エントリーNo.1795 男性ブランコ

2011年結成/吉本興業
初出場

コントで勝負するために2017年に大阪から東京へ拠点を移し、2021年の『キングオブコント』で準優勝。しかし今年は準々決勝で敗退した。『キングオブコント』に向けて毎月コントライブを開催していただけに「すごく落ち込んだ」というが、その悔しさを『M-1』への活力にして初の決勝進出を決めた。

エントリーNo.2852 さや香

2014年結成/吉本興業
5年ぶり2回目(2017年、7位)

結成3年目で決勝に初進出。このときの出順はマヂカルラブリーが上沼恵美子から酷評を受けた直後だった。その後、『第49回NHK上方漫才コンテスト』で優勝するなど関西を中心に開催される賞レースでは結果を残してきたが、『M-1』の決勝には届かず。しかし今年、5年ぶりに決勝の舞台に返り咲いた。

エントリーNo.3312 ウエストランド

2008年結成/タイタン
2年ぶり2回目(2020年、8位タイ)

2020年、タイタン所属の芸人として初の決勝進出。昨年は準々決勝で敗退したが、今回はキュウとそろって決勝進出を決めた。各出場者が自由にボケていた決勝進出者発表会見では井口浩之がツッコミ役に徹していた。

エントリーNo.3402 キュウ

2013年結成/タイタン
初出場

SMA NEET Project、オフィス北野、フリー時代を経て2018年にタイタンへ所属。昨年の敗者復活戦では最下位だったため、一昨年最下位だったランジャタイにつづいて、敗者復活戦最下位からの決勝進出となる。

エントリーNo.4491 カベポスター

2014年結成/吉本興業
初出場

2022年は『第11回ytv漫才新人賞』『第43回ABCお笑いグランプリ』と、若手芸人の登竜門といわれる大会で優勝。今年QJWebで実施したインタビューでは「『M-1』で決勝に行けなかったら、去年、一昨年より悔しい」と語っていた。

エントリーNo.4948 ロングコートダディ

2009年結成/吉本興業
2年連続2回目(2021年、4位)

『キングオブコント』2020、2022のファイナリストで、『M-1』の決勝も昨年につづき2度目。昨年はネタ中のキーワードであった「肉うどん」がトレンド入りし、あいみょんもツイッターで「肉うどんって曲作りたい!ロングコートダディ大好き!」と反応していた。
2022.12.18 13:47 | 固定リンク | エンタメ
「俺は本当のお父さんじゃないからね」“いしだ壱成”
2022.12.17

母の彼氏から「俺は本当のお父さんじゃないからね」と…16歳で父・石田純一と再会した“いしだ壱成”(48)が明かす、自給自足の幼少期

借金、娘への仕送り、トルコでの植毛…48歳になったいしだ壱成の現在地「しょぼくれた駄目なおじさんではなく、俳優である自覚を持った」 から続く

 3度の離婚や病を乗り越え、俳優として復活の兆しを見せつつあるいしだ壱成。他方では、父・石田純一をはじめ、賑やかなファミリーの一員としても知られている。あらためてその家族観にスポットをあてた。(全3回の2回目/ 続き を読む)

◆◆◆

実の父親が俳優の石田純一だと知った時
――ご家族と生い立ちについて、あらためてお聞きしたいと思います。いしださんが物心ついた時には、両親はすでに離婚されていたそうですが、実の父親が俳優の石田純一さんであると知ったのは何歳の時ですか?

いしだ 小学校1年の時ですね。学校から帰ったらテレビがついていて、母がおもむろに「これ、お父さんよ」と画面を指差したんです。それが父の顔を初めて見た瞬間で、幼いなりに「芸能人なんだ」という驚きと、「本当かな?」という疑いがないまぜになったのを覚えています。

――父親という概念すらまだ曖昧だったのでは。

いしだ そうですね。ただ、母にも当時彼氏はいて、それが僕にしてみればお父さんのような存在ではありました。学校の友達が遊びに来た時など、いつも「誰?」と聞かれるんですが、僕もよくわかっていないから暫定的に「お父さん」と答えていたんです。

 で、友達が帰ったあとに、「いや、俺は本当のお父さんじゃないからね」、「そんなのわかってるよ」みたいなやり取りがたびたびあって。そんな複雑な状況もあったから、母はテレビに石田純一が映った時に、「お父さんよ」と教えてくれたのだと思います。

――なるほど。ところでいしださんは幼少期、国内外のコミューンを転々とする生活だったと耳にしたことがあります。どんな日常を送っていたのでしょう?

いしだ うちの母(星川まり)とその兄、つまり伯父(星川淳)はどちらも作家で、2人は60年代から70年代にかけて、アメリカからヒッピー文化を日本に持ち込んだ人なんです。日本におけるカウンターカルチャーとして、反戦やラブ&ピースといった思想を訴えていた人たちで、コミューンという共同体、共同生活の概念もこの時に始まったと聞いています。

 僕が物心ついた70年代後半は、我が家は東京・三鷹のコミューンで暮らしていて、その後は八ヶ岳や屋久島に移り住みました。基本的にずっと自給自足の生活なので大変でしたけど、学校にはなるべく行くようにしていましたね。

幼少期の自給自足生活
――自給自足というのは、具体的にはどのような生活なんですか?

いしだ 朝4時に起きて、まずは山道を30分ほど歩いて川に水を汲みに行くんです。3往復して水を溜めたら、薪を割って火を起こし、お湯を沸かします。そのあたりでいったん母を起こしに行って、それからまたヤギの乳搾りをしたり、鶏小屋に卵を取りにいったりして、ご飯の材料を揃えるのが朝の日課でした。

 朝食を済ませたら、今度は畑仕事です。僕の役割は、肥料にする家庭から出た糞尿を、バケツで畑に運ぶことでした。こんなことをやっていると、あっという間に1日が終わってしまうんですよ。

――遊びたい盛りの時期なのに、不満はありませんでしたか。

いしだ たいてい午後3時くらいになると、大人たちが「遊んできな」と言ってくれるので、そこまででもなかったですね。コミューンに同い年の従兄弟がいたので、2人で山を駆け回りながら食べられる木の実を探したり、海まで走って行って釣りをしたり、それなりに楽しんでいましたよ。

 中学生になってからは、オーストラリアに留学させてもらうことになったので、そうしたコミューンでの暮らしとは縁遠くなりましたけど。

――実の父である石田純一さんと、初めて対面したのはいつでしょうか。

いしだ 16歳の時でした。留学先のオーストラリアから戻って来て、半年くらいアルバイトをしてお金を貯めて、今度はニューヨークかロンドンに行こうと思っていたんです。するとそのタイミングで、父の姉にあたるジャズシンガーの石田桃子のコンサートに母と2人で行くことになって。そこに純一さんも来ていて、ついに再会です。

――やはりそれは“再会”なんですね。

いしだ うん、そうでしたね。お互いに顔を見るなり「わあー」と声をあげました。もちろん一緒に暮らしていた記憶はないし、僕からすればお父さんというより芸能人なんですけど、そこはやっぱり親子なので、ちょっと不思議な感覚ではありました。

演技経験ゼロからのドラマ出演
 それから父との交流が始まるのですが、まったく話題がないんですよ(笑)。一緒に車に乗っていても、最初はいつもシーンとしていました。でもある時、父が「将来はどうするんだ」と聞いてきたので、「ミュージシャンになりたい」と答えたら、「芝居には興味ないのか?」と言われて。その流れで父に「ドラマに出てみないか」と誘われたことが、芸能界入りのきっかけになりました。

――しかし、その時点では、まだ演技経験はゼロの状態ですよね。

いしだ ゼロですね。でも、父も俳優として全盛期でしたから、強力なコネクションをたくさん持っていたんです。次の日にフジテレビに連れて行かれて、いろんなプロデューサーさんと会うことになるのですが、そこで「芝居の経験はなくても、リアリティがあるよな」と言われ、いきなりドラマ出演が決まったんです。『悲しいほどお天気』(1992年)という作品でした。

――リアリティとはどういう意味だったのでしょうか。

いしだ それが僕にもわからないんですよ。今にして思えば、そういうのも含めてバブル景気の頃のノリだったのかもしれません。もちろん演技はまるでできていなくて、デビュー作はいまだに絶対見返したくない作品の1つです。

――それでも俳優として生きていく決意をされたのはどうしてでしょうか。

いしだ 本当は、もう二度と芝居なんてやりたくないと思っていたんです。そこで父に「申し訳ないけど、やっぱり……」と言おうとしたら、「次のドラマ、決まったよ」と言われてしまって。僕としてはまったくやる気はなかったのですが、観月ありささんの相手役だというので、二つ返事で引き受けてしまいました(笑)。

 結局、演技修行らしいことはしていなくて、たまに父にアドバイスをもらいながら現場で叩き上げられていった感じです。

――これまで、とくに印象深い作品は何ですか。

いしだ ひとつの転機になったという意味では、TBS系のドラマ『未成年』(1995年、TBS系)ですね。その前の『ひとつ屋根の下』(1993年、フジテレビ系)の頃はまだまだ手探りで、スタッフの方から毎日怒られながら、本当にいろんなことを叩き込まれました。リテイクの際も、「お前のせいでもう一回撮らなきゃ」などと言われながら、毎日歯を食いしばって頑張っていました。

 そうした中で俳優としての自分を徐々に育んでいって、それがある程度確立できた手応えが得られたのが、『未成年』で演じた戸川博人役でした。野島伸司さんの脚本の妙もあるのでしょうけど、この作品では自然な自分をそのまま投影するように演技ができて、すごく満足している仕事です。

松原千明さんの訃報を受けて
――そうした経緯を踏まえれば、今また俳優として表舞台に帰ってこられたことを、石田純一さんも喜んでいるのでは?

いしだ そうかもしれませんね。お互いにけっこうしんどい時期が重なっていましたから(笑)。父は父で、コロナ禍に出歩いてかなりバッシングされましたけど、最近は落ち着いてきて、またCMが決まったりしているようですよ。

――一方で、松原千明さん(石田純一の2人目の妻)の訃報は残念でした。いしださんにとっても母親に近い存在だったそうですね。

いしだ そうですね。海外に滞在している時に、メディアの方が連絡をくれて知りました。まさに『ひとつ屋根の下』を撮っていた苦しい時期に支えてもらった方で、愚痴や泣き言も含めて本当にいろんな話を聞いてもらいました。

 訃報を受けてまず頭に浮かんだのは、すみれのことでした。実の母が亡くなったわけですから、大丈夫かなと。何かヘルプできることがあれば駆けつけたいとは思っていますが……。とにかく残念でなりません。

――これから手掛ける作品や海外進出など、松原さんにも見守ってほしかったですね。

いしだ 本当にそうですね。きっと「壱成ちゃん、頑張ってるのね」と言ってくれたと思います。それに、彼女も女優ですから、僕のつくる作品に出てもらいたかったというのもあります。

 こうしていろいろ考え始めると本当に辛いですけど、今は自分にできることを精一杯やるしかありません。千明さんも絶対にそれを望んでいるはずですからね。( #3 に続く)

写真=三宅史郎/文藝春秋

父・石田純一からは「モテるのはいいけどさ、ほどほどにね」と…3度の離婚、5人の彼女を持つ“いしだ壱成”(48)が明かした、4度目の結婚願望 へ続く
2022.12.17 16:51 | 固定リンク | エンタメ
お笑い「イエスマン」なぜ40代で総務省を辞めて芸人に?
2022.12.17

元キャリア官僚と慶應卒のお笑いコンビ・イエスマン なぜ40代で総務省を辞めて芸人に?

 年末恒例のお笑い番組「M-1グランプリ」は、〈日本一の若手漫才師を決める大会〉として知られる。毎年、参加者は増え続け、18回目の今年は史上最多の7261組を記録した。

 その中の1組がボケ担当の元官僚芸人まつもと(44)と、ツッコミのコメ(29)の二人。今年9月に“元官僚芸人”を看板に掲げたお笑いコンビ「イエスマン」を結成したばかりで、大手の松竹芸能の養成所で勉強中だ。

「芸人として、売れるところまで達するのは本当に難しい。でも、異色の経歴を持つ僕たちだからこそ、できることがある」

 と力を込めるまつもとは、京都の進学校・洛星高校から京都大学経済学部に進学。大学院では情報学を専攻したエリートだ。修了後は総務省に入省し、霞が関で9年を過ごした過去を持つ。

「総務省は情報通信を管轄しているので、僕の研究内容と合っていた。当時は超の字のつく就職氷河期で、100社以上を受験してことごとく不合格。最後の最後で、何とか総務省に滑り込むことができたんです」

「国家の前ではちっぽけ」
 官僚時代は総務省にとどまらず、財務省や内閣官房、さらには岩手県庁への出向も経験したという。

「財務省では会見で使う大臣のコメント作りや、経営破綻した日本航空の再生スキーム作りに携わったことも。岩手での勤務は震災前でしたが、その後、僕の前に座っていた職員の実家が流されたとも聞きました」

 人並みに立身出世を望んで飛び込んだはずが、

「やりがいを感じることが少なくて、それで絶望しちゃったんです。各部署の利権や思惑が重なりあっている世界ですし、あまりに組織が巨大過ぎて、たとえ事務次官でも一人では行政のあり方をなかなか変えられない。どんなに志はあっても国家の前では一個人の存在はあまりにちっぽけ。自分が何をしているのか、何のためにここにいるのか分からなくなってしまった」

 まつもとは当時の自分を「歯車でさえない。むしろネジ」と振り返る。

官僚芸人がいないと気付き…
 そんな彼が芸人を目指した理由とは。

「もはや官僚を辞めることに迷いはなく、当時が40歳を迎えるタイミングだったことも理由の一つ。社会人は課長クラスになるまでは日常をソツなくこなすことが大切ですが、その先は周囲より秀でた強みがないと生き残りは厳しいですから」

 果たして自分はこの先何ができるのか、何をしたいのかとセカンドキャリアを思案する日が続いたという。

「そんな時に見た、厚切りジェイソンさんが印象的で。お笑いとビジネスを両立させている姿に、お笑い界に“官僚芸人”がいないと気付かされた。それなら元官僚という肩書きを最大限に活用して、芸人としてビジネスや政治の話を面白く、分かりやすく伝えたいと思い立った。芸人といってもクイズが得意な人もいれば、家事や家電に詳しい人もいますからね」

相方も高学歴
 突飛にも思える構想に付き合うのは、慶應大学経済学部を卒業し、現在は大手金融機関に勤務するコメだ。

「休日などに体の可動域を広げようとストレッチに通ったりしているうち、そのお金を自己投資の一環というか、モノより経験に使おうと考えたんです。何か仕事にも生きるようなことに費やしたいと。もともとお笑いは好きで、勤め人をしながら養成所って通えるものかと調べていると、松竹芸能の養成所が土日に通えることが分かった。すぐに“行ってみよう”と思い立ちましたよ」(コメ)

 狙いはバッチリだった。

「取引先との会話の際に、“お笑いをやってるんです”と言うと、すぐに打ち解けられたり。養成所では発声練習もあって、いかに自分が会社でハリのない声でしゃべっているかという点に気付かされたことも」(同)

 当面の目標は「M-1グランプリで3回戦に進出すること」と口をそろえる。二人の挑戦は始まったばかり――。
2022.12.17 16:43 | 固定リンク | エンタメ

- -