紫式部「私は誰にも惹かれておりません。心外です」
2024.03.10
藤原道長と紫式部の関係 二人は恋愛関係にあったのかは、「否です」。道長からのアプローチを断っている。彼女は「私は誰にも惹かれておりません。心外です」と返されております。

二人については、様々な説がありますが、恋愛関係にあったという確固たる証拠は存在しません。紫式部は、道長の娘・彰子の家庭教師であり、『源氏物語』の執筆を支援されたことは確かですが、愛人だったという記録は不確かです。

一部の史料では、紫式部が「源氏物語作者」「道長妾」と記されていることがありますが、その信憑性には疑問が残ります。また、紫式部自身の日記には、道長からのアプローチを断っているような記述も見られます。例えば、道長が紫式部に贈った和歌に対して、彼女が「私は誰にも惹かれておりません。心外です」と返したとされています。

紫式部と道長の関係は、教育係としての関わりや、文学作品のパトロンとしての支援という形で、お互いにとって重要な存在であったことは間違いありません。しかし、恋愛関係にあったとする説は、現在のところ確証に欠けると言えます。

紫式部と清少納言の逸話

二人は平安時代を代表する女性作家であり、それぞれ「源氏物語」と「枕草子」という文学作品を残しました。しかし、実際には彼女たちの間に直接的な面識はなかったとされています。清少納言が宮仕えをしていたのは西暦993年頃から1001年頃までで、紫式部が宮仕えを始めたのは1005年頃から1012年以降と言われており、その期間が重なっていません。

紫式部は一条天皇の中宮彰子に仕え、清少納言は中宮定子に仕えていました。彼女たちが仕えていた主君はいとこ同士でしたが、清少納言と紫式部が同じ宮廷で働いたことはなく、そのため直接的な関係は確認できません。ただし、紫式部が自身の日記で清少納言について酷評している記録があり、紫式部が一方的に清少納言をライバル視していた可能性があるとされています。

また、清少納言と紫式部の娘たちは共に彰子に仕えていたとされており、母親同士は面識がなかったものの、娘同士は同じ職場で働いていたという興味深い事実もあります。このように、彼女たちの関係は複雑であり、直接的な交流はなかったものの、文学作品を通じてお互いに影響を与え合っていたと考えられます。






長徳の変、花山法皇(花山天皇)が関与した乱闘事件で、藤原伊周が没落し、藤原道長の時代が始まる。望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」

藤原道長は、966年に生まれ、1028年1月3日に亡くなりました。道長は、摂関政治の全盛期を築き、絶大な権力を手に入れたことで知られています。

道長の権力期間は、995年の長徳の変で藤原伊周を失脚させてから始まります。この時、道長は左大臣に昇進し、一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てました。1016年には彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となり、翌年には摂政を嫡子の頼通に譲りましたが、実権を握り続けました。

道長は、摂関政治の最盛期を築き、その権力の絶頂にあったことで知られています。彼は有名な望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」を詠んでいます。晩年は糖尿病を病み、1027年に薨逝しました。没後、彰子所生の後朱雀天皇、六女の嬉子所生の後冷泉天皇が相次いで即位し、道長は三代の天皇の外祖父となっています。道長の権力期間は、彼の死去する1027年まで続きました。彼の息子の頼通は約50年間も権力を握り続けました2。道長の政治的影響力は、その後の平安時代の政治にも大きな影響を与えたと言えます。

995年に藤原道隆の死後に起きた政変で、藤原道長が内覧の宣旨を得た後に中関白家が排斥された出来事です。この政変により、道隆の一族である中関白家が政治的に影響力を失い、藤原道長の権力が確立されました。

具体的な経緯としては、藤原伊周が花山法皇が自分の愛する三の君に通っていると誤解し、弟の隆家に相談した結果、隆家が花山法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く事件が発生しました。この事件がきっかけで、中関白家の面々が連座して処断され、藤原伊周は大宰権帥に、藤原隆家は出雲権守に左遷されました。

この政変は、平安時代を通じて長く続いた死刑の停止が確立された重要な出来事としても認識されています。 また、長徳の変より150年後に発生した保元の乱を描いた『保元物語』にも言及されており、歴史的な影響が大きい事件であることがわかります。

藤原詮子の影響力

藤原道長の姉であり、一条天皇の母である詮子が、道長を後ろ盾として支持。

内覧の職

藤原道長は関白にはならず、内覧という強大な権限を持つ職に就く。

内覧の職は、平安時代において、摂政や関白、または特に宣旨を受けた大臣が、太政官から天皇に奏上する公文書を、奏上の前に内見し政務を代行すること、またはそれを行う者を指します。内覧は、摂政や関白が不在のときや、病気などで職務を行えないときに、摂政・関白に代わってその職を行う役職として設けられました。

内覧の起源は、897年に宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際し、藤原時平と菅原道真に奏請・宣行を行わせたことに始まります。その後、摂政・関白がいるにもかかわらず、他の者が内覧の宣旨を受けたこともありました。また、摂政・関白に補任された者が同時に内覧宣旨を下される例も多くなり、江戸時代には摂政関白に補任と同時に内覧宣旨をこうむるのが例となりました。しかし、明治維新に際し、内覧は摂政関白の制とともに廃止されました。

内覧は、天皇に奉ずる書類を事前に内々にチェックする、つまり事実上「決裁権」を持つということから、摂政・関白のメインの権限であったとも言えます。平安時代を通じて、内覧は政治的な影響力を持つ重要な職であったと言えます。

花山天皇の退位

藤原兼家の策略により、花山天皇は出家を余儀なくされ、退位する。

花山天皇の退位は、平安時代に起きた重要な出来事で、藤原兼家の策略によって引き起こされました。花山天皇は、984年に17歳で即位しましたが、986年にはわずか2年で退位させられました。この退位は「寛和の変」として知られています。

寛和の変の背景には、藤原兼家が自らの孫である懐仁親王(後の一条天皇)を早く皇位に就かせたいという野心がありました。花山天皇が寵愛していた女御・藤原忯子が急死したことで、天皇は深い悲しみに暮れ、出家を考え始めました。兼家はこの機会を利用し、天皇の側近であった自らの三男・藤原道兼を使って天皇に出家を促し、最終的に天皇を出家させることに成功しました。

花山天皇が出家した後、兼家は懐仁親王を即位させ、自らは摂政として権力を握りました。この出来事は、藤原北家による政治的影響力の拡大と、摂関政治の確立に大きく寄与したとされています。寛和の変は、後の平安時代の政治にも影響を与えた重要な事件であると言えます。

藤原氏の権力確立

花山天皇の退位後、藤原兼家の孫である懐仁親王が一条天皇として即位し、藤原氏の権力が確立される。

これらの出来事は、平安時代の政治史において重要な転換点となりました。藤原氏の権力が確立され、その後の日本の歴史に大きな影響を与えたのです。

平安時代の政治史において、藤原氏の権力確立は非常に重要な転換点でした。藤原氏は、律令国家建設に大きく貢献した一族であり、特に藤原北家は天皇家との縁組を通じて政治の中枢に位置しました。藤原冬嗣に始まり、藤原良房による摂関政治の確立まで、藤原氏は外戚関係を利用し、他氏排斥を行いながら権力を拡大していきました。

藤原氏は、天皇の外祖父となることを目指し、摂政や関白といった要職を世襲することで、天皇をも凌ぐ力を手に入れました。このようにして、藤原氏は平安時代の政治を大きく左右する存在となり、日本史における貴族政治の典型とも言える摂関政治を確立したのです。

藤原氏の権力確立は、平安時代の政治、社会、文化に多大な影響を与え、その後の日本の歴史においても重要な意味を持ち続けています。藤原氏による権力の集中と継承は、日本の政治体制における家族経営の特徴を形作る上で、決定的な役割を果たしました。また、藤原氏の台頭は、貴族社会の華やかな文化を生み出す背景ともなり、平安時代の文化的な発展にも寄与しました。この時代の政治的変化は、日本の歴史における重要な節点として、今日でも学ばれています。

死刑制度の停止(347年間、死刑執行停止)

平安時代における死刑制度の停止について、嵯峨天皇が弘仁9年(818年)に死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布したことが記録されています。この宣旨により、日本では347年間、死刑執行が停止されたとされています。この期間は、保元の乱が起こる保元元年(1156年)まで続いたと言われており、日本の歴史において重要な時期となります。
2024.03.10 21:16 | 固定リンク | 歴史

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