小澤征爾さんの残したもの
2024.02.09
小澤征爾さんは、世界的な指揮者として多くの名演奏を残しました。ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督を日本人で初めて務めたほか、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉団員にも選ばれました。

小澤さんは、音楽を通して人と人の心をつなげることができるという信念を持ち、国内外で多くの音楽教育活動にも取り組みました3。小澤さんは、日本の文化勲章やアメリカのハーバード大学名誉博士号など、数々の栄誉を受けました。小澤さんは、音楽界に偉大な芸術的遺産を残しました。ご冥福をお祈りします。

またこの名誉博士号称号は、ハーバード大学が「人類の知的・文化的・社会的発展に顕著な貢献をした人物」に贈るもので、小澤さんは音楽家として初めて受賞しました。

小澤さんは、ハーバード大学の卒業式に出席し、学生たちに「音楽は人間の心を豊かにし、平和と調和をもたらす力がある」というメッセージを伝えました。

小澤さんは、ハーバード大学との関係を深め、2002年には同大学の教授に就任し、音楽教育にも尽力しました。小澤さんは、ハーバード大学からの名誉博士号を「私の人生の中で最も大切なものの一つ」と語っていました。

■指揮者の小澤征爾さん死去、88歳 戦後日本のクラシック界を牽引

 世界の楽壇の第一線に立ち続け、戦後日本のクラシック音楽界を牽引(けんいん)した指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全で死去した。88歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を検討しているという。

 事務所によりますと、小澤征爾さんは6日、心不全のため都内の自宅で亡くなりました。葬儀は近親者ですでに執り行われたということです。

 小澤さんは2010年に食道がんが見つかり、国内外の公演をすべてキャンセルして治療に専念し、7カ月後に公演に復帰しました。

 小澤征爾さんは、1935年、中国・瀋陽(旧奉天)生まれ。ピアノに才能を示したが、ラグビーで指を痛めたため指揮に転向。高校時代に作曲家の山本直純、名チェリストでもあった斎藤秀雄のもとで指揮の勉強を始める。桐朋学園短大を経て渡欧し、59年に仏ブザンソン国際指揮者コンクールで日本人初の優勝を果たした。

 カラヤンに弟子入りし、61年にはバーンスタインにも才能を認められ、ニューヨーク・フィルの副指揮者に。ウィーン・フィルやベルリン・フィルなど世界の名門楽団と共演を重ねた。武満徹が和楽器とオーケストラの融合に挑んだ「ノヴェンバー・ステップス」の67年のニューヨーク初演は世界的な話題となった。

 カナダのトロント交響楽団を経て70年、米タングルウッド音楽祭の芸術監督とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に。73年から29年間、ボストン交響楽団の音楽監督を務めた。2002~10年にはオペラの最高峰、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。02年には日本人指揮者で初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに登壇した。

■「戦争に出口はある…」若きマエストロが語る いま“音楽”にできること

 アメリカのボストン交響楽団を率いる世界的な指揮者が、5年ぶりに来日し、小澤征爾さんと一緒に観客の前に姿を見せました。この困難な時代、2人にはクラシック音楽を通して伝えたいことがありました。

 その瞬間は、音楽ファンにとって感動的だったと言います。長野県松本市で開かれた音楽祭。世界的指揮者のアンドリス・ネルソンスさんが国内外の一流奏者が集まるサイトウ・キネン・オーケストラをはじめて指揮し、そのカーテンコールにオーケストラの生みの親である小澤征爾さんが登場したのです。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「セイジは日本人にとってだけではなく、世界中のすべての音楽家にとっての伝説なのです。セイジは本気で応援してくれる人です。素晴らしい指揮者であると同時に、クラシック音楽の未来について考えてくれています」

 小澤さんこそ、ネルソンスさんに大きなきっかけをもたらした人物でした。がんが見つかった小澤さんは、2010年に活動を一時休止。当時、30代の若手指揮者だったネルソンスさんが代役としてウィーン・フィルを指揮し、注目されました。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「(20世紀の偉大な指揮者の)カラヤンやバーンスタインからセイジは支援を得たと思うのです。だから同じように若い指揮者を支援してくれるのだと思います」

 2014年、ネルソンスさんは小澤さんが育て、愛したボストン交響楽団の音楽監督に就任。そのボストン交響楽団は2022年11月、新型コロナの流行を挟み、5年ぶりに来日ツアーを行いました。ネルソンスさんは日本での公演は特別だと話します。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「こんなことが起きるのは日本だけです。聴衆が指揮者らを大きな拍手で出迎えたあと、次の瞬間、一瞬で静まり返るのです。ここではすべてが音楽に捧げられています。大切なことは、私たちは音楽をともにつくり、愛する日本のお客様と音楽を共有するためにここにいるということです。この場所に戻ることができて本当に感激しています」

 東京・サントリーホールでの公演では19世紀末から、20世紀初頭にかけて活躍した作曲家マーラーの「交響曲第6番」を演奏。5年ぶりとなる公演に観客席から大きな拍手が起こりました。

 観客:「一音目が鳴った瞬間にこんなにすごい音が鳴るんだという感覚を得たのが本当に久しぶりだった」「同じ空気を伝って、あらゆるものを感じられるので生きていてよかったとか」

 ネルソンスさんは1978年、当時ソ連の一部だったラトビアで生まれました。音楽家の両親とともに5歳のときに観たオペラ「タンホイザー」が後の人生に大きな影響を与えたと語ります。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「照明が暗くなり、指揮者がやってきて…。その時、あの素敵な指揮者と同じことをしてみたいと無意識のうちに思ったのです」

 トランペット奏者として音楽の“壮大な旅”を歩み始めたネルソンスさんは、指揮者に転向。若くして頭角を現し、小澤さんとの出会いなどもあり、今や世界中を飛び回る多忙な日々を送ります。

 新型コロナという厳しい時代を経て、生演奏のコンサートに代わるものはないと強調するネルソンスさん。公演前に日本の中高生を招いて、ロシアの音楽家ショスタコービッチが作曲した「交響曲第5番」のリハーサルを披露しました。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「若い世代は音楽を感じたい、必要だと思っていてオーケストラが奏でる音に興味を持っていると思います」「音楽は音の世界です。音楽が作り出す音の雰囲気や柔らかさ、かよわさ、怒りなどを感じてほしいのです」「(ショスタコービッチが作曲したのは)恐ろしい権力に対するある種の抵抗だったのでしょう。いつか状況は良くなるだろうという気持ちがあったのだろうと思います」

 中高生との交流の後のインタビューでネルソンスさんは、ショスタコービッチが「交響曲第5番」を作曲したのは、ソ連の指導者スターリンによる圧政が行われていた時代だったと教えてくれました。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「大切なのは心の中にあるものや雰囲気を音楽を通してどう表現したいかです。特に今のようなロシアとウクライナの間で人が殺される世界ではなおさらです。ショスタコービッチが作曲した時代に近づいていて、以前よりもっと恐ろしいことになっています」

 短いインタビューのはずがネルソンスさんは予定時間を大幅に超え音楽への思いを語ってくれました。

 東京・サントリーホールでの公演後、ネルソンスさんは大きな拍手を送る聴衆に向かってメッセージを送りました。クラシックのコンサートでは、指揮者が聴衆に語りかけるのは異例のことです。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「お客様同士、また観客とオーケストラとのつながりは素晴らしいもので、それはこの戦争やパンデミックなどのひどい状況に出口があることの証明です。誠実さや善意を持てば世界には可能性があると思うのです。私たちは世界が良くなるよう感化できます。音楽はその一つの手段だと思っています」

■25歳で見せた歴史的瞬間、西洋に起こした革命 小澤征爾さんを悼む

 「小澤の目力」という言葉を、楽員たちからよく聞く。目が合った瞬間、無意識に音が出てしまう。なのに、なぜか他の奏者たちとぴったりそろってしまうのだと。

 制するのではなく、技術と気の独創的な融合により、壁を壁とせず、東洋人にクラシックはできないという偏見に挑戦状を突きつけてきた。規格外の才能を花開かせたのは、やりたいことを絶対にやり抜く意志力、桁外れの行動力、そして愛すべき無鉄砲さだった。

 1950年代末、1台のスクーターと貨物船に乗り、63日かけて欧州へ。日の丸付きのヘルメットをかぶり、ギターを背負って国から国へ。

 パリに漂着し、腕試しにと受けたブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。ほかのコンクールもどんどん勝ち抜き、カラヤンに弟子入りし、名門ニューヨーク・フィルの副指揮者に大抜擢(ばってき)。躍進ぶりも規格外だった。

 「ねえ先生。僕、バーンスタイン先生に教えてもらいにアメリカに行ってもいいかな」

 そう、帝王と呼ばれたカラヤンにも屈託なく尋ねた。周囲からライバル扱いされていた2人だが、小澤さんにとっては最高の音楽を奏でる「同志」でしかなかった。物おじしない奔放な振る舞いを保守的な日本の楽壇がもてあまし、対立したNHK交響楽団に公演をボイコットされる事件も起きた。

■3年ぶりにタクトを握った小澤征爾さん、宇宙に向けて演奏した

 指揮者の小澤征爾さんが23日に長野県松本市のキッセイ文化ホールで、総監督を務めるサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を指揮した。同オーケストラ財団が24日、発表した。指揮自体は約3年ぶりという。演奏会はSKOと宇宙航空研究開発機構(JAXA)が共同で企画。無観客での演奏だったが、宇宙飛行士、若田光一さんが滞在する国際宇宙ステーションに向けて生中継されたという。

 小澤さんは「ぼくらの演奏を宇宙へ届けられるなんて……驚きます。いまは宇宙にいる若田さんと、また会えることもとても楽しみです……宇宙で、音楽はどんなふうに聴こえるのだろう。地球ではコロナの感染症や戦争で、たくさんの大人たち、子どもたちが苦しみ、悲しんでいます。音楽は、言葉も国も宗教も政治も超えて、人と人のこころをつなげることができる――音楽を通して、僕らは同じ星に住む、同じ人間であることを感じて、みんなでひとつになれることを願っています」とコメントした。

 若田さんも「今回のJAXAとサイトウ・キネン・オーケストラとの共同企画は『科学技術と音楽はあらゆる垣根を超え人類に幸せをもたらす』を体現し、世界を一つにまとめてくれる力がある、と感じています。困難なことが多い時代に生きる我々に、今回の企画は勇気と希望を与えてくれると信じています」などとコメントを発表した。

 当日は、コロナ禍やウクライナ侵攻などの困難が続く中でも地球に住む者同士で協力し合おう、との意味を込め、ベートーベンの「エグモント序曲」が演奏されたという。

■「人間がみんなやることをやって、はじめて音楽家になれるんです」 小澤征爾さん30年前のインタビュー
 世界の楽壇の第一線に立ち続け、戦後日本のクラシック音楽界を牽引(けんいん)した指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全で死去しました。88歳でした。

 1994年に朝日新聞夕刊に4回にわたって掲載された小澤さんのインタビュー記事を配信します。

 日本より海外での知名度が高い「サイトウ・キネン・オーケストラ」。その欧州演奏旅行に同行した。アテネ、ケルン、ザルツブルク。聴衆の熱狂は、すごいものだった。そして長野県松本市でのフェスティバル。

 三十五年前、貨物船にスクーターを積み、身一つで日本を飛び出した二十三歳の小澤青年は、今年五十九歳になった。

 ボストン交響楽団の音楽監督を二十一年。「おれはいま、寝ても覚めてもサイトウ・キネンだよ」という。そして「出来れば、日本に帰りたい」とも。

※小澤征爾(オザワ セイジ) 指揮者。

1935年生まれ、中国出身。

1959年、『ブザンソン指揮者コンクール』で1位を獲得。

73年、ボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任。02年~10年までウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。

92年、国際的音楽祭『サイトウ・キネン・フェスティバル松本』の総監督に就任。『米国ハーバード大学名誉博士号』

(00)、『フランス・ソルボンヌ大学名誉博士号』(04)、『フランス・レジオン・ドヌール勲章オフィシエ』

(08)、『日本国文化勲章』

(08)、『松宮殿下記念世界文化賞』

(11)、ケネディ・センター名誉賞

(15)など数々の賞を受賞。

16年、小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ『ラヴェル:歌劇“子どもと魔法”』が、『第58回グラミー賞』最優秀オペラ録音賞を獲得。

※セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督

1935年、中国のシャンヤン(旧奉天)生まれ。幼いころからピアノを学び、成城学園中学校を経て、桐朋学園で齋藤秀雄に指揮を学んだ。

1959年、ブザンソン指揮者コンクールで第1位を獲得。当時ボストン響の音楽監督であり、このコンクールの審査員であったシャルル・ミュンシュに翌夏タングルウッド音楽祭に招かれた。その後、カラヤン、バーンスタインに師事、ニューヨーク・フィル副指揮者、シカゴ響ラヴィニア・フェスティバル音楽監督、トロント響音楽監督、サンフランシスコ響音楽監督を経て1973年にボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任、アメリカのオーケストラ史上でも異例の29年という長期にわたって務めた。

ボストン交響楽団の音楽監督としてオーケストラの評価を国際的にも高め、1976年のヨーロッパ公演および1978年3月の日本公演で多大の成果を挙げる。

1981年3月には、楽団創立100周年を記念して、アメリカ14都市演奏旅行を果たし、同年秋には、日本、フランス、ドイツ、オーストリア、イギリスを回る世界公演を実施。

その後も1984年、1988年、1991年にヨーロッパ公演と198年、1989年、1994年、1999年には日本公演を行い、いずれも絶賛 を博す。

1978年には、中国政府の公式招待により、中国中央楽団と1週間にわたって活動したのをはじめ、1年後の1979年3月にはアメリカのオーケストラとしては初めてボストン響を率いて再度訪中し、意義深い音楽・文化交流を果たした。

それ以来、中国とは深い関係を築いている。他にも、1973年6月にはサンフランシスコ響を率いて、モスクワ(ソビエト連邦・当時)を訪れ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチと共演している。

2002年秋には、東洋人初のウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任、2010年春まで務めた。

欧米での評価と人気は絶大なものがあり、これまでにベルリン・フィル、ウィーン・フィルをはじめとする多くのオーケストラ、ウィーン国立歌劇場、パリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、フィレンツェ歌劇場、メトロポリタン・オペラなど主要オペラハウスに出演している。

日本においては、恩師・齋藤秀雄を偲び、没後10年の1984年に、秋山和慶らの仲間に声を掛け、メモリアル・コンサートを東京と大阪で開催。それを母体としてサイトウ・キネン・オーケストラへと発展させ、1987年、1989年、1990年にはヨーロッパ公演を、1991年にはヨーロッパ、アメリカ公演を行い絶賛を博した。

1992年からは、芸術的念願であった国際的音楽祭“サイトウ・キネン・フェスティバル松本”へと発展させ、総監督に就任(~継続中)。その後もサイトウ・キネン・オーケストラは、1994年、1997年、2001年、2004年、2010年、2011年に海外ツアーを実施。フェスティバルは、2015年より、“セイジ・オザワ 松本フェスティバル”として新たなステージに踏み出した。

また、1996年にサイトウ・キネンの室内楽勉強会から始まった室内楽アカデミー奥志賀を、アジア圏の優秀な学生に門戸をひろげる小澤国際室内楽アカデミー奥志賀として2011年にNPO法人化。一方で、実践を通して若い音楽家を育成するための“小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト”(2000年~)、および“小澤征爾音楽塾オーケストラ・プロジェクト”(2009年~)を公益財団法人ローム ミュージック ファンデーションの支援を受けて精力的に展開。

2005年にはヨーロッパにおける音楽学生を対象にしたSeiji Ozawa International Academy Switzerlandをスイスに設立し、教育活動に力を注いでいる。その他、水戸室内管弦楽団とは1990年の創立時より親密な関係にあり、2013年からは同楽団の総監督を務めると共に水戸芸術館 館長も務めている。さらに、新日本フィルハーモニー交響楽団とは創立に携わり、長期にわたり活動を続けた。

これまでに国内外で受賞した賞には、朝日賞(1985)、米国ハーバード大学名誉博士号(2000)、オーストリア勲一等 十字勲章(2002)、毎日芸術賞(2003)、サントリー音楽賞(2003)、フランス・ソルボンヌ大学名誉博士号(2004)、ウィーン国立歌劇場名誉会員(2007)、フランス・レジオン・ドヌール勲章オフィシエ(2008)、フランス芸術アカデミー外国人会員(2008)、日本国文化勲章(2008)、イタリア・プレミオ・ガリレ2000財団・金百合賞(2008)、ウィーン・フィルより日本人として初めて「名誉団員」の称号(2010)、高松宮殿下記念世界文化賞(2011)、渡邉暁雄音楽基金特別賞(2011)、ケネディ・センター名誉賞(2015)などがある。2016年、サイトウ・キネン・フェスティバル松本 2013で録音された小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラによるラヴェル:歌劇「こどもと魔法」のアルバムが、第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞。

同年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、東京都名誉都民の称号を贈られる。2022年3月、日本芸術院会員に選ばれた。
2024.02.09 20:37 | 固定リンク | 文化
ブルガリア監督受賞辞退/常間地監督「国際情勢を無視」
2023.04.30
常間地監督歓喜の上受賞「FSBに身も心も蹂躙」か


■モスクワ映画祭で受賞辞退 ブルガリア人監督、侵攻に抗議 常間地監督「国際情勢を無視」

 第45回モスクワ国際映画祭で、カナダ在住のブルガリア人映画監督テオドル・ウシェフ氏のSF作品が審査員特別賞に決まったものの、本人が受賞を辞退する騒動になった。

 ロシアのウクライナ侵攻の中、4月27日の閉幕式に際したビデオ演説で「子供、女性、高齢者を殺す命令が下される都市で受賞することはできない」とプーチン政権に抗議した。

 作品は「φ(ファイ)1.618」。ブルガリアのメディアによると、ウシェフ氏は、人々に映画を通じて「今のロシアを投影する全体主義世界とディストピア(反理想郷)」について考えてほしいという思いから出品を決めた。最高賞を競うコンペティション部門に入った。

 本人はモスクワ入りしなかったが、映画祭での4月23日の記者会見にビデオメッセージを寄せた。この中で、プーチン大統領を念頭に「すべての独裁は悪名高い人物が歴史の永遠の石に自分の名前を刻みたいという熱望によって生み出される」と糾弾した。

 ロシアが外国で自国文化の排除に見舞われていると訴えていることに関し、ウシェフ氏は侵略国にこそ非があると指摘。「戦争がロシア文化を破壊している。ミサイルが本を燃やし、爆弾が詩や映画を消している」と痛烈に批判した。

 27日のビデオ演説では「誠に遺憾ながら(受賞を)断らざるを得ない」と表明。トロフィーは、映画祭責任者で政権寄りの巨匠ニキータ・ミハルコフ氏に預け「モスクワで自由に呼吸できるようになったら取りに来る」と語った。「私は平和が訪れ、善が悪に勝つことを信じている」「戦争ではなく映画を作ろう」とも強調した。

 閉幕式のホールには公式メディアの国営テレビなどしか入れず、その他の報道陣は原則排除。ウシェフ氏の反戦スピーチは本人のフェイスブックに掲載され、ロシアでは独立系メディアが伝えるにとどまっている。

■モスクワ国際映画祭受賞式、常間地監督とサトウヒロキ氏出席「恥ずべきこと」

 モスクワ国際映画祭で、常間地裕監督の「この日々が凪いだら」で主演の瀬戸かほさんが最優秀女優賞を受賞しました。

 常間地裕監督「どのように届くのかというところ、すごく気になっていたので、国も文化も言語も越えて作品が届いたことをうれしく思います」

 授賞式は27日、モスクワで行われ、常間地監督と主演のサトウヒロキさんが出席しました。

 映画「この日々が凪いだら」は、横浜と横須賀を舞台に様々な変化に向き合う若者たちの心情を描いた作品です。

 モスクワ国際映画祭はカンヌやベルリンと並ぶ、世界的に権威のある映画祭の一つとされてきましたが、ロシアによるウクライナへの侵攻を受け、国際映画製作者連盟は昨年3月にモスクワ映画祭の認定を停止しました。

 常間地監督は、ANNの取材に「国際情勢を無視することはないが、この映画をロシアの人々に届けたい。純粋に届いていたら良いなと思う」と述べました。
2023.04.30 21:42 | 固定リンク | 文化

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