山崎静代、佐藤達と結婚
2022.12.08

南キャン・山崎静代、佐藤達と結婚!昨年6月の舞台共演を機に交際に発展 相方・山ちゃんとコンビそろって役者のハートゲット

お笑いコンビ、南海キャンディーズの山崎静代(43)が俳優、佐藤達(とおる、年齢非公表)と結婚することが7日、分かった。関係者によると、昨年6月の舞台共演を機に交際に発展。8日にも結婚を発表し、近日中に婚姻届を提出する。南キャンは相方の山里亮太(45)が2019年6月に女優、蒼井優(37)と結婚。コンビそろって役者のハートを射止めた。

世間を驚かせた山ちゃんと蒼井優の結婚から3年半。今度はしずちゃんが電撃婚で嫁入りする。

複数の関係者の話を総合すると、お相手は舞台などで活躍する俳優の佐藤達。年齢非公表だが、優しそうな眼鏡男子だ。

2人は昨年6月、舞台「徒然アルツハイマー」で共演。山崎が主人公一家の三男の妻、佐藤が長男を演じていた。

カンパニーの仲間として稽古や本番を乗り越えた2人は、その後、共演者と食事をともにするなどして意気投合し、急接近。程なく交際へと発展した。これまで交際が公になることはなかったが、ひそかに愛を育み、共演から約1年半でゴールイン。近日中に婚姻届を提出する。早ければ8日にも結婚を発表する見込みだ。

山崎は2003年に山里と南海キャンディーズを結成。おっとりした口調とは裏腹な毒舌などが話題を呼び、一躍スターの仲間入りをした。一方で、06年公開の映画「フラガール」で本格的に女優デビューすると、その才能を開花させ、日本アカデミー賞で新人俳優賞を受賞。また、12年のロンドン五輪、16年のリオデジャネイロ五輪に女子ボクシングで出場を目指すなど、お笑い界のみならず多方面で活躍してきた。

一方、佐藤は03年に劇団桃唄309入り。舞台俳優にとどまらず、紙芝居詩人としても活動。09年にはソロライブを初開催するなど多才だ。

山里と蒼井が交際する際、キューピッド役となったのが山崎。「フラガール」で共演し、自身の親友でもあった蒼井と山里を結びつけた。そんな2人の幸せな家庭をそばで見ているなかで、自身も刺激を受けたのか。19年6月に山里と蒼井が結婚した際は〝美女と野獣婚〟と大きな話題になったが、今回も182センチ、79キロで大柄の山崎と178センチ、65キロとスレンダーで柔和な雰囲気を持つ佐藤は対称的。くしくもコンビそろって役者を伴侶に選んだ。

最高の幸せを手に入れたしずちゃん。8月に第1子の長女が誕生したばかりの山ちゃんが、どう反応するかも注目だ。

■山崎 静代(やまさき・しずよ) 1979(昭和54)年2月4日生まれ、43歳。大阪府出身。学生時代はモーニング娘。など数々のオーディションに落ち、2003年に南海キャンディーズ結成。コンビではボケ担当。2004年にM-1グランプリ準優勝。17年にNHK連続テレビ小説「ひよっこ」に出演するなど女優としても活躍。愛称は「しずちゃん」。

■佐藤 達(さとう・とおる) 12月31日生まれ、年齢非公表。秋田県出身。所属する劇団桃唄309の公演「おやすみ、おじさん」などで舞台俳優として活躍。2015年にはヒット映画「海街diary」に出演した。今年は「十二人の怒れる男」「おもいびと いろいろ」など4本の舞台作品に出演。特技はスキー、卓球、雪かき。
2022.12.08 09:05 | 固定リンク | エンタメ
サッカーマニア「影山優佳」
2022.12.07

「資格を何個も取得。将来に不安が…」東大受験断念、アイドル活動制限…“苦労人アイドル”日向坂46影山優佳(21)

日本一のサッカーマニア美女”として名をあげた日向坂46の影山優佳(21)も満面の笑みを浮かべていた。

 渋谷区のスタジオから黒いバケットハットを被った影山は、スタッフに見送られながらハイヤーに乗り込んだ。直前に生出演した「FIFA ワールドカップ64」(ABEMA)で、大一番の結果をスコア含めてズバリ的中させ、試合終了と同時にネットで称賛の嵐が巻き起こっていた。本人も興奮冷めやらないようだった。

SNSでは「#影山寝ろ」がトレンド入り
「影山さんはアイドル活動と並行して、連日のようにテレビ朝日とABEMAの深夜の試合中継に出演していました。スペイン戦があった2日は、レギュラーを務める東京FMのラジオ番組の放送があり、オンエア中の昼前には『#影山寝ろ』がツイッターでトレンド入りしましたよ。翌3日夜には日テレの音楽特番に生出演するなど、目まぐるしく活動しています」(テレビ局関係者)

 影山は、2016年5月に日向坂46の前身「けやき坂46」の一員として活動を開始。この頃にはすでにサッカーの4級審判員の資格を所持し、2018年6月に公開された「期待していない自分」のMVでは華麗なドリブルを披露している。20年5月からJリーグクラブの紹介を個人ブログで始めたほか、サッカー番組にたびたび出演し、元日本代表の北澤豪(54)や内田篤人(34)と共演を果たすなどサッカーマニアとして頭角を現していた。

 W杯期間中、影山のインスタグラムのフォロワー数は10万人以上増え、5日時点で40万人を突破。最新シングルでセンターを務めた齊藤京子(25)の39万人を抜いて、いまやグループ屈指のインフルエンサーとなった。

 しかし彼女のアイドル活動は、決して順風満帆だったわけではない。

「2軍」「下部組織」順風満帆ではなかったアイドル活動
「けやき坂46は、実質、2015年に誕生した欅坂46の『2軍』や『下部組織』でした。そもそも人気アイドルである長濱ねる(24)のためのグループとして始まっていますから。公式サイトでも『新しく長濱ねるの仲間を集めよう』とメンバー募集が告知されました。デビュー後も“長濱ありき”の印象が強く、メンバーたちもけやき坂時代について『ねるちゃんとその他みたいな状況』『アイドルという自覚がなかった』などと振り返っている」(スポーツ紙芸能担当記者)

 そうした空気もあってか、影山自身も当初はアイドルを長く続けようとは考えていなかったようだ。グループ初のアルバム発売とそれに伴う全国ツアーが決まっていたなかで、2018年6月に大学受験を優先するためアイドル活動休業を発表した。

「影山さんは高校時代にクイズ研究会に所属していた秀才キャラ。当時の冠番組では東京大学文科一類が第一志望だと公表していました。しかし復帰後の2020年7月の冠番組で、MCのオードリーがイジる形で東大に落ちたことが示唆されました。同時に、収録直前に影山自身が『イジってください』と若林に要求していたことも暴露されていた」(同前)

 受験の失敗を笑いに変えていたが、今年7月に放送された「セルフDocumentary of 日向坂46」(TBS系)で「大学に合格したらグループを離れるつもりだった」と告白。しかしながら、体調悪化などから「大学受験は諦めましょうとなった」とも語っている。

体調悪化に伴い大学受験を断念
 そして12月2日、ブログでクリスマスライブ「ひなくり」を欠席することを発表。理由をこう明かしたのだ。

《小さい頃から耳の感覚が鋭く、大きい音に苦手意識があったのですが、1年ほど前からライブで苦しさを感じることやその程度が大きくなっていました。今回お医者さんからのアドバイスにより、ひなくりの出演を断念せざるを得なくなりました》

体調不良で学業もアイドルも制限「将来への不安があった」
「過去のブログでも《三半規管がちょこっと弱い》などと言及しています。アイドル活動も学業も思うようにいかない状況に歯がゆい思いをしていたでしょうね。ラジオ番組『ローソンpresents 日向坂46のほっとひといき!』(TOKYO FM)では、ステイホーム期間中に歯科助手や薬学検定1級など6種類の資格を、自身がコロナに感染した療養期間にも5種類の資格を取得したなどと発言しています。『勉強が趣味』とも語っているので無理をしていたわけではないと思いますが、将来への不安があったのかもしれません」(前出・テレビ局関係者)

 しかしそんな苦節の末、彼女の才能と魅力が開花したのが今回のW杯なのだ。ABEMA関係者は、影山をこう絶賛する。

「サッカー知識豊富で的確なコメント能力に番組スタッフも舌を巻いています。元プロ選手などの解説者も顔負けで、スタッフの中に影山のことを『アイドルだから』と色眼鏡で見ている人はひとりもいませんよ。元々いろいろなサッカー番組に出演、解説していたことから前評判は高かったのですが、その期待はゆうに超えてきましたね」

スタッフが信頼を寄せる「けた違いの熱心さ」
 サッカー好きタレントやアイドルはほかにもたくさんいる。だが影山は「けた違いの熱心さ」でスタッフから絶大な信頼を寄せられているのだ。

「連日各メディアに引っ張りだこでかなりのハードスケジュールだったと思いますが、彼女が手を抜くなんてことは一切ありませんでした。打ち合わせでは、サッカーメモが書き込まれた “影山ノート”をもとに『これを話したいです!』と前のめり。疲れを見せることなく、現場での挨拶もしっかりとしていて、スタッフに深く頭を下げている姿が印象的です。非の打ちどころがない」(同前)

 サッカー日本代表とともに、困難を乗り越え“ジャイアントキリング”を見事果たした影山。今後の活躍が楽しみでならない。
2022.12.07 19:14 | 固定リンク | エンタメ
「KEIKOが新曲」小室哲哉も参加
2022.12.07

globeのKEIKOが新曲を極秘収録、歌声も披露 小室哲哉もコーラスで参加

 くも膜下出血で倒れてから療養とリハビリのために長らく表舞台から遠ざかっていたglobeのKEIKO(50才)が新曲を極秘収録していたことがわかった。
 
「新曲のタイトルは『WHITE OUT』。ファンに“幻の未発表曲”と呼ばれる作品で2017年に一度、試作段階のまま曲の一部がSNSにアップされたこともあります。今回は改めて音入れをした新録で、KEIKOさんも久々に歌声を披露するそうです」

 新曲のレコーディングが極秘裏に行われたのは10月下旬。オリジナルメンバーのマーク・パンサー(52才)がラップを担当し、元夫で音楽プロデューサーの小室哲哉(64才)もコーラスで参加。小室のレコーディングはKEIKOとは別の場所で行われたという。

 KEIKOがくも膜下出血で倒れたのは2011年10月。小室がKEIKOを献身的に支えているものと思われていたが、2018年1月に小室の不倫が発覚。小室はすぐに釈明会見を開き、介護のために自らも心身ともに疲れ果てていると告白すると、擁護の声が上がった。
 
 しかし、この会見を見たKEIKOの親族は「不倫から目をそらすために、嘘でKEIKOの名誉を傷つけた」と激怒。そこからやく3年にわたる“離婚闘争”の期間を経て、2021年2月に離婚が成立した。

 離婚後もKEIKOの歌への情熱が冷めることはなく、離婚報告の文書には「アーティストとしても皆様に恩返しができるよう精一杯努力して参ります」と綴られていた。
 
 11月28日には、マークがパーソナリティーを務める『JOY TO THE OITA』(OBS大分放送ラジオ)にゲスト出演。「じゃじゃーん! globeのKEIKOです。みなさんお久しぶりです」と滑らかな口調でファンに向けて挨拶、元気な様子を見せた。

 1990年代にミリオンヒットを連発したglobe。KEIKOと小室が離婚してからもユニットは解散していない。元夫婦は十数年ぶりに発表する新曲でどんなハーモニーを奏でるのだろうか──。
2022.12.07 18:02 | 固定リンク | エンタメ
ボストンで行列ラーメン店を作った西岡津世志さん
2022.12.07
【写真】ボストンで行列ラーメン店を作った西岡津世志さん

ハーバード大やMITの学生が殺到 元お笑い芸人のラーメン店、「絶対無理」の逆風はね返す

移住から1年、貯金はゼロに… 道なき道切り開く苦労

 米国ボストンにラーメン店を出し、名門大学の学生を魅了している元お笑い芸人がいる。株式会社夢を語れ代表の西岡津世志さん(43)は高校卒業後、お笑いトリオを組んで約4年間活動。二郎系ラーメンに衝撃を受け、ラーメン業界の門をたたいた。海外1号店となるボストン店「Yume Wo Katare」は、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)の学生が殺到する人気店。難しいといわれる外国への出店で、西岡さんはなぜ成功を収めることができたのか。

 西岡さんは2006年、京都に自身の店を出店。そして、12年にボストンにラーメン店をオープンした。

 挑戦を続けることが信条で、安住の地を求めない性格。国内に展開する店舗は23店舗だが、直営ではなく、自身のもとで1年間修業することで国内に出店の権利を与えている。店主には3年経過をメドに、店をたたむ「卒業」か、屋号を変えて再出発する条件を課している。モチベーションを高く維持してもらう狙いがある。

 海外に挑戦したのは必然だったのかもしれない。

「出す店が全部行列店になっていく中で、全国にラーメン屋を作って行列店を作るということだけではお金は手に入ってもやりがいは感じなくなっていたんです。自分が無理だって思うようなレベルの夢を追いかけないとワクワクしない。じゃあ無理だと思うような夢って何かなと思ったときに、海外だったんですよね」

 海外=米国という漠然とした思いがあった。出店にあたり、最初に向かったのはハワイだった。

「ハワイに行ってみたら、ワクワクしなかったんですよ。それで世界中でラーメン店を展開されている熊本の味千ラーメンさんの社長さんに会いに行って、『僕、海外でやりたいと思ってハワイを見てきたんですけど、ピンとこなかったんです。どこでやるのがいいですかね?』と相談させてもらったら、『会社でやるなら中国は面白いけど、トップ自ら挑戦するなら世界の中心でやったら』と言われたんです。僕はゾクゾクとして、『世界の中心でどこですか?』と聞いたら、『ニューヨークだと思うよ』と言われたんですよ」

 思い立ったら行動。ニューヨークを訪れた西岡さんだったが、街を歩くと到着までの興奮は消えていた。

「泊まったゲストハウスで他の宿泊者の方たちに相談したんです。『僕は日本では京都で店をやっていて、学生さんがたくさんいるんです。ニューヨークに来たんですけど、何か違うんですよね。学生さんがたくさんいる街ってないですかね?』と尋ねたら、『それはボストンですね』とその場にいた全員に言われたんですよ」

 話を聞いているうちに興味がわいた。

「ボストンは近隣エリアを合わせると大学が100校以上あるって教えてもらって、ところで『ボストンはどこにあるんですか』と聞いたら、ニューヨークからバスで行けるレベルで近かったので、次の日ボストンに行きました」

 到着すると、ニューヨークで失った高揚感が再び全身を駆け巡った。

「街に降りた途端に、チャールズリバーというきれいな川が流れていて、ほとりを若い子たちがランニングしていてというのを見て、もう鳥肌が立ってここやって決めました」

 当時、ボストンでラーメンは浸透しているとは言えない状況だった。「ラーメンだけのお店は1、2軒あったぐらいですね」。可能性を感じ、11年11月にボストンに移住。明けて12年の3月には家族も呼んだ。しかし、思うようにはいかなかった。

「物件探しも大変だったし、工事がまた大変で、全然前に進まない。もう本当にザ・アメリカみたいな感じで、全然工事の人が来ないなーと思っていたら勝手に夏休みとってて、1か月ぐらい工事が止まったりとか普通にあったりで」

 スケジュール通りに動く日本とは何もかもが違った。洗礼を受けた西岡さんは「出店までに生活費も含めて3000万ぐらいかかりました。オープンの数日前には自分が持っていたお金はほぼ全てなくなりました」と貯金を使い果たした。

「工事期間中は家賃もかかるし、店舗物件の権利取得にもめっちゃお金かかったし、工事が追加、追加、追加みたいな感じでお金がどんどん出ていって。最後に100万円の追加工事があったんですが、やるかやらないかという選択があって、それをやらないとオープンできない。でも、やれば確実にオープンできるというのが分かって、開店にこぎつけられたけど、持ち金すっからかんになったという感じです」

訪れた最大危機 客が半分に激減… そのとき西岡さんは?
「Yume Wo Katare」では実際に夢を語ることができる【写真:夢を語れ提供】

 並みの経営者なら、将来に不安がよぎってもおかしくない。だが、ブレることはなかった。「1年間、出店に時間がかかったじゃないですか。その間、ボストン中のいろんな人に会って夢を語り倒していたので出店するときには僕がラーメン屋を開くことを知らない日本人はいないぐらいになっていたんですよ」。エネルギッシュな西岡さんの真骨頂だ。「店を開けてしまえば絶対にお客さんは呼べるという自信はありました。“ゼロ”は絶対ないじゃないですか」

 メニューは日本と全く同じ二郎系のラーメンだった。濃厚な豚骨スープで背油やにんにくもたっぷり。とにかくすさまじいボリュームを誇る。

「ボストンのレストランの日本人の経営者たちから『こんな脂っこいラーメン絶対無理だ』と言われました。『アメリカ人は食べない』と。でも、おかげさまで最初からすごくお客さんが来てくれて、オープン2か月後ぐらいに忘年会をその方たちと一緒にさせてもらったときに、みんなが頭を下げてくれました。『あのときは偉そうに言ってすみませんでした』って。ボストンの経営者の大先輩たちなんですが、そういうところも含めて今でも尊敬と感謝しかないです。彼らが応援してくれたおかげで初日からたくさんのお客さんに来ていただけたので」

 オープン1年目の冬、外気温マイナス20度の日でも2時間待ちという大行列店になり、2年目も伸び続けた。そして、日本では挑戦できなかったことをボストンで始める。客に夢を語ってもらうというシステムだ。かつてお笑い芸人だった西岡さんは、相方の自死に直面。「夢を語れ」という屋号には、一人一人の客に前向きに生きてほしいという願いが込められていた。

「朝礼中も営業中も営業終了後もスタッフやお客さんにいつも夢を語っていたんです。『いつかこの店をお客さんがみんなの前で夢を語る店にしたい』って。そしたら、ある日スタッフの1人が友達と食べに来てくれて、ラーメンを食べ終わった後にお客さんの前で話し始めたんです。『みなさん、この店の名前、Yume Wo Katareの意味を知っていますか? 店主のツヨシさんの夢はこの店をみんなが夢を語る店にすることなんです』と店名の説明や僕の夢を伝えてくれて、そして彼の夢も語ってくれたんです。そしたら店内のお客さんがみんな思いきり拍手して『good joooooob』と祝福してくれたんです。最高に気持ちよかったのと、そう、これこれ、こんな店を作りたかったんやってイメージしていたものが目の前で実現したんです。それから毎日、来るお客さん全員に夢を語ってもらったんです」

 数か月後……、行列は途切れた。客は半分になった。原因は夢を語ってもらうことにあった。「スタッフたちから、もうさすがにこれだけお客さん減ったので夢を語ってもらうのやめませんか、みたいなことになりました。でも僕がやりたいのはラーメン屋じゃなくて、夢を語ってもらうお店がやりたい。だから、やめることはないと伝えました」

西岡さんは立て直すために熟考した。一つの答えが出た。「夢を語りたい店じゃなくて、語らないといけない店を作っていた。だからお客さんが離れたんだ」

 地元紙が称賛 「彼はドリームファクトリーをやっているんだ」

 夢を語るのが義務のような雰囲気を改めた。

「マクドナルドみたいな感じで最初に注文を受けるんですけど、ラーメン食べた帰りについでに夢語っていきますかみたいなことを聞いて、『いや、いいです』と言われたら、『はい、分かりました。もし他のお客さんで夢を語る方がいましたらそのときは全力で聞いて応援してあげてください』とだけ言って席に案内するんですね。夢を語りたい人には『I have a dream』の札を渡して席に持っていってもらう。その札を持っている人が食べ終わったときだけ、『今から彼が夢を語るのでみんな聞いてくださいね』と言って、聞いてもらうスタイルにしました」

 夢は語りたい人だけ語る。店は再び行列を取り戻した。今や「夢を語る」人も8割という理想の店になった。西岡さんは地元紙「ボストン・グローブ」にも複数回取り上げられるなど話題の人に。勢いに乗って、うどん店「Yume Ga Arukara」も開業した。

「うどん屋を開けたときは、『彼がやっていることはラーメン屋じゃない。飲食業・西岡津世志をやっているんじゃない。彼はドリームファクトリーをやっているんだ』という記事を書いてくれて、僕なりにすごく感慨深いものがありました」

 うどん店は全米8位のレストランに選ばれる快挙も達成し、コロナ禍でも行列が途切れない。「ラーメン屋でもうどん屋でも理想とする店ができ、両方の実績は作れたというのがあります」

 西岡さんはボストンで夢を語りたがらない客が日本人であることに気づき、「日本にこそ夢を語る場が一番必要だ。自分がやらずに誰がやる!」との決意で18年に帰国。「日本全国47都道府県に夢を語れるラーメン店を作る」プロジェクトを始動し、現在に至る。

□西岡津世志(にしおか・つよし)1979年9月8日、滋賀・近江八幡市出身。高校卒業後、東京でお笑い芸人を目指しながらラーメン店で修業。2006年、独立して京都一乗寺に「ラーメン荘 夢を語れ」を創業。12年、ボストンで「Yume Wo Katare」を開業する。18年に帰国し、国内外に23店舗を展開する。妻、子ども2人の4人家族。
2022.12.07 17:32 | 固定リンク | エンタメ
森田健作が志垣太郎さん訃報に「本当に驚き」
2022.12.07

森田健作が志垣太郎さん訃報に「本当に驚きました。屈託のない笑顔が忘れられない」

俳優、森田健作(72)が7日、志垣太郎さん(享年70)が3月5日に遠征先の佐賀県で急な体調不全による心不全のため亡くなっていたことを受け、追悼した。

1971年に森田が主演した人気ドラマ「おれは男だ!」に志垣さんはライバル役で出演。突然の訃報に「全く知らなかった。今朝、報道を知った友人から電話で聞いて、本当に驚きました」と語った。

志垣さんは「おれは―」の途中から転校生役で登場。「実は当時、(照明の)ライトが頭に落ちて私がけがをして休んでいるときに、彼が登場して…。ドラマに出られない中、彼が熱演して助けてくれた思い出があります」と感謝した。

続けて「朝の情報番組で私が持っていたコーナーに出演してくれて釣り堀トークをしたり、旅番組に早瀬久美さん(『おれは―』のヒロイン)と3人で出たこともありました。何しろ明るくて、おもしろいことばかり言って、『20代のニヒルなキャラクターからずいぶん変わったな』と話したりしました」となつかしんだ。

2009年に千葉県知事になってから多忙のため会う機会はなかったが、「志垣ちゃんの屈託のない笑顔が忘れられない。彼は明るくていいキャラクターを持っていたし、まだまだ役者としていろんな役をやりたかっただろうし、本当に残念です。私も映画を作りたいという夢があるから、それが実現したとき、昔の仲間を呼んで一緒にやれたら、とかできたのにね」と寂しさを隠せなかった。
2022.12.07 12:02 | 固定リンク | エンタメ

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