プーチン〝失脚〟の予兆
2022.12.17

周囲に異変続々、プーチン氏〝失脚〟の予兆 年末恒例の大規模記者会見の中止、連邦議会への年次報告も延期に 「ベンツ乗車事件」思わぬ悪目立ちも

ロシアのプーチン大統領に異変が生じている。ウクライナでの苦戦が続くなか、年末恒例の大規模記者会見を中止するほか、連邦議会への年次報告演説も来年にずれ込む見通しだ。そしてロシア国内では「ベンツ乗車事件」に国民の不満がくすぶっているという。政権のレームダック化が本格化している兆候なのか。

プーチン氏は毎年12月、モスクワで数百人~約2000人の報道陣を相手に数時間にわたって質疑応答するのが恒例行事になっていた。

6月にも20年以上にわたり実施してきた国民との直接対話を延期した。ロシア政治に詳しい筑波大学の中村逸郎名誉教授は「結局、直接対話も開催されていない。ウクライナ侵攻で地方から兵士を動員している実態もあり、補償などで責められることを恐れているのかもしれない。本人の体調面で体力がもたないことも考えられる。重要イベントが延期されれば、地方のプーチン氏離れはますます加速するだろう」とみる。

大統領が過去1年の内政外交の総括と今後の方針を議会に示す年次報告演説についても年内の実施が見送られる方向だ。

ウクライナ問題で追及されるのを避けようとしているように見えるプーチン氏だが、思わぬところで悪目立ちした。

今月5日、クリミア大橋をドイツ車のメルセデス・ベンツをみずから運転する様子が報じられた。同社は10月にロシアでの事業停止を発表したばかり。西側諸国を敵視するプーチン氏としては奇異な行動だった。

中村氏は「ロシア国内の自動車産業が西側の経済制裁で大打撃を受けているなか、ドイツ車のハンドルを握ったプーチン氏は国民の不満を買っているという。政権内の反プーチン派がわなにかけた可能性もあり、プーチン氏の影響力低下を表す出来事だ」と語った。

8日には、プーチン氏がグラスを手に話す動画がツイッターに投稿され、波紋を広げた。プーチン氏は、ロシア軍がウクライナの民間施設を攻撃している理由について説明しているのだが、酒に酔っているように見える。厳格な姿勢で知られるプーチン氏が公の場でこうした様子を見せるのは異例のことだ。

プーチン氏は15日、一方的に併合を宣言したウクライナ東部・南部4州の統合を進める決意を改めて表明するなど強気を崩さない。だが、水面下で亡命計画も報じられ、大統領府(クレムリン)では強硬派らとの勢力争いも取り沙汰されている。前出の中村氏は「もしプーチン氏が失脚すれば、強硬派が牛耳る政権が出来上がる可能性がある」との見方を示した。
2022.12.17 19:37 | 固定リンク | 戦争
「ワグネル」本部大爆発、被害甚大
2022.12.17

ウクライナ東部ルハンスク州のハイダイ知事は17日までに、同州にあるロシアの傭兵(ようへい)組織「ワグネル」の本部で爆発が起きたと述べた

ウクライナのメディアとの会見で、この模様を捉えた画像がオンライン上に流れ、甚大な被害が生じたことを伝えたとも語った。

知事によると、この本部は、ロシア占領地で親ロシア派勢力が名乗る「ルハンスク人民共和国」内の同州カディーウカ市の建物内にある。

ロシア国営のタス通信は、同市の「民間ホテル」で10日に爆発が発生したと伝えたが、ワグネルの活動との関係などには触れなかった。CNNはこのホテルとワグネルのつながりは独自に確認できなかった。

タス通信は、ホテルが入っている建物はウクライナ軍の高機動ロケット砲システム「HIMARS(ハイマース)」の攻撃で破壊されたと報道。その打撃の衝撃は同市中心部にも達したとした。

2014年に創設されたワグネルはウクライナ戦争に深く関与し、プーチン大統領の「影の部隊」とも評される。創設者のエフゲニー・プリゴジン氏はプーチン氏に近い新興財閥(オリガルヒ)の一員。ウクライナに加え、ロシアが勢力伸長を図るアフリカやシリアでも軍事任務の側面援助に当たっているとされ、人権侵害行為も再三指摘されている。

一方、ロシア政府当局者などは、アフリカ中部の中央アフリカ共和国の首都バンギでワグネルと深い関係があるロシア人男性の暗殺未遂事件が起きたと述べた。

プリゴジン氏の傘下企業によると、男性はバンギの「ロシア・ハウス」の運営責任者で届いた小包を手に取って開けたところ爆発した。容体は深刻だという。

プリゴジン氏によると、男性は意識を失って病院へ搬送される前に「全てのフランス人から贈る。ロシア人はアフリカから立ち去るだろう」と記されたメモを目にしたとの言葉を発したとした。
2022.12.17 19:11 | 固定リンク | 戦争
企業破綻劇、引き金になった1通の文書
2022.12.17

名古屋のハウスメーカー「寝耳に水」の破綻劇、引き金になった1通の文書

東海地区では中堅上位クラスのハウスメーカーであった考建が、6月30日に破産開始決定を受けた。リーマン・ショック以降の景気冷え込みなどで住宅需要は減少傾向を辿るなか、比較的持ち家志向の高い東海地区を地盤として事業を拡大。業績は堅調に推移していて、はた目には順調に見えていたなかでの急転直下に、驚きの声は多く聞かれた。

躓きの予兆がまったくなかったわけではない。金融機関からの借入は相応に嵩んでいて、財務内容については改善の余地ありという状態のなか、取引先の倒産で多額の焦げ付きが発生したことで資金繰りは悪化していた。

破綻に至った直接的な引き金となったのは、2022年初めに出された「支払い延期のお願い」というレターだ。取引先に対して送られたこの1通の文書が一気に当社に対する信用不安を高めてしまった。帝国データバンクへの問い合わせも殺到し、一時はスポンサー探しに動いていたとの情報もあったが、立て直すことは叶わなかった。

こうした情勢の急変に、驚いていたのが取引金融機関だ。返済猶予などの事前の相談は言わずもがな、月々の返済も約定通り行われていたとのことで「率直に言って寝耳に水という状態」(銀行融資担当)だったという。「一般論だが、約定通りに弁済が進んでいた融資先なら、リスケ要請があれば応じられたかもしれない」(別の銀行審査担当)というように、一般取引先に支払いができなくなるほどキャッシュが枯渇する前に金融機関に相談していれば、生きながらえ立て直すチャンスもあったかもしれない。

また、当社の破産申立書に債権者として記載があった金融機関は18行と、当社の業容からすると多過ぎる印象で、いざというときに頼れるメーンバンクの存在が希薄だった可能性は否定しきれない。多行取引には要注意、の典型例とも言えそうだ。

2022.12.17 18:07 | 固定リンク | 経済
「俺は本当のお父さんじゃないからね」“いしだ壱成”
2022.12.17

母の彼氏から「俺は本当のお父さんじゃないからね」と…16歳で父・石田純一と再会した“いしだ壱成”(48)が明かす、自給自足の幼少期

借金、娘への仕送り、トルコでの植毛…48歳になったいしだ壱成の現在地「しょぼくれた駄目なおじさんではなく、俳優である自覚を持った」 から続く

 3度の離婚や病を乗り越え、俳優として復活の兆しを見せつつあるいしだ壱成。他方では、父・石田純一をはじめ、賑やかなファミリーの一員としても知られている。あらためてその家族観にスポットをあてた。(全3回の2回目/ 続き を読む)

◆◆◆

実の父親が俳優の石田純一だと知った時
――ご家族と生い立ちについて、あらためてお聞きしたいと思います。いしださんが物心ついた時には、両親はすでに離婚されていたそうですが、実の父親が俳優の石田純一さんであると知ったのは何歳の時ですか?

いしだ 小学校1年の時ですね。学校から帰ったらテレビがついていて、母がおもむろに「これ、お父さんよ」と画面を指差したんです。それが父の顔を初めて見た瞬間で、幼いなりに「芸能人なんだ」という驚きと、「本当かな?」という疑いがないまぜになったのを覚えています。

――父親という概念すらまだ曖昧だったのでは。

いしだ そうですね。ただ、母にも当時彼氏はいて、それが僕にしてみればお父さんのような存在ではありました。学校の友達が遊びに来た時など、いつも「誰?」と聞かれるんですが、僕もよくわかっていないから暫定的に「お父さん」と答えていたんです。

 で、友達が帰ったあとに、「いや、俺は本当のお父さんじゃないからね」、「そんなのわかってるよ」みたいなやり取りがたびたびあって。そんな複雑な状況もあったから、母はテレビに石田純一が映った時に、「お父さんよ」と教えてくれたのだと思います。

――なるほど。ところでいしださんは幼少期、国内外のコミューンを転々とする生活だったと耳にしたことがあります。どんな日常を送っていたのでしょう?

いしだ うちの母(星川まり)とその兄、つまり伯父(星川淳)はどちらも作家で、2人は60年代から70年代にかけて、アメリカからヒッピー文化を日本に持ち込んだ人なんです。日本におけるカウンターカルチャーとして、反戦やラブ&ピースといった思想を訴えていた人たちで、コミューンという共同体、共同生活の概念もこの時に始まったと聞いています。

 僕が物心ついた70年代後半は、我が家は東京・三鷹のコミューンで暮らしていて、その後は八ヶ岳や屋久島に移り住みました。基本的にずっと自給自足の生活なので大変でしたけど、学校にはなるべく行くようにしていましたね。

幼少期の自給自足生活
――自給自足というのは、具体的にはどのような生活なんですか?

いしだ 朝4時に起きて、まずは山道を30分ほど歩いて川に水を汲みに行くんです。3往復して水を溜めたら、薪を割って火を起こし、お湯を沸かします。そのあたりでいったん母を起こしに行って、それからまたヤギの乳搾りをしたり、鶏小屋に卵を取りにいったりして、ご飯の材料を揃えるのが朝の日課でした。

 朝食を済ませたら、今度は畑仕事です。僕の役割は、肥料にする家庭から出た糞尿を、バケツで畑に運ぶことでした。こんなことをやっていると、あっという間に1日が終わってしまうんですよ。

――遊びたい盛りの時期なのに、不満はありませんでしたか。

いしだ たいてい午後3時くらいになると、大人たちが「遊んできな」と言ってくれるので、そこまででもなかったですね。コミューンに同い年の従兄弟がいたので、2人で山を駆け回りながら食べられる木の実を探したり、海まで走って行って釣りをしたり、それなりに楽しんでいましたよ。

 中学生になってからは、オーストラリアに留学させてもらうことになったので、そうしたコミューンでの暮らしとは縁遠くなりましたけど。

――実の父である石田純一さんと、初めて対面したのはいつでしょうか。

いしだ 16歳の時でした。留学先のオーストラリアから戻って来て、半年くらいアルバイトをしてお金を貯めて、今度はニューヨークかロンドンに行こうと思っていたんです。するとそのタイミングで、父の姉にあたるジャズシンガーの石田桃子のコンサートに母と2人で行くことになって。そこに純一さんも来ていて、ついに再会です。

――やはりそれは“再会”なんですね。

いしだ うん、そうでしたね。お互いに顔を見るなり「わあー」と声をあげました。もちろん一緒に暮らしていた記憶はないし、僕からすればお父さんというより芸能人なんですけど、そこはやっぱり親子なので、ちょっと不思議な感覚ではありました。

演技経験ゼロからのドラマ出演
 それから父との交流が始まるのですが、まったく話題がないんですよ(笑)。一緒に車に乗っていても、最初はいつもシーンとしていました。でもある時、父が「将来はどうするんだ」と聞いてきたので、「ミュージシャンになりたい」と答えたら、「芝居には興味ないのか?」と言われて。その流れで父に「ドラマに出てみないか」と誘われたことが、芸能界入りのきっかけになりました。

――しかし、その時点では、まだ演技経験はゼロの状態ですよね。

いしだ ゼロですね。でも、父も俳優として全盛期でしたから、強力なコネクションをたくさん持っていたんです。次の日にフジテレビに連れて行かれて、いろんなプロデューサーさんと会うことになるのですが、そこで「芝居の経験はなくても、リアリティがあるよな」と言われ、いきなりドラマ出演が決まったんです。『悲しいほどお天気』(1992年)という作品でした。

――リアリティとはどういう意味だったのでしょうか。

いしだ それが僕にもわからないんですよ。今にして思えば、そういうのも含めてバブル景気の頃のノリだったのかもしれません。もちろん演技はまるでできていなくて、デビュー作はいまだに絶対見返したくない作品の1つです。

――それでも俳優として生きていく決意をされたのはどうしてでしょうか。

いしだ 本当は、もう二度と芝居なんてやりたくないと思っていたんです。そこで父に「申し訳ないけど、やっぱり……」と言おうとしたら、「次のドラマ、決まったよ」と言われてしまって。僕としてはまったくやる気はなかったのですが、観月ありささんの相手役だというので、二つ返事で引き受けてしまいました(笑)。

 結局、演技修行らしいことはしていなくて、たまに父にアドバイスをもらいながら現場で叩き上げられていった感じです。

――これまで、とくに印象深い作品は何ですか。

いしだ ひとつの転機になったという意味では、TBS系のドラマ『未成年』(1995年、TBS系)ですね。その前の『ひとつ屋根の下』(1993年、フジテレビ系)の頃はまだまだ手探りで、スタッフの方から毎日怒られながら、本当にいろんなことを叩き込まれました。リテイクの際も、「お前のせいでもう一回撮らなきゃ」などと言われながら、毎日歯を食いしばって頑張っていました。

 そうした中で俳優としての自分を徐々に育んでいって、それがある程度確立できた手応えが得られたのが、『未成年』で演じた戸川博人役でした。野島伸司さんの脚本の妙もあるのでしょうけど、この作品では自然な自分をそのまま投影するように演技ができて、すごく満足している仕事です。

松原千明さんの訃報を受けて
――そうした経緯を踏まえれば、今また俳優として表舞台に帰ってこられたことを、石田純一さんも喜んでいるのでは?

いしだ そうかもしれませんね。お互いにけっこうしんどい時期が重なっていましたから(笑)。父は父で、コロナ禍に出歩いてかなりバッシングされましたけど、最近は落ち着いてきて、またCMが決まったりしているようですよ。

――一方で、松原千明さん(石田純一の2人目の妻)の訃報は残念でした。いしださんにとっても母親に近い存在だったそうですね。

いしだ そうですね。海外に滞在している時に、メディアの方が連絡をくれて知りました。まさに『ひとつ屋根の下』を撮っていた苦しい時期に支えてもらった方で、愚痴や泣き言も含めて本当にいろんな話を聞いてもらいました。

 訃報を受けてまず頭に浮かんだのは、すみれのことでした。実の母が亡くなったわけですから、大丈夫かなと。何かヘルプできることがあれば駆けつけたいとは思っていますが……。とにかく残念でなりません。

――これから手掛ける作品や海外進出など、松原さんにも見守ってほしかったですね。

いしだ 本当にそうですね。きっと「壱成ちゃん、頑張ってるのね」と言ってくれたと思います。それに、彼女も女優ですから、僕のつくる作品に出てもらいたかったというのもあります。

 こうしていろいろ考え始めると本当に辛いですけど、今は自分にできることを精一杯やるしかありません。千明さんも絶対にそれを望んでいるはずですからね。( #3 に続く)

写真=三宅史郎/文藝春秋

父・石田純一からは「モテるのはいいけどさ、ほどほどにね」と…3度の離婚、5人の彼女を持つ“いしだ壱成”(48)が明かした、4度目の結婚願望 へ続く
2022.12.17 16:51 | 固定リンク | エンタメ
お笑い「イエスマン」なぜ40代で総務省を辞めて芸人に?
2022.12.17

元キャリア官僚と慶應卒のお笑いコンビ・イエスマン なぜ40代で総務省を辞めて芸人に?

 年末恒例のお笑い番組「M-1グランプリ」は、〈日本一の若手漫才師を決める大会〉として知られる。毎年、参加者は増え続け、18回目の今年は史上最多の7261組を記録した。

 その中の1組がボケ担当の元官僚芸人まつもと(44)と、ツッコミのコメ(29)の二人。今年9月に“元官僚芸人”を看板に掲げたお笑いコンビ「イエスマン」を結成したばかりで、大手の松竹芸能の養成所で勉強中だ。

「芸人として、売れるところまで達するのは本当に難しい。でも、異色の経歴を持つ僕たちだからこそ、できることがある」

 と力を込めるまつもとは、京都の進学校・洛星高校から京都大学経済学部に進学。大学院では情報学を専攻したエリートだ。修了後は総務省に入省し、霞が関で9年を過ごした過去を持つ。

「総務省は情報通信を管轄しているので、僕の研究内容と合っていた。当時は超の字のつく就職氷河期で、100社以上を受験してことごとく不合格。最後の最後で、何とか総務省に滑り込むことができたんです」

「国家の前ではちっぽけ」
 官僚時代は総務省にとどまらず、財務省や内閣官房、さらには岩手県庁への出向も経験したという。

「財務省では会見で使う大臣のコメント作りや、経営破綻した日本航空の再生スキーム作りに携わったことも。岩手での勤務は震災前でしたが、その後、僕の前に座っていた職員の実家が流されたとも聞きました」

 人並みに立身出世を望んで飛び込んだはずが、

「やりがいを感じることが少なくて、それで絶望しちゃったんです。各部署の利権や思惑が重なりあっている世界ですし、あまりに組織が巨大過ぎて、たとえ事務次官でも一人では行政のあり方をなかなか変えられない。どんなに志はあっても国家の前では一個人の存在はあまりにちっぽけ。自分が何をしているのか、何のためにここにいるのか分からなくなってしまった」

 まつもとは当時の自分を「歯車でさえない。むしろネジ」と振り返る。

官僚芸人がいないと気付き…
 そんな彼が芸人を目指した理由とは。

「もはや官僚を辞めることに迷いはなく、当時が40歳を迎えるタイミングだったことも理由の一つ。社会人は課長クラスになるまでは日常をソツなくこなすことが大切ですが、その先は周囲より秀でた強みがないと生き残りは厳しいですから」

 果たして自分はこの先何ができるのか、何をしたいのかとセカンドキャリアを思案する日が続いたという。

「そんな時に見た、厚切りジェイソンさんが印象的で。お笑いとビジネスを両立させている姿に、お笑い界に“官僚芸人”がいないと気付かされた。それなら元官僚という肩書きを最大限に活用して、芸人としてビジネスや政治の話を面白く、分かりやすく伝えたいと思い立った。芸人といってもクイズが得意な人もいれば、家事や家電に詳しい人もいますからね」

相方も高学歴
 突飛にも思える構想に付き合うのは、慶應大学経済学部を卒業し、現在は大手金融機関に勤務するコメだ。

「休日などに体の可動域を広げようとストレッチに通ったりしているうち、そのお金を自己投資の一環というか、モノより経験に使おうと考えたんです。何か仕事にも生きるようなことに費やしたいと。もともとお笑いは好きで、勤め人をしながら養成所って通えるものかと調べていると、松竹芸能の養成所が土日に通えることが分かった。すぐに“行ってみよう”と思い立ちましたよ」(コメ)

 狙いはバッチリだった。

「取引先との会話の際に、“お笑いをやってるんです”と言うと、すぐに打ち解けられたり。養成所では発声練習もあって、いかに自分が会社でハリのない声でしゃべっているかという点に気付かされたことも」(同)

 当面の目標は「M-1グランプリで3回戦に進出すること」と口をそろえる。二人の挑戦は始まったばかり――。
2022.12.17 16:43 | 固定リンク | エンタメ

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