第1次革命(バルチック艦隊の全滅)
2023.08.03


専制君主構造のひずみから不満が噴出 ニコライ2世皇帝は退位 新たに自由主義体制のもと政党が擁立された。社会主義を隠したレーニンなどのソビエト(赤軍)の政党も参画した。しかし...後に自由政党を倒したソビエト(赤軍)はニコライ2世皇帝と家族全員も処刑した。

20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み,世界史に革新的な作用を及ぼした。

革命は大きく分けて,1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り,後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は,ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し,マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を,人類史上初めて誕生させたことで知られる。そのため〈ロシア革命〉という名称が〈十月革命〉と同義に用いられる場合もある。

■歴史的前提

20世紀初めのロシアは,フィンランドに自治を認めつつ支配し,ポーランド,カフカスを完全に併合し,東はシベリアより極東までを版図に収めた広大な帝国であった。大ロシア民族が,この帝国の住民を構成する多数の民族を支配していた。国家権力は,身分制的秩序を残しながら,一応独立した司法制度,全身分的地方自治制,国民皆兵制軍隊をもつ,改良された無制限専制君主制であった。

経済的には,国家の手で養成された鉄道と重機械工業,外国資本で発展した鉄鋼,石炭,石油業が,自立的に成長した綿工業と併存する後進資本主義的な工業の体系と,地主的土地所有が共同体農民の馬,農具持参の労働で支えられる雇役制的農業構造とが,出稼労働者の低賃金によって結びついていた。このような構造をもつロシアは,1890年代には急テンポの経済成長をとげ,体制的に一応の安定をえていたが,20世紀に入ると,恐慌で経済成長が止まり,構造のひずみからさまざまな運動が噴出しはじめた。

まず学園の自由から進んで,政治的自由を要求する学生運動が1899年の全国一斉同盟休校から始まり,1901年3月には首都の路上で警官隊と衝突,死者4名を出した。この間,運動弾圧に徴兵措置を用いた文相は狙撃され,殺されている。

ほぼ同じころ,フィンランドでとられた自治権否定,ロシア化政策に抗議するフィンランド人の請願運動は,1901年9月全人口の2割が署名した請願書を皇帝に提出した。1902年3月には,南ロシアのポルタワ,ハリコフ両県で,農民の激しい地主領襲撃事件が広がった。それは農村の久しい沈黙を破るものであった。1903年になると,1890年代の成長の基盤であった南ロシアの鉱山・工場地帯全域に長期かつ深刻なゼネストがおこった。

このような学生運動,民族運動,農民運動,労働運動が噴出して,体制が動揺する中で,皇帝ニコライ2世は90年代の成長政策の推進者蔵相ウィッテを退け,内相プレーベを重用して抑圧政策をとる一方,山師的人物の献策をいれて,極東での冒険政策をすすめ,1904年1月日露戦争に入り込んだ。この戦争は,国民にまったく不人気であり,かつロシアの軍事力,国力の欠陥を露呈した。同年7月,内相プレーベが首都の路上で暗殺され,代わった内相スビャトポルク・ミルスキーPyotr D.Svyatopolk-Mirskiiは譲歩路線に転換し,〈自由主義者の春〉が現出した。

政治党派としては,20世紀の初めよりマルクス主義者の党であるロシア社会民主労働党(以下〈社会民主党〉と略す)とナロードニキ系のエス・エル党が生まれ,活動していたが,全局を制したのは自由主義者たちであった。反政府的な地主層は,ゼムストボ(地方自治体)代表者の大会を開催して圧力を加え,解放同盟Soyuzosvobozhdenie(カデットの前身)に入っている自由主義的知識人は政治的デモンストレーションを目的とする解放宴会をくりかえし,立憲政治を要求したのである。

■第1次革命(バルチック艦隊の全滅)

1904年末,旅順が陥落すると,ロシア政府の権威は決定的に動揺した。この時を待っていた司祭ガポンは,彼が組織してきた首都労働者の合法的親睦共済団体〈ペテルブルグ市ロシア人工場労働者の集い〉(会員約1万)を動かし,皇帝に改革要求の請願書を提出することに踏み切った。これはプチーロフ工場のストライキの中で進められ,請願行進の形をとることになった。

1905年1月9日(新暦1月22日),政治的自由と国民代表制,8時間労働と団結権を求め,〈私たちの祈りに答えてくれなければ,あなたの宮殿の前で死ぬほかない〉と結んだ請願書をもった十数万の労働者とその家族は,首都の数ヵ所から求心的に冬宮めざして行進を開始した。軍隊がこれに発砲し,政府発表では130人,革命家の見積りでは数百人の死者と数千人の負傷者を出した。

憤激は首都中に広がり,学生・市民の同情ストがおこり,他の都市の労働者も抗議ストに入った(血の日曜日事件)。政府は問題を労働者の待遇改善問題と狭くとらえて対応しようとしたが,労働立法に消極的な資本家すら立憲的改革を要求するに至った。2月4日には皇帝の伯父でモスクワ総督のセルゲイ大公がエス・エル党員によって暗殺された。政府もやむなく2月18日には,国民代表を法案の審議に参加させることを約束し,その案の作成を内相ブルイギンAleksandr G.Bulygin(1851-1919)に求める勅書が出された。これは世論をいっそう活気づけることになり,自由主義者は専門職業人連盟を結成し,運動の組織化に乗りだした。

日本海海戦でバルチック艦隊が全滅すると,政府批判はいっそう高まり,6月9~11日にはポーランド第2の都市ウッチで労働者がバリケードをつくって警官隊と衝突,300人以上の死者を出した。一方,6月14日黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵の反乱がおこり,オデッサ市民と交歓し,政府を慄然とさせた。

8月6日,きわめて限定された内容の諮問議会(ブルイギン国会)の設置が発表されたが,それではとても国民の満足はえられなかった。おりしもアメリカ大統領の斡旋で,8月10日よりポーツマス講和会議が始まった。全権に起用されたウィッテは,南サハリンの割譲という,ロシアにとっては最小の譲歩で日本との講和を締結することに成功した。8月末,政府が大学,高等教育機関に自治を認めたことは,労働者,市民,政党が大学の構内で政治集会を自由に開くことを可能にした。大学が革命の震源地と化した感があった。

やがて革命の波は10月に最高潮に達する。10月7日,モスクワ~カザン鉄道の労働者がストライキに入ったのに発した全国鉄道ゼネストは,一般労働者,市民のゼネストを導いた。その中で,ウィッテはニコライ2世に譲歩を迫り,ついに10月17日(新暦10月30日),市民的自由と立法議会の開設を約束する〈十月詔書〉が出された。2日後,事実上の首相職である大臣会議議長職を新設する勅令が出され,ウィッテが初代の首相に任じられた。ここに〈自由の日々〉が到来した。だが,〈自由〉を統一スローガンに全国民的な連合をもって進んできた革命は,ここから分解を始めた。

まず労働者は8時間労働の要求を実力で実施する闘争の道に立ち,〈十月詔書〉に満足した資本家と衝突した。農民は,共同体の取り決めで地主に対し,地代引下げ,労働報酬引上げの交渉を行ってきたものだが,10月以降,中央農業地帯とボルガ沿岸地方で激しい地主領地打ちこわしの挙に出た。地主たちは一時は領地放棄を考えたが,やがて実力自衛策をとり,全体として右翼化する。

12月2日,ペテルブルグ・ソビエト,農民同盟,社会民主党両派(ボリシェビキとメンシェビキ),エス・エル党,ポーランド社会党の6者が,国庫への納税拒否を呼びかける〈財政宣言〉を発すると,態勢を立て直し弾圧の機をうかがっていた政府は,翌日,ペテルブルグ・ソビエトの代議員全員を逮捕した。

12月7日モスクワで始まった大抗議ストに対し,当局は武装自衛隊に攻撃をしかけ,バリケードをつくって抵抗する労働者をペテルブルグとポーランドからの増援軍によって粉砕した。このとき約700人の労働者・市民が殺された。これは通常〈モスクワ蜂起〉といわれるが,武装した労働者が革命の既得権,解放された空間を防衛しようとしたものである。

こうして,危機を脱した皇帝と保守派は約束した大改革を切り下げ,12月11日にまず〈ブルイギン国会〉選挙法を若干手直しした程度の国会選挙法を定め,さらに06年2月20日には皇帝権力に法律裁可の権限を残した国会,国家評議会の二院立法制を発表した。ついに国会開会直前の同年4月23日(新暦5月6日),引き続き皇帝に〈最高専制権力〉が属するとする新国家基本法が公布された。革命の結果は無制限専制から国会,国家評議会の二院によって制限される専制への移行という,きわめて不徹底なものに終わったのである。

4月27日国会は開会したが,自由主義者の党カデット党と無党派急進農民のトルドビキ派が議員の過半数を握り,土地改革を要求して政府と対立した。政府は7月8日国会を解散した。181人の議員たちは,ビボルグに集まって反政府闘争を呼びかけるアピールを発したが,バルチック艦隊の水兵が反乱をおこしただけであった。

国会解散とともに首相を兼務するに至った内相ストルイピンが以後精力的に活動し,共同体の解体をねらった改革を推進して,1907年6月3日第2国会解散と同時に,地主勢力を優遇する新国会選挙法を公布し,国会を政府に協力的なものに強引につくりかえた(〈6月3日のクーデタ〉)。政治は以後完全に常態化する。第1次革命を最も長くみる人々も,ここに革命の終りをみる。

■総力戦「挙国一致」の行きづまり(第1次大戦)

ストルイピンの執権のもとで,経済はふたたび好況を迎え,銀行の力が強くなり,ブルジョア文化が発展したが,第1次革命を生みだした矛盾は,成長の中でかえってより深刻化していった。政治的には皮肉なことに,国会と国家評議会は左と右から専制権力を利用するストルイピンの改革路線を妨害し,彼は目的を達しえず,政治的には無力化した中で,11年9月暗殺されてしまった。

彼の死後は皇帝を抑えこめる強力な政治家は現れず,皇帝の恣意が徐々に増大する傾向にあった。ストルイピン改革の柱であった土地改革も農村構造を改革しえず,かえって共同体に立てこもる農民とそこから出た富農との新たな対立を生んだ。労働立法は遅れ,労働者は再び戦闘性を表し,12年プラハ協議会で独自党を結成したレーニン派のボリシェビキをみずからの指導者に選んだ。

注目すべきは,第1次革命の頂点で専制を助ける側にまわった資本家の中から,地主貴族を押しのけて国家の主人公になろうという政治志向が現れたことである。進歩党をつくったモスクワの綿工業資本家コノバーロフAleksandr I.Konovalov(1875-1948)らの右翼自由主義者である。こうして労働者の急進化とブルジョアジーの急進化によって,1914年初夏のロシアには,ふたたび革命的危機が接近していた。ストルイピンは再編のための条件として〈内外における20~30年間の平静〉をあげたのだが,帝国主義諸国家間の対立,バルカンの小国間の対立は,ロシアをまきこみ,ついに14年7月第1次大戦が始まることになった。

交戦列強が経済力,国力のすべてを動員して戦争を遂行するこの総力戦の中で,ロシア国家は解体を始める。大戦はロシア革命の条件を一変させたのである。具体的には,開戦直後にみられた挙国一致的状況は急速に去っていき,14年末には輸送と補給の困難が,すでにまったく危険な域に達していた。15年4月ガリツィアにおけるロシア軍の第一線はドイツ軍の攻撃を支えきれずに後退し,ついでポーランド戦線が総くずれとなって,大退却が始まった。

この状況の中で,全工業の動員を主張して軍需生産への参入をめざすモスクワ資本の動きは,戦時工業委員会をつくり出し,国の信任をうる人々よりなる内閣を求める国会多数派〈進歩ブロック〉が形成された。皇帝は皇后とラスプーチンの助言で,敗北の責任者,ロシア軍最高司令官ニコライ大公を解任し,みずからがその後任となった。大臣たちはこれに強く反発し,皇帝と激突した。以後,皇帝は皇后,ラスプーチンに支配され,混乱した政治指導を行っていく。こうして国家解体が本格化した。

この事態の中で,皇族も軍部も,国会議員たちも資本家たちも,打開の手が打てずに危機はますます深化していくばかりであった。結局,なされた唯一の行動は,16年12月16日のラスプーチン暗殺であった。しかし,万事手おくれであった。皇后はラスプーチンの愛人であるという流言は,皇帝の国父としての権威を決定的に傷つけていた。

■二月革命(コサック兵も革命に加担)

革命はふたたび首都の労働者の行動によって始まった。大戦中にペトログラードと改称された帝国の北西隅にある首都では,食糧難,燃料難が最も激しく現れた。しかも全国一の工業都市で軍隊の集結地として,38万の労働者と47万の兵士がいた。資本家の中の急進派と結んだ戦時工業委員会労働者グループは,1917年2月14日の国会再開日に,かつて〈血の日曜日〉に冬宮へ請願行進したように国会へ請願行進をしようと呼びかけた。ボリシェビキなどの反対で,当日の行動は失敗に終わったが,首都中心部でのデモのよびかけは労働者の間でも複雑な反応を呼びおこしていた。

2月23日(新暦3月8日),国際婦人デーにさいして,無名の活動家グループの働きかけで,ビボルグ区の婦人労働者はストライキに入り,〈パンをよこせ〉と叫んでデモ行進を開始した。これに男子労働者も応じ,デモ隊はネバ川にかかる橋を突破して,市の中心部,ネフスキー大通りへ向かおうとした。ストライキは2日目から他の区に広がり,25日には全市ゼネストになった。

これを鎮圧するために出動したコサック兵が警察署長を斬殺するという事件がおこり,兵士の命令不服従を予感させたが,26日には兵士たちはデモ隊に向けて発砲し,多くの死者を出した。しかし,この日の鎮圧行動から嘔吐を催す思いで帰った近衛ボルイニ連隊の兵は下士官に率いられて,翌27日(3月12日)朝反乱をおこし,これは近くの2連隊にも波及した。

反乱した兵士は労働者と一緒になって,二つの監獄から政治犯を解放させた。釈放された政治犯の一部は,国会の建物に集まり,ペトログラード労働者・兵士代表ソビエト創設のイニシアティブをとった。政府側の軍管区司令官は,この反乱鎮圧のため部隊を出動させたが,この部隊は途中で消えてしまった。

国会はこの日の朝,皇帝の休会命令を受けとって解散することに決めたのだが,事態の急変を知り,本会議場の外で非公式会議を開き,国会臨時委員会を選出した。

コノバーロフと提携するケレンスキーは,国会を革命にコミットさせようと努力した。夜になって,国会の建物の中に労働者代表と社会主義政党の代表が集まって,ソビエトの結成会議を開くと,国会臨時委員会は深夜の2時,権力掌握を決断した。翌日各省庁の接収が行われたが,国会の代表者が交通省に入り,鉄道の運行をコントロールしはじめたのは決定的に重要であった。というのはモギリョフの大本営にいた皇帝が,イワーノフ将軍に命じて首都革命の鎮圧軍を出動させていたからである。

一方,大本営の軍首脳は国会議長ロジャンコと接触し,皇帝に次々に譲歩を進言していた。

首都では3月1日に兵士が最終的にソビエトに忠誠を誓うことを決議し,これが〈命令第1号〉という文書にまとめられた。労働者と兵士がソビエトに忠誠を示し,官吏と将校が国会臨時委員会に忠誠を誓うというあり方が,いわゆる〈二重権力〉状態である。この基礎の上に,ソビエトの承認のもと,3月2日国会臨時委員会は,首相リボフGeorgii E.L'vov(1861-1925),外相ミリュコーフ,商工相コノバーロフなどの臨時政府を発足させた。

この白軍首脳はロジャンコの要請を受け入れ,皇帝に皇太子への譲位を求めた。ニコライ2世はいったんはこれを受け入れたものの,皇太子の病気を考えて,自分の弟ミハイルに譲位するとした。ミハイルはこれを拒否したので,ここに帝政は崩壊することになった。帝政を打倒したのは,一つは〈労働者・兵士の革命〉であり,いま一つは〈ブルジョアジーの革命〉であった。

首都での革命の知らせは全国に衝撃を与え,この二つの革命は全国に拡大したが,それと同時に,この革命の受益者として,農民と被圧迫民族とが,つくりだされた自由の空間の中で革命に立ち上がることになった。農民は共同体単位で行動をおこし,郷(ボーロスチ。郡と村の間の行政単位)のレベルに委員会をつくった。被圧迫民族は,たとえばウクライナでは,3月4日に民族統一戦線としてのウクライナ中央ラーダ(ラーダ)を成立させている。このあとから加わった〈農民革命〉と〈民族革命〉の展開が〈労兵革命〉と〈ブルジョアジーの革命〉の関係に影響してくるのである。

臨時政府は政治犯の大赦,言論・出版・集会・結社の自由,身分の廃止,宗教的・民族的差別の撤廃を実現し,ロシアを〈自由〉な共和国とした。問題は〈平和〉にあった。ブルジョアジーにとって革命は,よりよく戦争するためのものであった。

一方,ペトログラード・ソビエトは3月18日,無併合・無償金の講和を実現することをめざすアピールを発した。これは外相ミリュコーフの方針と衝突した。4月20日,首都の兵士のイニシアティブでミリュコーフ打倒,侵略反対のデモがおこり,ミリュコーフは閣外へ去った。ボリシェビキは帰国したレーニンの〈四月テーゼ〉を受け入れ,ソビエト権力の樹立をめざす活動を開始する。他方,ソビエト主流派のメンシェビキとエス・エル党は,この動揺ののち臨時政府に入閣し,連立政府を発足させた。

新政府の外相テレシチェンコ(チェレシチェンコとも呼ぶ)Mikhail I.Tereshchenko(1886-1956)は戦争目的を修正する連合国会議を提唱し,郵政相ツェレテーリはソビエトの主張する線で平和のための国際社会主義者会議を開くことを推進した。陸海軍相ケレンスキーはロシアの国際的地位を上げるために,前線での攻勢を準備しようとした。平和のために戦争するというこの政策は,深い矛盾をはらんでいた。

民衆はボリシェビキを突き上げ,6月8日,〈全権力をソビエトへ〉というスローガンのもと,デモを行うことを決定させた。ソビエト主流派はこれを強く非難し,デモを中止させたが,6月18日〈無併合・無償金・民族自決の全面講和〉を要求するデモを主催せざるをえなかった。この6月デモは30万から40万人が参加した大デモとなった。

■十月革命

革命の課題は〈自由〉と〈平和〉にとどまらなかった。二月革命によって8時間労働日を獲得した労働者は,工場委員会をつくって権利要求をさらに高めていたが,資本家側は経営権を守るため,この要求を抑え込もうとした。1917年5月末~6月初めペトログラードの工場委員会協議会は,ボリシェビキの指導下に〈労働者統制(労働者による生産の統制)〉の必要を決議した。

農民は〈土地〉を求めていた。5月末に開かれた第1回全ロシア農民大会がエス・エル党の指導下に憲法制定会議で〈土地社会化〉を実現することを決議すると,郷委員会に結集する農民はただちにこれを実現してよいと判断されたものと受けとった。エス・エル党の指導者V.M.チェルノフが農相のポストにあったが,連立の条件にしばられて,農民のこの意欲にこたえる施策を打ち出せなかった。

彼がわずかに決定した土地売買・質入れの禁止も,地主である首相以下の強い反発を招いた。被圧迫民族も〈自治〉を求めた。ウクライナ中央ラーダが5月半ばに自治を要求すると,臨時政府はこれを拒否した。6月10日,ラーダはウクライナの自治を宣言した。ソビエトはウクライナ地方の自治を認めるという考えを出し,政府とラーダは協定を結んだが,カデット党から出ている4大臣は抗議して辞任した。

この政府危機に対して,首都の兵士はまたもやイニシアティブをとり,連立の中止,ソビエト権力の実現を求めて,7月3日の武装デモを決行した。ボリシェビキは時期尚早としてデモを中止させようとしたが,果たせず,デモを承認するにいたった。翌日もつづいたデモに,ソビエト主流はボリシェビキの陰謀をみて,弾圧に乗り出した。レーニンは地下に潜行した。

しかしボリシェビキは非合法化されず,ソビエト内部の地位を保ちつづけた。デモは抑えたものの,首相リボフは職を投げ出し,前線ではケレンスキーの始めた攻勢がドイツの反攻を招き,危険な状態となった。ようやく4人のカデット党員が個人の資格で入閣することをえて,ケレンスキーを首班とする第2次連立政府が7月24日に成立した。

この政府は〈平和〉を実現する展望をもちえず,前線と国内秩序の維持だけを目的とした。ということになれば,軍人が主役になるのが当然である。新任の最高軍司令官コルニーロフは前線で死刑を復活したのにつづいて,後方でも軍内抗命者(命令に服従しない者)に対してこれを復活することを目ざし,軍事独裁の樹立も辞さない腹であった。

8月25日コルニーロフはケレンスキーの譲歩を問題にせず,将軍クルイモフAleksandr M.Krymov(1871-1917)に首都進撃を命じた。政府内のカデット4大臣はコルニーロフ支持を表明し,辞任した。ケレンスキーに残るのは,ソビエトの支持だけであった。

ソビエトは一丸となってコルニーロフ軍を迎え撃つ態勢をとったが,その中核となって働いたのはボリシェビキであった。コルニーロフ軍の進撃ははばまれ,8月31日クルイモフは自殺し,翌日コルニーロフは逮捕された。コルニーロフ反乱の経験は,ソビエト権力を求める声を一般化した。

ボリシェビキは連立策をとってきたソビエト右派を除いた左派だけの政権を望んだ。8月31日,首都のソビエトが〈革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権〉を要求する決議を採択したのは,ボリシェビキの力を示したものである。ケレンスキーは新しい権力基盤を求めて,9月に民主主義派会議を開き,いわゆる予備議会を発足させ,コノバーロフを副首相に迎えて,第3次連立政府を発足させた。しかし,地方では農民革命が高揚し,地主邸の焼打ちが広がっており,人々の要求にこたええない政府の命数は尽きていた。

この9月,潜行中のレーニンは臨時政府打倒の武装蜂起の決行を同志に提案したが,党中央委員会はただちには賛成しなかった。とくにジノビエフとカーメネフという古参の大幹部は強く反対し,党外でその態度を表明した。権力掌握への準備は首都ソビエトの議長となったトロツキーの考えで進められ,10月12日反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。

この委員会が委員を派遣し,首都の軍事組織を指揮下に収めようとして,軍管区司令部と衝突した。23日夜,臨時政府はこの挑戦を粉砕することを決意し,翌朝よりボリシェビキ側を攻撃した。しかし,24日中に首都内の重要拠点は,ことごとく革命派の兵士と労働者赤衛隊の手に制圧されてしまい,臨時政府は冬宮に孤立した。10月25日(新暦11月7日)午前10時,軍事委員会は臨時政府が打倒されたことを宣言した。冬宮は翌26日,わずかな戦闘の末陥落し,ケレンスキーを除く臨時政府の閣僚全員は逮捕された。

この行動は25日夜11時に開かれた第2回全ロシア労兵ソビエト大会に既成事実として突きつけられた。ソビエト右派は抗議して退場し,残ったボリシェビキと左派エス・エル党,その他若干の党派は,ソビエト権力の行動綱領をもりこんだアピール,〈平和についての布告〉〈土地についての布告〉をレーニンの提案によって可決した。

民主的講和と即時休戦,地主の土地の没収,軍隊の民主化,生産に対する労働者統制,憲法制定会議の召集,パンの確保,民族自決権の保障が新しい権力の目標とされたが,注目すべきことは,〈社会主義〉という言葉は含まれていなかったことである。目標については一致があったが,左派エス・エル党に入閣を断られたボリシェビキが,レーニン首班,トロツキー外務人民委員の単独政府を提案すると,他党はすべて反対した。このため単純多数で臨時労農政府,人民委員会議が選出された。

首都を脱出したケレンスキーは,将軍クラスノフPyotr N.Krasnov(1869-1947)の部隊とともに攻め上ってきたが,10月30日,郊外のプルコボで打ち破られた。この日モスクワでも5日間つづいた大戦闘が終わり,臨時政府派が敗北した。11月1~4日には,北部方面軍と西部方面軍司令部があるプスコフとミンスクでソビエト権力が樹立された。こうして十月革命は勝利した。

これはボリシェビキと左派エス・エル党を支持する首都およびモスクワの労働者と兵士,北部方面軍・西部方面軍の兵士の組織された力によるものであった。この労兵革命は,農民革命と民族革命に助けられ,ブルジョアジーの革命を打ちたおしたのである。キエフではウクライナ中央ラーダとソビエトは協力して臨時政府側の軍管区司令部を打倒した。11月7日,ラーダもウクライナ人民共和国を宣言した。だが,この革命の過程がはらむ矛盾は,ただちに顕在化した。

労兵革命の一方の柱であった革命的兵士集団は,休戦が実現し,階級制の廃止と将校選挙制を中心に軍隊の民主化が実現するとともに,急速に解体していった。

民族革命との対立も早くきた。ウクライナ中央ラーダとロシア人労働者を中心とする地元ソビエトとの対立から,12月にはモスクワ政府は最後通牒をつきつけ,遠征軍を送り込んだ。1918年1月26日ソビエト軍はキエフを占領し,ウクライナ全域は,ひとまずソビエト権力の支配下に入った。

農民との関係では,12月に労兵ソビエトと農民ソビエトとの合同がなり,左派エス・エル党が入閣するという進展があったが,農村では農民たちが自力で地主を追い出し,土地を共同体の原理で分配していった。

11月に行われた憲法制定会議選挙では,ボリシェビキは善戦したものの,得票率24%の第2党にとどまった。レーニン政府は,この結果は革命の昨日を意味するとして従うことを拒否し,1918年1月5日に開催された憲法制定会議にソビエトの採択した〈勤労被搾取人民の権利の宣言〉の採択を迫り,これが拒まれると,1日で会議を解散させた。1月10日第3回ソビエト大会でレーニンは,ロシアが〈社会主義ソビエト共和国〉であると宣言した。十月革命は社会主義革命としての性格を,このとき明示したのである。

■自由主義政党を倒したソビエト政権(赤軍)は窮地に(内戦と干渉戦争)

このときすでに,極東からボルガ川のほとりまでチェコ軍団の反乱により,各地のソビエト政権は次々に打倒されていた。この軍団は,オーストリア軍に徴兵されて捕虜となったチェコ人兵士を中心に組織されたものであった。

民族主義的なこの軍団は,ウラジオストクから船に乗ってヨーロッパの戦場へ赴くことになっていたが,その移動中に武装解除を命じられたことから,1918年5月25日反乱をおこしたものであった。

時を合わせたかのように,英仏軍1万5000が北のアルハンゲリスクに上陸し,反ソ政権を擁立した。そして8月2日と3日には日本とアメリカがチェコ軍団救出の名目でシベリア出兵を宣言した。日本は10月末までに7万5000の兵力をシベリアと北満(現在の中国東北の北部)に展開させた。連合国は東部戦線再建のため,武力干渉の機会をねらっていたのである。チェコ軍団の反乱によって,サマラ(現,クイビシェフ)に憲法制定会議議員たちが反ソ政権を樹立した。

ソビエト政権は,この危機にさいして赤軍を徴兵制の軍隊に切りかえ,8月30日レーニンが暗殺者に撃たれて重傷を負うと,チェーカーを中心に赤色テロで対抗した。反ボリシェビキ派の中で,チェコ軍団の後押しをうけるエス・エル派と旧軍人,帝政派,リベラルとの対立は根深かったが,9月のウファ国家会議で妥協が成り,5人の執政府のもとに全ロシア統一政府が生まれた。しかし,これは短命に終わった。11月17日陸海軍相コルチャークはクーデタをおこし,最高執政官に就任した。

こうして反革命の主役は帝政派の軍人となった。コルチャークは沿海州で日本の支持を受けて勢力を張っていたセミョーノフをも一応指揮下におさめ,全シベリアの支配者としての地位を固めたうえで,19年3月,ウラルから西に向けて総攻撃を開始した。

4月にはカザン,サマラに80kmの地点まで進出する。このとき北西部では,エストニアからロジャンコの軍がペトログラードを目ざして侵攻し,挟撃の形をとったのだが,赤軍はがんばりぬき,ついに6月9日チャパーエフVasilii I.Chapaev(1887-1919)の軍はウファを奪還し,コルチャーク軍を押しもどした。すでにシベリアではコルチャーク軍と日本軍に対して,農民パルチザンが立ち上がっていた。中央部の農民はソビエト政権の穀物徴発に苦しみながらも,地主制を復活させかねない帝政派の勝利をおそれ,赤軍を助けた。

これが赤軍の勝因の最大のものの一つである。

コルチャーク軍の進撃がくい止められると,こんどは南からデニキン軍が攻め上ってきた。6月24日ハリコフを陥した同軍は,7月3日モスクワへの進撃を開始した。赤軍側の作戦の混乱もあって,デニキン軍の前進はつづき,10月13日オリョールが陥落した。このときもペトログラード方面にはユデニチNikolai N.Yudenich(1862-1933)軍が迫ってきた。軍事人民委員トロツキーの作戦案が,この危機の中で効果を発揮した。

これとともに,デニキン軍の背後からアナーキストのマフノに率いられたウクライナの農民軍が攻撃を加えたことが赤軍を助けた。10月20日,オリョールが奪還され,デニキン軍は後退した。12月16日,キエフが解放され,デニキン軍は打ち破られた。

この熾烈な内戦を戦いぬくために,ソビエト政権は〈戦時共産主義〉と呼ばれる経済政策をとった。その第1の柱は〈穀物独裁〉であり,第2の柱は全工業の国有化であった。20年11月,5~10人の労働者を雇う小工場までも国有化された。商品経済は極度の国家統制の中に封じ込められたのであった。政治面でも,共産党の一党国家があるべき姿とされ,組織局と書記局により党機構が整備され,党と国家が一体化した。〈軍事的プロレタリア独裁〉と呼ばれる強力な国家がつくり出された。

内戦・干渉戦は国際帝国主義との闘争で,ロシア革命は世界革命の第一歩と考えられたので,革命的共産主義者を糾合して新しいインターナショナルをつくることが構想された。1919年3月2~6日,共産主義インターナショナル(コミンテルン)第1回大会が包囲下のモスクワで開かれた。ここから世界へ散った代表たちは,各国社会主義運動の左翼を結集して,20年7月23日に第2回大会を開いた。41ヵ国・67組織の代表が集まったこの大会で,コミンテルンを世界党とし,各国共産党をその支部とする規約が決定され,かつロシア革命を植民地従属国に広める〈民族植民地問題テーゼ〉が採択された。

ロシア革命の拡大の最初の実験は,ポーランド戦争によって試みられた。1920年春,ウクライナに侵入し,5月7日キエフを占領した独立ポーランドのJ.ピウスーツキの軍を追って,赤軍はポーランド領内へ進撃を開始した。7月30日には亡命者によって,ポーランド臨時革命委員会が結成された。赤軍がピウスーツキ軍を粉砕してしまえば,この委員会がポーランドの革命政府となったであろう。だが,8月15日トハチェフスキーが率いる赤軍はワルシャワ近郊で進撃を止められ,退却する。革命の軍事的輸出は失敗したのである。

このころ白衛軍の最後の代表者として登場したのが,将軍ウランゲリPyotr N.Vrangel’(1878-1928)であり,彼は1920年6月,4万の兵力を率いてクリミア半島に入った。

9月になるとウランゲリ軍はさらに力をつけて,アゾフ海東岸のクバン地方に進出する。この軍隊と戦うにあたって赤軍は,デニキンに対する勝利後,〈脱走兵,裏切者〉として狩り立ててきたマフノ軍とあらためて協定を結んで共闘することになった。11月に両軍の共同反攻は効を奏し,ウランゲリ軍は壊滅した。こうして白衛軍との闘争は終わったが,赤軍とマフノ軍との協力もそれまでであった。赤軍のケルチ解放より10日後には,マフノ軍は〈ソビエト共和国と革命の敵〉と宣言されてしまった。

ソビエト政権は,同じとき,タンボフ県のアントーノフの反乱に苦しめられていた。反乱の指導者アントーノフはエス・エル党員であった。農民たちは,20年の夏から〈人馬の解放〉をスローガンに反政府ゲリラ活動を始め,郡部から共産主義者を一掃した。

帝政派の将軍たちが打倒されると,ふたたび当初の農民,エス・エル派と共産党政権との対立が正面に出たのである。多年にわたり農民革命の最大の根拠地であったこのタンボフ県での反乱につづいて,21年3月,これまた常に首都革命の柱の一つであったクロンシタット要塞水兵の反乱(クロンシタットの反乱)が生じた。マフノ軍同様,この二つの反乱は厳しく鎮圧された。レーニンはそのころ,農民との和解を考えていた。すなわち彼は21年3月の第10回党大会で,穀物の割当徴発制を廃止して現物税制を導入し,余剰穀物の販売を許すという新政策を採用した。

これはこの年のうちに都市と農村の間の自由な商品経済関係を認めるネップ(新経済政策)体制に発展していった。

このようにして,21年3月のクロンシタット反乱の清算がなされた時点をもって,内戦の終了,大きくはロシア革命の時代の終りをみることができる。これは,2月21日,ただひとつ残ったメンシェビキのグルジア共和国が赤軍の侵攻によって打倒され,ザカフカスが完全にソビエト政府によって制せられたことと見合っている。

しかし,極東では日本軍は22年10月までウラジオストクにとどまり,さらに尼港(にこう)事件を口実とした北サハリンの占領は25年までつづけられたのである。それはともかく,1921年には革命と内戦,干渉戦に勝利したソビエト権力は,政治的には一元的な強力な国家となっていた。しかし,国土は荒廃しきっていた。その秋,ボルガの沿岸から恐るべき飢饉が発生し,控えめにみても100万の人が死んだ。だが,全身に受けた傷による多量の失血で顔面蒼白ともいえる,この若き社会主義国の誕生は,全世界に変革を呼び,世界史に衝撃を与えていくのである。
2023.08.03 10:49 | 固定リンク | 戦争
「軍が間もなくクリミアに入る」戦場はロシアへ
2023.07.31



■モスクワにドローン攻撃「戦場はロシアへ」「軍が間もなくクリミアに入る」

ウクライナのゼレンスキー大統領は30日の定例ビデオ演説で「ウクライナは強さを増し、戦争は次第にロシアの領土へ戻りつつある」と述べた。ロシア側はこの数時間前、首都モスクワがウクライナによるドローン(無人機)攻撃を受けたと発表した。

ゼレンスキー氏は演説で、ロシアの象徴的な中心地や軍基地を攻撃していると述べ、「これは不可避かつ自然で、絶対的に正当な」動きだと主張した。

ロシアの国営タス通信がロシア国防省の話として伝えたところによると、30日にモスクワを狙ったドローン攻撃があり、3機が撃墜されたが、同市西郊にある50階建てのオフィス兼商業ビルの5、6階部分が被害を受けた。死傷者は報告されていない。現場の動画には、がれきや救急隊の様子が映っている。

ウクライナ軍は同日、ロシアが実効支配するウクライナ南部クリミア半島にもドローン攻撃を仕掛けた。

ロシア国防省は、クリミア上空でドローン25機を迎撃し、このうち16機を防空システムで撃墜したと発表。残る9機は電子戦システムで通信を妨害した結果、黒海に墜落したと述べた。死傷者の報告はないとされるが、CNNは発表の真偽を確認できていない。

ウクライナ空軍の報道官はモスクワなどロシア本土への攻撃について、これまで戦争を遠い話だと感じていた市民にも影響を与えることが狙いだとコメント。「ロシア当局がすべて撃墜したと主張し、見て見ぬふりをしようとしても、どれかが命中する」と強調した。

ウクライナ軍のドローン調達計画を監督するフェドロフ・デジタル変革相は、夏の反攻作戦が進むにつれてドローン攻撃も増えると予告している。

ウクライナは24日にも、モスクワで国防省本部付近のビルを含む非居住用ビル2棟を攻撃したことを認めた。ロシア側はこれを「テロ攻撃」と呼んで非難した。

またロシア軍は28日、南部タガンログでウクライナ軍のミサイルを迎撃したと発表した。

一方、ウクライナ側では引き続き、ロシア軍の攻撃による民間人の犠牲が相次いでいる。北東部の都市スーミでは29日夜、ロシア軍のミサイル攻撃で民間人少なくとも2人が死亡、20人が負傷した。現地の当局によれば、1日のうちに25回の砲撃があった。

南部ザポリージャ州ではこの週末、ロシア軍が20カ所の集落を77回にわたって攻撃。2人が死亡し、住宅31棟やインフラ施設に被害が出た。

■「軍が間もなくクリミアに入る」ウクライナ高官

反転攻勢を進めるウクライナ軍が「まもなくクリミアに入る」とウクライナの高官が主張しました。

 ウクライナメディアは29日、2014年にロシアに侵攻されたクリミア半島について、ウクライナ国防省のブダノフ情報総局長は「ウクライナ軍は間もなくクリミアに入るだろう」と述べたと報じました。

 一方、ウクライナ軍の反転攻勢が遅れていると指摘する声も上がるなか、ゼレンスキー大統領はSNSで東部ドネツク州のバフムトの前線を訪れたと明らかにしました。

 バフムト周辺ではロシア軍との激しい戦闘が続いていて、ゼレンスキー大統領は地図を見ながら戦況を確認したほか、特殊部隊の兵士たち一人ひとりと握手をして激励しました。

■ウクライナ軍、最新型無人艇 ロシア軍艦船狙う

ウクライナ軍はこのほど、同国が開発した最新型とする遠隔操作式の水上ドローン(無人艇)をCNNに初めて公開した。黒海内に展開するロシア軍艦船への攻撃に使われる。

この無人艇は重さ約300キロの爆発物の搭載が可能。高速で、約800キロ離れた海域にいる標的への攻撃が可能とした。

無人艇の操作要員は、制御は容易であり、ロシア海軍艦船の動きを制限出来る効果を持つと説明。無人艇の開発元は、ロシア軍艦船の装備は他の艦船への攻撃を想定しており、それだけ自船の防御は弱くなっていると指摘した。

ウクライナ海軍の無人艇は今月中旬、ロシアが実効支配するウクライナ南部クリミア半島とロシア本土を結ぶ橋の攻撃にも使われた。

ロシアは最近、トルコや国連が仲介した黒海を通じたウクライナ産穀物輸送の協定からの離脱を発表。これ以降、ロシアは黒海を航行する船舶への威嚇行動にも言及しており、無人艇はロシアに対抗する重要な兵器となる可能性もある。

■プーチン大統領、新たに艦船30隻加わると表明

ロシアのサンクトペテルブルクで30日、「海軍の日」を記念する海上軍事パレードが行われた。パレードには兵士らが参加し、ロシア海軍の力を誇示した。

ロシアのプーチン大統領は海上軍事パレードで演説し、ロシア海軍は今年、艦隊の補充のため、さまざまなクラスの艦船30隻を確保すると述べた。

プーチン氏は「ロシアは、国家の海洋政策の大規模な課題を自信を持って実行し、一貫して艦隊の戦力の増強を行う」と述べた。

ロシア大統領府のペスコフ報道官によれば、ロシア・アフリカ首脳会議のためにサンクトペテルブルクに滞在していたアフリカの首脳4人もプーチン氏とともにパレードに参加した。

海軍の日は1939年に制定された。当初は7月24日に実施されていたが、80年に7月の最後の日曜日に変更された。海軍の日には、大規模なパレードが主要な港湾都市で実施される。

■中国のロシアへの技術供与、ウクライナ戦争で重み増す 米報告

ロシアによるウクライナでの戦争に関連し、中国がロシアにとって重要性が増す一方の技術や装備を供与していると分析する報告書を米国家情報長官室が30日までにまとめた。

新たに公表された報告書は機密扱いの指定はされず、一般公開のデータや報道機関の記事などを大きく取り入れている。ただ、「ロシアによる戦争遂行の取り組みで重要な支柱としての中国の役割が一層募っている」などとの米情報機関内の分析も盛り込んでいた。

米下院情報委員会の民主党議員たちが出した報告書によると、今年3月時点で中国がロシアへ輸出したドローン(無人機)や関連部品は1200万米ドル以上に達した。この数字はロシアの税関上のデータを「第三者」が精査した結果に基づく。

中国国営の国防企業は欧米の制裁対象にあるロシア国営の国防企業に、ウクライナでの戦争続行に利する軍事転用が可能な技術を供与しているとも指摘。これらの技術には、航法装置、電波妨害技術や戦闘機の部品などが含まれるとした。

中国からロシアへの半導体輸出も2021年以降、激増していることも判明。欧米による厳しい制裁や輸出規制があるにもかかわらず、ロシアへ流出している米国製あるいは米国の商標がある半導体は数百万ドル規模に相当することがわかったとした。

中国企業はこれら制裁をかわすためにロシアをおそらく手助けしているとも指摘。ただ、その支援の規模を突き止めるのは困難とも認めた。

米情報機関は中国内で関係者との面談や調査を行ったものの、中国が輸出規制など履行する米国の努力を意図的に妨害しているのかは確信が持てないともした。

その上で、中国はロシアのウクライナ侵略が始まった昨年2月以降、ロシアにとって経済的に必要不可欠な協調国としての存在感を深めていると形容した。

中国によるウクライナ侵攻への対応についてバイデン米政権はこれまで中国企業がロシアへウクライナで用いられる非致死性の装備を売り付けていることを示唆する証拠を取り上げ、懸念を再三表明。一方で米政府当局者は中国が兵器そのものやあるいは殺傷能力がある軍事支援をロシアに行ったとの形跡は把握していないともつけ加えていた。

米国はロシアが侵略を始めた当初、中国はウクライナへ流れるであろう致死性兵器を引き渡すだろうとの見方を強めていた。米政府当局者が以前、CNNの取材に明かした見立てだったが、中国は結局、戦争が続くと共にこの計画を大幅に縮小した。バイデン政権が勝利として受け止める展開だったとした。

■米国防システムに中国サイバー攻撃 米紙報道

米軍の通信、補給活動にかかわるさまざまな国防システムに、中国がマルウェア(悪意あるプログラム)を仕掛けたとして、米当局者らが調査を進めていることが分かった。29日付の米紙ニューヨーク・タイムズが報じた。

同紙が当局者らの話として伝えたところによると、マルウェアは米軍基地への送電、給水や通信システムを管理するネットワーク内に仕掛けられたとみられ、有事の際に米軍の活動を妨げる恐れがある。

ある議員は同紙に、中国がマルウェアを「時限爆弾」のように使い、米軍の展開や補給活動を遅らせる可能性を指摘。同じ供給インフラを使う民間の住宅や事業所も影響を受けかねないと語った。

CNNは最近、中国のハッカーらによる一連の工作を報じてきた。

米マイクロソフトとホワイトハウスは今月、米国務省や商務省を含む二十数組織のメールアカウントに5月中旬、中国を拠点とする高度なハッカー集団が侵入していたことを確認した。ブリンケン米国務長官の訪中を控えた米政府内部のやり取りに関する情報を、中国政府に流したとされる。

事情に詳しい米当局者3人がCNNに語ったところによると、先週はバーンズ駐中国米大使のメールアカウントがハッカーの被害を受けた。

米連邦捜査局(FBI)は中国政府のハッキング活動について、他国をすべて合わせた規模よりも大きいとの見方を示している。
2023.07.31 11:38 | 固定リンク | 戦争
「戦狼外交」を否定した「秦剛外相解任劇」
2023.07.29



秦剛氏は目下、国務委員は解任されていないという。その点をどう解釈するのか

秦剛外相解任で浮上する3つの可能性 「国より党」政治化する対外政策 就任半年余で解任された中国の秦剛外相。後任には前外相で外交を統括する王毅政治局委員が任命されるという異例の人事や、中国外務省ホームページから秦氏の情報が一斉に削除されたことなどから「事実上の更迭」と目されている。

健康問題や香港のテレビ局の女性キャスターとの関係を問題視されて調査を受けているといった情報も取りざたされているが、確かな解任理由は発表されていない。前駐米大使でもあり「戦狼外交」の旗手とも目された秦氏。アジア政治外交史の専門家が中国の政治化する対外政策を念頭に、解任劇によって推察される3つの可能性を列挙した。

■外交部への一連の統制強化

世界では「戦狼外交官」のことが議論されるが、「戦狼外交官」が誕生した背景には中国国内での外交部(外務省)の立ち位置の変化、とりわけ中国共産党による管理統制強化があるのではないかと考えられる。習近平政権下の中国では「国家の安全」の論理が強化され、西側諸国が中国でカラー革命(※編集部注・2000年代に旧ソ連の共和国などで独裁的政権の交代を求めて起こった民主化運動の総称)を起こそうとしているという言説が宣伝によって広められている。

外国との関わりは強く制限され、管理される。外国、外国人と関わる仕事はむしろ強い管理の下に置かれるようになったのだ。中国の対外政策もまた、国内のそうした状況から強い影響を受け、いわば政治化している。

2010年代末から中国国内で外交部への疑義が強まり管理統制が強化され、特に中国共産党中央紀律委員会が外交部に対して「紀律検査」を行って外交部が批判対象となったことが重要だろう。この結果、外交部の党書記に外交経験のない党組織部副部長の斉玉氏が就任して部内の管理統制体制が築かれた。

斉書記は「主題教育専題党課」という学習会を、外交部幹部を相手に連続して実施して思想の徹底を図っている。また斉書記は、『求是』などの党の機関誌に「論文」を発表して自らの外交理念を内外に示しているが、それはまさに習近平氏の政策思想にはめ込められた外交であった。斉書記の描く外交は、まさに習近平政治と一体化した「政治」としての外交であり、また国家というよりもむしろ党のための外交だということになろう。

詳細はわからないが、こうした状況の中で外交部職員の評価基準も大きく変わったことが想定される。外交部も職員たちも、「愛国的か」「習近平思想に則っているか」が問われるようになったと考えられ、彼らは身を守るためにもそれに即して行動することを求められるようになったのだろう。

バイデン政権発足後の2021年3月、アラスカで行われた米中外交トップ会談で、楊潔箎国務委員(当時)や王毅外交部長(当時)がブリンケン国務長官らに対して語った「厳しい」言葉がまさにそうした国内からの視線、習近平政権の党中央を意識した言葉遣いだっただろう。そうした基準に照らせば、楊潔箎氏や王毅氏は「傑出した」外交人材だということになろう。また、日常的にも、外交部報道官はまさに国内向けにナショナリズムを煽り、在外の外交官も国内の外交言説を語るようになった。彼らは世界で「戦狼外交官」と呼ばれるようになった。


■一定程度には存在した揺り戻し

このような「戦狼外交」や外交部への管理統制に向けた動きへの反発や揺り戻しがなかったわけではない。新型肺炎の感染が世界的拡大し始めていた2020年3月中旬、中国外交部の趙立堅報道官が自らのツイッターに、その新型肺炎が米軍によって中国にもたらされた可能性があると書き込んだ。

このことが騒動になると、逆に3月下旬には崔天凱駐米大使が趙報道官の見解に反論したとの報道があり、4月上旬には趙報道官が事実上自らの発言を撤回した。だが、結果的に見れば、崔天凱大使のような方向性が主流になっていったわけではない。4月中下旬にはトランプ大統領らの中国批判は強化され、中国側の対米言論もエスカレートしたのだった。

この頃、欧州でも中国による「戦狼外交」への懸念が強まった。例えば、駐スウェーデン大使の桂従友氏のあまりに過激な言動は大きな批判を巻き起こした。桂氏は早くも2018年に中国人旅行者のトラブルをめぐる事件に関するインタビューなどから過激な言動を繰り返したが、これは上記の中国共産党の外交部への管理統制強化の以前から、外交部や外交官たちの中にさまざまな動きがあったことを想起させる。

桂大使の言動はその後も強まっていき、スウェーデンの対中認識を悪化させる契機となった。桂大使は2021年秋には辞任を表明、2022年1月に正式離職した。桂氏は現在も外交部の「大使」として国内で業務を続けている。

その後、中国の欧州外交における「戦狼」ぶりはやや低調になったかに見えた。中国からの外交使節が欧州諸国を巡回して、中国のある程度「穏健」な外交を復活させるような動きが2022年後半には多少見られたという話もあった。2023年1月、「戦狼外交官」の象徴のように言われてきた趙立堅報道官がその職を退いたが、失脚ではなく「辺境及海洋事務局副局長」に就任したのだった。

2023年3月、前年秋にすでに外交部長となっていた秦剛は国務委員ともなった。異例の出世である。この時、秦部長兼国務委員は記者会見で「戦狼外交官」という中国外交官への見方を一蹴し、中国の外交官はむしろ「狼と共に舞うのだ(悪人と共にいて常に危険に晒され、身を慎むことが求められる)」と、従来から述べていた持論を展開した。

この秦部長の発言が、従来からの外交部への管理体制強化、政治としての外交のあり方への疑義であったかは判然としない。だが、結果的に見て秦剛外交部長は、「戦狼外交」の波を止めることはできなかったようだ。あるいはむしろ、外交部への管理統制は従来以上に強化されたのかとさえ思われる。それは、2023年4月の盧沙野駐仏大使のウクライナ問題をめぐる発言、また同月の呉江浩駐日大使の台湾をめぐる発言などからも予測できよう。


■どう見る?秦剛外交部長(国務委員)解任劇

秦剛氏は2023年6月にブリンケン国務長官らを迎えた後、25日にスリランカ外相およびベトナム外相、そしてロシア外務副大臣との会談を最後にその姿が見られなくなったとされている。

目下のところ事実関係が判然としないので、いくつかの可能性を列挙しておきたい。

第一に、単純に報道で言われているように女性問題や汚職、機密漏洩などの職務規定違反、あるいは「紀律」に反する行為があったとする見方がある。この可能性もあろうが、王毅―斉玉ラインが秦剛氏を守ろうとすれば一定程度は守れたであろう。

第二に、7月25日の全人代常務委員会で易綱氏が中央人民銀行総裁を辞任させられたように、欧米先進国との関係性についての管理統制フィルターが、外交部に限らず、党政府の諸部門で従来以上に強化された結果、従来は問題視されなかったものが問題視されるようになった可能性である。この場合は、外交部内のこれまでの動向よりも大きな動きが影響したということになる。

第三に、上記のような外交部、あるいは外交のあり方をめぐる動静の流れの中で秦剛氏解任を位置付ける見方である。ブリンケン国務長官との会談に問題があった可能性もあろう。ブリンケンとの会見では、王毅氏の厳しい表情に対して秦剛氏の笑顔は印象的であった。

だが、それだけでは解任の理由にはならないだろう。いずれにせよ、秦剛氏を王毅―斉玉ラインが守らなかったということ、あるいは守りきれなかったということは確かだろう。そして、王毅氏の外交部長就任も、たとえ暫定的な任命であるにしても、中国共産党の外交(外事)委員会から国務院、外交部に至る一貫指導という点では、習近平政権の党の国務院への指導強化にかなうことにもなる。

新たに王毅氏の後任が任命されるにしてもこうした一貫性は考慮されるだろう。目下、中国の外交政策、また外交部という組織は王毅―斉玉が一元的に把握したというようにも見えるが、中国共産党には中央対外連絡部などの組織があり対外政策に関わる機関は多様だ、また、王毅氏と斉玉氏との関係性についても判然としない点が多く、引き続き考察が必要である。

なお、最後になるが、秦剛氏が目下、国務委員については解任されてはいないという点をどう解釈するのかという課題が残されている。国務委員も追って解任されるのか、外交部長だけになるのか。この点についても引き続き注意深く見守る必要がある。
2023.07.29 11:17 | 固定リンク | 戦争
習近平の「中華民族の偉大な復興と終焉」
2023.07.25


習近平の「中華民族の偉大な復興の指針の一つは核戦略にあり」 「無制限、予測不能」中国の独立した「ロケット群核戦略」 10年以内に驚異的に拡大とその終焉

米国の研究者らは、中国がサイロを拠点とする大陸間ミサイル戦力を継続的に拡大しており、早期警戒発射に基づく厳戒状態に発展する可能性があると指摘する報告書を発表した。さらに、中国が展開する核戦力全体は、公に表明されている核政策とますます矛盾するものとなり、新たに構築された核資産は、将来的にはより挑発的な核兵器の使用を促進することになるだろう。核専門家らは、「無能かつ予測不可能」で「政治論理が軍事戦術を決定する」中国の核拡張が米中間の敵対関係をさらに激化させ、予測不可能な結果を​​招く可能性があると懸念している。

アメリカ・インド太平洋軍のジョン・アキリーノ司令官は7月18日、アスペン安全保障フォーラム(アスペン安全保障フォーラム)で、「アメリカは中国とロシアに核制限交渉への参加を要請しているが、相手方は招待に応じていない」と述べ、核能力を含む中国軍の増強を懸念していると述べた。

「米国が戦略的能力を近代化し続けることが重要だ。これが戦略的核抑止力を通じて国を守るための最低ラインだ。中国は非常に急速に発展している…米国が戦力を近代化し、必要に応じて対応できるよう準備を整えておくことが重要だ。」国防総省は中国が2035年までに約1,500発の核弾頭を保有すると推定しているが、中国は常に核拡張の規模を認めることを拒否している。米国と中国は、互いの核兵器の基本についてさえ合意できていない。

米国のジェームズ・マーティン不拡散研究センター(MIIS)の研究助手であるデッカー・エベレス氏は、7月3日に発表された研究報告書「人民解放軍ロケット軍戦闘序列2023」の中で、「現在、中国の核に関する考え方はブラックボックスだ。このブラックボックスに入る安全保障推進要因が見えるし、このブラックボックスからも安全保障推進要因が見える。軍事インフラと配備された軍事システムだが、中国軍は核に関する考え方を公然と議論していないため」と指摘した。核兵器や核抑止力について、彼らが何を考えているのか正確にはわかりません。」

イープルズ氏は、人民解放軍ロケット軍が実際に配備した兵器とその数の分析が、中国が核兵器をどのように捉え、使用しているかを知る数少ない窓の一つになったと考えている。彼の報告書には、6つのロケット旅団の位置座標、核兵器の種類、各戦闘部隊が保有する発射装置の数が詳細に記録されていた。

同氏は、2028年までに中国は1,000基以上の弾道ミサイル発射装置を保有し、そのうち507基が核搭載可能、342~432基が通常型発射装置、少なくとも252基が両用発射装置となることを明らかにした。

ロケット軍 大陸間ミサイルは米国を直撃可能、習近平は核戦力の集中管理を強化

以前は「第二砲兵軍」として知られていた中国ロケット軍は伝統的に規模が小さく、能力も限られていた。中国の習近平国家主席は2015年にロケット軍を完全に独立した部隊に昇格させ、ロケット軍を「中国の戦略的抑止の中核部隊であり、大国としての中国の地位の戦略的支援であり、国家安全保障を維持するための重要な基礎」と呼んだ。ロケット軍は現在、核ミサイルと通常ミサイルの両方、長距離精密攻撃、超音速滑空機など、さまざまなミサイル能力を保有しており、台湾の防衛システムの破壊、米空母の攻撃、報復核攻撃に使用できる。

前述の報告書は、過去10年間でロケット軍の戦闘ミサイル旅団の数が少なくとも40に倍増し、現在は6つのミサイル基地に分かれており、それぞれが6~8個旅団を担当していると指摘した。

報告書の著者イーペル氏はまた、中国がサイロ拠点の大陸間弾道ミサイル戦力を拡大していることを発見した。玉門、哈密、航金旗、吉蘭台などで建設中の334基の固体燃料ミサイルサイロに加え、ロケット軍は東風5号大陸間弾道ミサイル(DF-5)用の液体燃料サイロの数も急速に増やしている。今後 3 年間で、稼働中の東風 5 サイロの数は 18 基から少なくとも 48 基に増加する予定です。

興味深いことに、報告書は、サイロベースの大陸間弾道ミサイルへの依存が高まっているため、ロケット軍の即応性の変更が必要になる可能性があると指摘している。「固体燃料サイロ内のミサイルが何らかの形で常時警戒している可能性に加え、ロケット軍は東風5号サイロの近くに既存の地下施設を新設または改修している。これは、より高いレベルの作戦準備を支援するため、サイロの近くに核弾頭を保管し、警告時発射(LOW)ベースの能力を支援したいという中国の願望を示している可能性がある。」

■軍事問題の権限は習近平の手に委ねる

イーペル氏はVOAに対し、中国共産党は早期警告に基づいて発射の方向に動いている可能性があり、その背後には軍事的・政治的要因があると語った。「軍事面では、米国のステルス資産が大量の米国の核兵器で指揮統制施設をバックアップし、兵器庫を破壊し、その後発射された兵器をミサイル防衛で撃墜する時間を与えられることを心配するなら、早期警告発射を行うのが理にかなっている。中国の観点からすれば、それは基本的に最悪のシナリオだ。」政治レベルでは、中国が事前警告に基づく発射義務化を採用すれば、と彼は主張する。最高指導者によると、基本的には軍事問題に関する唯一の権限を習近平の手に委ねることになる。

「彼が権力を強化していることを考えると、早期警戒に基づいて行動することは、彼にとって軍事問題に対する支配力を強化する優れた方法である。」

ジョージタウン大学国際関係学部のニコラス・アンダーソン助教授はVOAに対し、サイロベースのミサイルは核トライアドの一部であり、爆撃機や潜水艦など核トライアドの他の部分よりも開発コストが安く、移動式の地上配備型大陸間弾道ミサイルよりも運用が容易であると語った。

「比較的低コストで戦力を増強する手っ取り早い方法です。しかし、これらの戦力は動かず、米国の反撃に対してより脆弱です。飛来するミサイルを感知しても動けないのです。そのため、サイロを多用して作戦を行う場合は、早期警戒発射が必要になる場合があります。誰かが核弾頭や通常の対抗兵器を核爆弾サイロに発射した場合、破壊される前に発射するインセンティブが得られます。」

イープル氏らは2021年に衛星画像から、中国が甘粛省玉門地区に100基以上の新たなミサイルサイロの建設を始めていることを初めて発見した。同氏は、中国による固体燃料ミサイルサイロ建設のニュースが出たとき、外部世界は一般に、中国がこれを主に移動核戦力の生存性向上に利用し、米国が攻撃するために大量の核兵器を使用する必要があるミサイルサイロを建設することで圧力をそらそうとしたためであると信じていたと強調した。

しかし、DF-5 の出力がわずかに増加しているという彼の最近の発見は、この戦略には適合しません。「投球能力を高めたい、つまり破壊力を高めたいなら東風5を選ぶだろう」と語った。

核兵器と米中安全保障関係を研究する米国海軍大学の助教授デイビッド・ローガン氏はVOAに対し、最近の研究でイーペル軍のロケット部隊の即応性が高まっている証拠も発見したと語った。同氏は、部隊のコードネームの変更から、ロケット軍のさまざまな基地で核弾頭の取り扱いを担当する装備検査連隊が、核弾頭の集中取り扱いを担当する基地67に再所属した可能性があることを察知した。

ロング氏によると、この権力再編は、中国の核弾頭の集中的政治管理と分散型弾頭保管慣行が組み合わされることを意味しており、これにより分散型弾頭保管のリスクを相殺し、一部の軍隊を定期的に厳戒態勢に置くことができるという。

「サイロは移動式ミサイルよりも運用上の要求が低いと考えられ、中国が歴史的に好んできた核兵器に対する強力な政治的管理により適していると考えられる。サイロベースのシステムを平時より高いレベルの警戒状態に置くことは、(ロケット軍)によって容易でリスクが少ないと考えられる可能性がある。これは将来の研究の可能性のある分野である」と同氏は述べた。

カーネギー国際平和研究所の核政策プロジェクトの上級研究員、趙通氏は米国の声に対し、1964年の中国初の核開発装置の爆発から21世紀初頭まで、中国は300発以上の核兵器を開発しておらず、米国を攻撃できる大陸間ミサイルや潜水艦ミサイルなどの兵器の数は、米国の東風5号約20発に依存していると語った。 . 弾道ミサイルは米国に対する戦略的抑止力の主力だが、近年突然「非常に驚くべき発展」を遂げている。

同氏は、「浄基のような従来の大陸間弾道ミサイルの数は20発から300発以上に増加し、さらに増える可能性もある。この規模と速度はいずれも驚くべきもので、わずか数年でこれほどの数の増加が見られる」と語った。

大陸間ミサイルに加えて、中国の中長距離ミサイル戦力も近代化工事を進めている。YPlusの報道によると、東風21弾道ミサイル(DF-21)の射程を延長した改良型DF-21Aの大部分が、核と通常ミサイルの両方を備えた中距離弾道ミサイル東風26(DF-26)に置き換えられた。現役の東風-26発射機の総数は少なくとも216機に達し、今後3年間で252機に達する可能性がある。

さらに報告書は、東風-17極超音速弾道ミサイル(DF-17)が現在少なくとも1つのロケット軍部隊で運用されており、今後3年以内に他の3つの旅団で運用されることは確実であると述べている。東風17号は現在、韓国と台湾海峡周辺の地域に広く配備されている最中である。

ロケット軍は台湾海峡紛争で「核の盾」を提供 イープル

大統領はVOAに対し、台湾に対するいかなる軍事行動においても、ロケット軍の役割は変わりつつあると述べ、以前は人民解放軍の長距離射撃能力は戦略ロケット軍(SAC/PLARF)の手にあったが、現在は空軍と海軍の両方が通常ミサイル能力を持っていると語った。

同氏は、戦略ロケット軍は現在、2つの独自の役割を担っていると述べた: 1つは、極超音速滑空機を使用して台湾のミサイル防衛施設を破壊または無力化することで、人民解放軍が安価な弾薬で台湾の空軍基地を破壊する道を開くこと、2つ目は、長距離で米軍資産を脅かす東風26の威力を維持することである。

「米中戦争の場合、東風26の任務は、東アジアの主要な米軍基地と飛行場のほぼすべてを破壊することだろう。米国とその同盟国は、ミサイル防衛インフラを増強する措置を講じている。また、人民解放軍がクラスター弾を使用して数発で多数の航空機を破壊できないように、米国とその同盟国は飛行場を強化すべきである。」 米国海軍大学のデービッド・ロング氏は、中国の核拡張の戦略的・政治的影響はいまだ不明確であると考えている。しかし、中国に台湾に対する軍事侵略を開始するよう促すことは可能である

同氏は、「核増強は、中国がより自信を持って通常攻撃を開始するための『核の盾』として機能する可能性がある。すべては、核増強の政治的影響、特に米国の介入意欲を中国がどのように認識するかにかかっている。しかし、中国が核戦力に対する長年の政治的、作戦的、技術的制約を緩めれば、危機や紛争において核エスカレーションのリスクが増大する可能性がある」と述べた。

習近平は中国の核政策を変えるだろうか?

中国は核態勢について「最小限の抑止」(最小限度の抑止力)原則の遵守を主張し、核兵器配備では第2攻撃能力、すなわち核反撃能力の維持に重点を置いている。しかし、近年の中国の核戦力の大規模な拡大は、従来の公的政策声明と矛盾しているように見える。習近平が第20回中国共産党大会の報告で宣言したように、中国はこれまでの「無駄がなく効果的な」核戦力原則から「強力な戦略抑止力システムの構築」に移行した。

「中国の早期警戒に基づく発射能力の発達は、固体燃料ミサイルサイロと相まって、瞬時に核攻撃を開始できることを意味する。」イープル氏は報告書の中で、中国の核戦力における最も憂慮すべき変化は、実際には発射装置の数の拡大ではなく、中国が、相手が中国本土への攻撃を完了した後に核ミサイルを発射する「報復計画」から「早期警戒に基づく発射」(LOW)核態勢への明らかな転換であると指摘した。

そうなれば、米国と中国の間が通常の紛争から核紛争にエスカレートするリスクが高まるだろうとイーペル氏は警告した。例えば、米国が通常戦で中国の戦略早期警戒レーダーを攻撃した場合、それはより大規模な「損害制限」(Damage Limitation)核攻撃の前兆と誤解される可能性がある。

カーネギー国際平和基金のZhao Tong氏は、「歴史的に冷戦時代から冷戦後にかけて、早期警戒システムでは多くの誤報があったため、中国は伝統的に早期警戒発射に基づく配備モデルに反対してきた。相手側からのミサイルの飛来はなかったが、さまざまな技術的理由により誤報が発せられた」と指摘した。「誤報に基づく核反撃があれば、理由もなく核戦争を引き起こすことになる。」 中国政府は1964年の

初核実験以来、依然として「先制不使用」の核政策に従っていると主張しているが、たとえ中国が現在新たに建設した核資産をより挑発的に使用する計画がなくても、これらの資産はすでに存在しており、中国が将来的にはより攻撃的な核態勢に移行することが容易になるとイープルス氏は考えている。

米軍事ニュースネットワークのウォリアー・メイブンによると、フランク・ケンダル米空軍長官は2021年、数百基の新たな陸上固定式大陸間弾道ミサイルサイロを追加する中国の動きは「先制攻撃」能力の開発に等しいと述べた。

米国海軍大学助教授のデービッド・ロング氏は、国防大学中国軍事研究センター所長フィリップ・サンダース氏(フィリップ・サンダース)との共著「中国の核戦力開発の推進要因を見極める:モデル、指標、データ」(中国の核戦力開発の推進要因を見極める:モデル、指標、データ)と題する研究報告書を今月出版する。同氏がVOAに独占的に提供した草案によると、2011年時点で中国が保有する核弾頭は180発未満と推定されており、そのうち米国に到達できる核弾頭は40発未満だったという。現在、中国は約400発の核弾頭を保有していると考えられており、そのうち200発近くが米国に届く可能性がある。

報告書は、歴代の中国指導者らは核兵器は核攻撃の抑止、核脅迫の防止、核反撃の実行にのみ有用だと信じていたが、習近平氏を含む中国共産党高官らは核兵器と核戦略について異なる見解を持っており、この見解は権威ある党や軍の文書に反映され始めていると指摘した。

報告書は、安全な第二攻撃、核の盾、大国の地位という3つのモデルが中国の核戦力開発の軌道と最も一致していると結論づけた。これらのモデルは、中国が適度な警戒状態、低レベルの発射権限委任、核兵器非先制不使用政策の継続的な遵守など、比較的抑制された作戦姿勢を維持する可能性が高いと予測している。

シンガポール国立大学東アジア研究所の上級客員研究員、リー・ナン氏はボイス・オブ・アメリカに対し、中国の核政策が根本的に変更され、将来的に「先制不使用」が廃止されるかどうかは、戦略核兵器に比べて威力が相対的に低い戦術核兵器の配備が重要な観測指標となると語った。

同氏は、「戦術核兵器は別の前提に基づいているため、核戦争には勝つことができるが、核兵器の使用は限定的である。これが最も重要な結節点である。中国には先制攻撃を開発する動機がある。つまり、中国が通常の軍事力を増強した後、米国は戦術核兵器を使って対抗するだろう。では、中国は米国の戦術核兵器にどうやって対抗できるのか?(戦術核兵器の)開発も必要だ」と述べた。 「先制不使用」の核政策を放棄しますか

?記事は、中国の軍事計画立案者らは「先制不使用」に不満を表明していると指摘した。一部の人々は、国家統一維持のための戦争への大規模な外国軍事介入(台湾海峡での紛争を示唆)や三峡ダムの「巨大な脅威」に直面していること、人民解放軍の通常戦力では大規模な外国侵略から中国を守ることができないことなど、次の深刻な脅威の下で中国は初の核攻撃を開始すべきだと考えている。

カーネギー国際平和財団の趙通上級研究員は、中国の指導者らはこれまで、相手の通常の軍事的脅威を抑止するために核兵器を使用することに期待をしていなかったが、現在の指導者が態度を緩和し、こうした制限を強調しなくなったことから、中国の戦略学者らは今後、大国間の戦略的バランスの達成の観点も含め、核・非核軍事分野で核兵器の役割を最大化するなど、中国の核兵器を柔軟に使用する方法をさらに深く検討するだろうと考えている。国際政治の分野で。

同氏は、今回の中国の核拡大は主に政治指導者らによって推進されており、その背後にある政治論理は、米国に中国を戦略的に抑圧する衝動を放棄させ、中国が台頭したという現実を受け入れ、中国と平和的に共存させるために、中国は米国に対してより強力な戦略力をできるだけ早く示す必要がある、というものであると分析した。

「これが最も予測不可能な要素だ。つまり、彼には明確な目標はないが、一般的な政治的考えがあるということだ。彼は軍事レベルであまり明確な戦術的指標を持っていない。この目標を達成するために中国はどの程度の規模の核兵器を開発しなければならないのか?低出力核弾頭が効果的かつ必要な役割を果たすかどうかを含め、中国はどのような具体的な核戦闘計画を必要としているのか。中国の政治指導者がこれらの問題について特に深い理解を持っているとは思えない。」 どのような核能力と配備形態を効果的に監視するか。

趙統氏は、中国の上層部の政治論理が軍事開発の現状を決定し、米国の中国に対する脅威認識を強める可能性があると懸念しており、中国がこれまでも含め相応の透明性を示さずに核兵器開発に専念してきたことを考慮すると、中国当局は依然として大規模な原子力発電拡張を否定し、拡張の理由や最終目標、計画数などについて基本的な説明を拒否している。

「米国の観点から見ると、これは完全に上限のないプロセスだ。中国は核保有量で米国と同レベルに達するだけでなく、将来的には米国を超える可能性さえあると感じている。これが中国の現在の意思決定者や専門家の主流認識を反映しているとは思わないが、米中関係における脅威認識の高まりに多大な影響を及ぼし、中米全体の敵対関係の増大に非常に重要な役割を果たしてきた」関係」と彼は語った。
2023.07.25 22:56 | 固定リンク | 戦争
ストームシャドウで「占領地半分奪還」
2023.07.24


■クリミアのロシア軍施設を攻撃したのはストームシャドウ?イギリスが供与した長距離ミサイルの戦果

ロシアとの全面戦争を恐れるアメリカがいまだに供与を拒否している長距離ミサイルが、ロシア支配地域の重要な標的を次々破壊している

ロシアが実効支配するクリミア半島キロフスク郡にあるロシア軍の施設で7月19日に爆発が起きた事件について、ウクライナ軍が長距離巡航ミサイル「ストームシャドウ」で攻撃したのではないか、という憶測が広まっている。

ロシアが任命したクリミア自治共和国のセルゲイ・アクショーノフ首長は、事件について、ロシア軍の訓練場で火災が発生し、周辺住民2000人以上が避難していると述べた。メッセージアプリ「テレグラム」のロシア連邦保安庁とつながりのある複数のチャンネルは、同基地で複数回にわたる爆発があったと報告したが、アクショーノフは火災の原因についての詳細は明らかにしなかった。

ウクライナはクリミア半島にあるこの基地を攻撃したことを認めていないが、ロシアの一部の軍事ブロガーやテレグラムのチャンネルは、ウクライナ政府が同基地を「ストームシャドウ」で攻撃した可能性を示唆している。

長距離巡航ミサイル「ストームシャドウ」は、ウクライナが6月初旬から始めた反転攻勢に先立って、5月にイギリスがウクライナに供与したものだ。

「偽の声明文」が出回る

ミサイル技術の専門家であるファビアン・ホフマンは5月にツイッターへの投稿で、「ストームシャドウ」にはクリミア大橋を攻撃できる潜在能力があると指摘していた。クリミア大橋はクリミア半島とロシア本土をつなぐ唯一の橋であり重要な補給路で、その破壊はウクライナ軍の重要な戦略目標になっている。

ロシア政府寄りで110万人の登録者を擁するテレグラムチャンネル「Rybar(リバル)」と、ロシアの民間軍事会社「ワグネル」とつながりのあるチャンネル「グレーゾーン」はいずれも、今回の攻撃は「ストームシャドウ」を使って行われたものだと主張した。ロシアの国内ニュースを扱うチャンネル「Brief」も、同様の推測を伝えた。

これまでのところ、「ストームシャドウ」が使われたことを示唆する証拠はない。ウクライナは攻撃を認めておらず、ロシア政府もまだウクライナ政府を名指しで非難はしていない。だが7月19日の朝には、ウクライナ国防省情報総局のキリロ・ブダノフ局長が攻撃を認めたものだとする「偽の声明文」がソーシャルメディア上に出回った。

■ウクライナ軍、南・東部でさらに16平方キロ奪還

ウクライナのハンナ・マリャル(Ganna Malyar)国防次官は24日、ロシア軍に対し反転攻勢を強める自国軍が先週、南部と東部で合わせて16平方キロメートルの領土を新たに奪還したと発表した。

マリャル氏はテレビ放送されたコメントで「先週(南部で)12.6平方キロの領土を解放した」と述べるとともに、東部バフムート(Bakhmut)一帯でも4平方キロを奪還したと説明した。

同氏によると、ロシア軍は東部ハルキウ(Kharkiv)州クピャンスク(Kupiansk)一帯で、ウクライナ軍部隊をオスキル(Oskil)川の対岸へ押し戻そうと攻撃を仕掛けているという。

■ウクライナ、ロシアによる占領地域の半分を既に奪回

リンケン米国務長官は23日、CNNテレビのインタビューで、ウクライナが「当初(ロシアに)占領された地域の約50%を既に取り戻した」と語った。

ただブリンケン氏は「まだ反転攻勢は序盤の段階にある」と指摘。残る地域の奪回に向けては、ウクライナは「非常に激しい戦い」に直面しており、すぐに成果が得られることはないだろうとの見通しを示した。

ウクライナはこれまでに南部の幾つかの村と、東部ドネツク州バフムトの周辺地域を取り戻しているが、ロシアの強力な防衛線の大規模な突破は果たしていない。ゼレンスキー大統領は先月、反転攻勢の進展スピードが期待よりも遅いと述べた。

ブリンケン氏は、ウクライナが米国製のF16戦闘機を入手することになるかとの質問に、そうなると信じていると回答。「大事なのは彼らへ実際に届けられた際に、適切な訓練や保守管理を行い、うまく使いこなせるようになることだ」と強調した。

欧州などの11カ国は8月にデンマークで、ウクライナのパイロットに対するF16の操縦訓練を開始する予定で、ルーマニアにも訓練センターが設けられる。

■モスクワにドローン攻撃、建物が損壊 1機が国防省の近くを攻撃

ロシアの首都モスクワで24日早朝、ドローン(無人機)による攻撃があり、少なくとも2棟の建物が損壊した。ロシアはウクライナが仕掛けた攻撃だと非難した。

ロシア国防省は、ドローン2機を「制圧し墜落させた」とした。死傷者はなかったとした。

同省はテレグラムに投稿した声明で、「キエフ(キーウのロシア語読み)の政権がドローン2機を使ってモスクワ市内の目標物に対してテロ行為を実行しようとしたが、阻止された」とした。

国営タス通信は、1機は国防省の近くに落下したと報じた。

ウクライナ当局はコメントを出していない。ロシア国内での攻撃について、ウクライナ当局が実施を認めることはほとんどない。

国防省から2キロの場所で破片

モスクワのセルゲイ・ソビャーニン市長は、この日午前4時(日本時間同10時)ごろ、ドローンが「住宅ではない」建物を攻撃したと明らかにした。建物に大きな被害はなかったという。

一方、複数の報道機関は、ドローンの破片が国防省の建物から2キロメートルほどの場所で見つかったと伝えた。

タス通信は、モスクワ市内のコムソモリスキー通り沿いでも、ドローンの残骸が発見されたと報じた。運輸省はテレグラムに、この通り沿いで交通が遮断されていると書き込んだ。写真からは、救急隊が現場で活動しているのがわかる。

リハチェフ通りでは高層オフィスビルが被害を受け、通行止めとなった。軍のテレビチャンネル「ズヴェズダ」の映像では、このビルの最上階の窓がなくなっている。

ロシアで相次ぐドローン攻撃

ロシアは自国領でここ数カ月続発しているドローン攻撃について、ウクライナによるものだと非難している。

ロシアは今月初め、ウクライナがモスクワにドローン攻撃を仕掛け、ヴヌーコヴォ国際空港からのフライトを変更させたと発表した。ウクライナは攻撃を認めていない。

5月には、モスクワのロシア大統領府に対してドローン攻撃があった。同国はウラジーミル・プーチン大統領の命が狙われたとしているが、ウクライナは攻撃の実施を否定している。

今回の攻撃の前日には、ロシアがウクライナの港湾都市オデーサをミサイルで攻撃。歴史的建造物のウクライナ正教会の救世主顕栄大聖堂を破壊した。

国連の教育科学文化機関(ユネスコ)は、オデーサの歴史地区への攻撃について、「深く憂慮し、これ以上ないほど強く非難する」とコメントした。

ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、報復を宣言。キーウでの毎夜恒例の演説で、「向こうは間違いなく、これ(報復)を感じることになるだろう」、「(ロシアによる)今回のミサイルの標的は、都市や村や人々だけではない。標的にしているのは人類であり、欧州文化全体の根幹だ」と述べた。

■クリミアの「燃料貯蔵庫攻撃」クリミア橋通行停止に

ロシア当局は22日、クリミア半島の燃料貯蔵施設がドローン攻撃を受けたとして、ロシア本土とクリミア半島を結ぶケルチ大橋を通行停止にするなど交通に混乱が生じたと明らかにした。

ロシアがクリミアを併合して現地に設けた行政当局のトップ、セルゲイ・アクショノフ知事は、証拠を示さないまま、ドローン攻撃はウクライナによるものだと主張した。アクショノフ氏は、攻撃から半径5キロ圏内の住民は避難したと話した。

車道と線路が平行して走るケルチ大橋について、現地当局は一時両方の交通を停止したものの、車両の通行は間もなく再開された。ただしその後、車両も再び通行止めになり、当面はその状態が続くと発表した。

アクショノフ氏は、クリミアのクラスノグヴァルデイスキー地区にあるインフラ施設が攻撃の標的だとした。メッセージアプリ「テレグラム」でアクショノフ氏は、「初期段階の情報では、損傷や人的被害はない」と書いた。

ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ケルチ大橋は正当な標的だと主張している。21日にゼレンスキー氏は、「この戦争の弾薬を届けるのに毎日使われる」大橋を「無効」にする必要があると述べ、ウクライナ政府は大橋を「敵の施設」とみなしていると話していた。

「そのため当然ながら、(大橋は)我々にとって標的となる」。アメリカ・コロラド州アスペンで開かれた安全保障関連会議で、ゼレンスキー氏はビデオ演説でこう述べた。

ロシアは2014年にクリミアを違法に併合した後に、「クリミア大橋」とも呼ばれるケルチ大橋の建設を開始。プーチン氏が自ら先導し、2018年に開通した。クリミア半島とロシアの間のケルチ海峡にかかり、道路と鉄道が並行している。橋は、ウクライナ南部を占領するロシア軍にとって重要な補給ルートとなっている一方、ウクライナにとってはロシアによる侵攻の象徴でもある。

ケルチ橋では昨年10月に大きな爆発があり、一部が通行止めになっていたが、今年2月に全面的な通行を再開。今月17日にも爆発があり、2人が死亡したものの、線路は破損していなかった。

17日の爆発について、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はウクライナによる「無意味」で「残酷」な「テロ攻撃」だと非難し、報復を約束していた。

■ウクライナ、米供与のクラスター弾を「効果的に」使用

アメリカの政府高官は20日、アメリカがウクライナに供与したクラスター弾が、ロシア軍に対して使用されていると明らかにした。

米国家安全保障会議(NSC)のジョン・カービー戦略広報調整官は、クラスター弾がロシアの防衛拠点や作戦に対して「効果的に」使われていることが、ウクライナ側からの初期の報告からうかがえると述べた。

カービー氏は、「ウクライナは適切に使っている」、「効果的な使い方をしており、ロシアの防衛陣形や防衛のための部隊移動に実際に影響を与えている。これについては、そのくらいにしておく」と述べた。

クラスター弾は、多くの小型爆弾を内包し、まき散らす。民間人にも脅威だとして、100カ国以上が使用を禁止している。

アメリカは、ウクライナが今夏の反転攻勢で弾薬不足状態だと訴えたことを受け、クラスター弾の供与を決定した。ウクライナの反撃は、大方が望んでいたより進みが遅く、犠牲も大きくなっている。

ジョー・バイデン米大統領はクラスター弾供与の決定を「非常に難しい」と表現した。同盟国のイギリス、カナダ、ニュージーランド、スペインは、クラスター弾の使用に反対した。

ウクライナはクラスター弾について、ロシア兵の集中を解く目的に限って使うと約束している。

アメリカが供与したクラスター弾の大部分は、「不発率」が2.35%未満とされる。不発の場合、何年にもわたって危険な状況を生む。

クラスター弾は、塹壕や要塞(ようさい)内の兵士への攻撃で効果的とされる。広範囲に小型爆弾がまかれるため、兵士は移動が困難になる。

ロシアはウクライナへの本格侵攻を昨年開始して以来、同じようなクラスター弾を使っている。民間人が暮らす地域でも使用している。

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、アメリカがクラスター弾の供給を決定したことを受け、ロシアも同様の兵器を保有していると発言。アメリカが供給した弾が「私たちに使われれば」、ロシアも使用すると述べた。

ウクライナ東部でのウクライナ軍の作戦を指揮するオレクサンドル・シルスキー司令官は先週、「敵の歩兵に最大限のダメージを与える」ため、クラスター弾が必要だとBBCに話した。

「素早く成果を出したいと思っているが、現実にはまず不可能だ。ここで兵士が多く死ぬほど、ロシアにいる兵士の親族らは自分たちの政府に『どうしてなのか?』と問い詰めることになる」

シルスキー司令官はまた、クラスター弾が「すべての問題を解決する」わけではないと付け加えた。

さらに、クラスター弾の使用には賛否両論があると認めつつ、「もしロシア軍が使わなければ、私たちも良心がとがめて使えないだろう」とした。
2023.07.24 19:42 | 固定リンク | 戦争

- -