衛星画像で捉える「ロシア軍艦撃沈」
2023.08.06



黒海軍港への無人艇攻撃、ロシアで憤りと懸念

黒海に面するロシア南部ノボロシスクの軍港が無人艇攻撃を受けたことに対し、ロシアの識者や軍事ブロガーの間では、憤りと懸念の入り交じった声が出ている。

攻撃の結果、黒海のロシア軍艦1隻が大きく傾いた。ウクライナ支配下の領土から数百キロ離れた場所で実施された大胆な攻撃だった。

ロシアのジャーナリスト、セルゲイ・マルダン氏はノボロシスクへの無人艇攻撃について、「端的に言って、紛争の地理的範囲が飛躍的に拡大した。ロシア政府省庁の庁舎に対するドローン攻撃をはるかに上回る」と指摘した。

そのうえで「今日の攻撃から言えることはただ一つ、我々は今後も戦いを迫られるということだ」とした。

ロシアの別のテレグラムチャンネルは、攻撃による被害は出ておらず、無人艇は破壊されたとのロシア国防省の声明に人々は「困惑」していると指摘した。

カプラル・ガシェトキンの筆名で執筆する別の識者は、テレグラムのチャンネルで、「大型揚陸艦の乗組員は攻撃に対する備えができていなかったようだ」と説明。「ウクライナのテレグラムで公開された無人艇からの映像には、無人艇が全く抵抗を受けずに揚陸艦の側面に接近する様子が映っている。誰ひとり無人艇に攻撃せず、気付いてもいないようだ」と指摘した。

ガシェトキン氏によれば、今回の戦争を通じてノボロシスクの海軍基地はロシア黒海艦隊の後方拠点になっており、比較的安全と考えられていたという。「だが、そろそろ気付かなくてならない。敵は『長い腕』を持っていて、その腕は非常に遠くまで届く」としている。

■ロシア〝補給路大打撃〟クリミア大橋

ウラジーミル・プーチン大統領率いるロシアに、大打撃となりそうだ。ウクライナ軍が6日、ロシアが実効支配するクリミア半島と、ウクライナ南部のヘルソン州を結ぶチョンガル橋とゲニチェスク橋を攻撃したと発表した。ロシアは通常よりも遠回りのルートに頼ることになる。重要な補給路を使えなくなることで物流に大きな影響が出るとみられ、ロシア側の輸送に遅延が起きるとの分析もある。

米シンクタンク「戦争研究所」は「ウクライナ軍は6日、ロシアの地上連絡線(GLOC)にある2つの主要な橋を攻撃した」と説明し、ロシア軍が、遠回りとなる半島西側からの別ルートを使った輸送に変更せざるを得なくなるとした。

ウクライナは7月、ロシア本土とクリミア半島を結ぶ「クリミア橋」を攻撃するなど、ロシア側の補給路に狙いを定めている。

戦争研究所は、今回の攻撃を受けてロシアが迂回(うかい)ルートを取ることで、「物流に甚大な混乱をもたらし、遅延や交通渋滞が起きる可能性がある」と分析した。

米シンクタンク「戦争研究所」は「ウクライナ軍は6日、ロシアの地上連絡線(GLOC)にある2つの主要な橋を攻撃した」と説明し、ロシア軍が、遠回りとなる半島西側からの別ルートを使った輸送に変更せざるを得なくなるとした。

ウクライナは7月、ロシア本土とクリミア半島を結ぶ「クリミア橋」を攻撃するなど、ロシア側の補給路に狙いを定めている。

ヘルソン州のロシア側行政府トップは、チョンガル橋の攻撃に、イギリスが供与した巡航ミサイル「ストームシャドー」が使われたとし、穴が開いた路面写真を公開した。

戦争研究所は、今回の攻撃を受けてロシアが迂回ルートを取ることで、「物流に甚大な混乱をもたらし、遅延や交通渋滞が起きる可能性がある」と分析した。

■ロシア軍艦撃沈はウクライナ保安局と海軍の合同作戦 衛星画像で捉える

ロシア南部の黒海沿岸にあるノボロシスク港で4日起きた同国海軍艦船への攻撃でウクライナの関係筋は同日、ウクライナ保安局と海軍の合同作戦だったことを明らかにした。

CNNの取材に、「大型の艦船であるオレネゴルスキー・ゴルニャクが打撃を受けた」とも指摘。攻撃に使われたのはTNT火薬の約450キロを積んだ水上ドローン(無人艇)で、同艦船にはロシア軍兵士約100人が乗船していたとした。

「攻撃で深刻な損傷を被り、任務遂行が出来なくなった」とも述べた。

SNS上に流れた動画や複数のロシア人ブロガーの説明では、曳航(えいこう)される船は戦闘艦船のオレネゴルスキー・ゴルニャクと特定しているようにみえる。

CNNには、船舶へ近づく無人艇を示す動画が提供された。この船舶は、ノボロシスク港で船体を傾けている海軍艦船と同一のもののようにみえる。動画の長さは36秒間で、無人艇から撮影されており、船舶への突進は夜だったこともわかる。動画は、無人艇が船舶に到達すると共に終わっていた。

CNNはこの船舶の名称を最終的に確認出来てはいない。

ロシア国防省は4日、無人艇2隻がクラスノダール地方にあるノボロシスク海軍基地を狙ったが、ロシア艦船に攻撃を阻止されたとの声明を発表していた。

■衛星画像で捉えたロシア揚陸艇撃沈「ぎりぎりでかわす」

米衛星運用会社マクサー・テクノロジーズが12日に撮影した新たな衛星画像には、ウクライナ南部の黒海に浮かぶスネーク島の近くの海上にミサイル1発が撃ち込まれる様子が写っている。

2筋の白煙の近くを航行する1隻の艦船について、マクサーはロシア軍のセルナ級揚陸艇と特定した。

同艦は急角度で向きを変えているように見える。ミサイルはその付近の海上に着弾している。

島の近くを写した別の画像には、重量物運搬用のクレーンが載った艀(はしけ)の隣で海中に沈んでいる艦船が見える。マクサーはこの艦船もセルナ級揚陸艇と特定した。

同艦がどのようにして沈没したのかは不明だが、オデーサ地域軍政の広報官は8日の時点で、揚陸艇1隻とラプター級哨戒艇2隻が攻撃を受けたと説明していた。

同広報官はまた、ウクライナ軍がロシア軍のヘリコプターをスネーク島で破壊したとも述べた。ウクライナ軍は8日、ヘリコプター1機がミサイルで破壊される動画を公開している。

上記の広報官は12日、ロシア海軍の補助艦「フセボロド・ボブロフ」で火災が起き、スネーク島の領域からクリミア半島南西部のセバストポリにえい航されていると発表した。同艦は今回の衛星画像に写っておらず、CNNはこの発表の信憑性を確認していない。

現時点でロシア側は、前出の艦船のいずれについても損失を確認していない。

■「フセヴォロド・ボブロフ」は、「多機能支援船」沈没

ウクライナ南部オデーサ地域軍政の広報官は、ロシア海軍の補助艦「フセボロド・ボブロフ」で火災が起き、黒海のスネーク島の領域からクリミア半島南西部のセバストポリにえい航されていると発表したが、沈没した模様。

■クリミア半島沖でロシアタンカー破壊

ロシアの占領下にあるウクライナ南部のクリミア半島とロシア本土を挟むケルチ海峡で5日未明、ロシアのタンカーがウクライナの無人艇(水上ドローン)による攻撃を受けた。ロシア側の当局者が明らかにした。

黒海に面するロシア南部ノボロシースク港の海難救助当局によると、タンカーは自力で航行できず、タグボートが派遣された。

タス通信は当局の話として、海峡の南側でタンカーが損傷していると報道。機械室が多少の被害を受け、現在停泊していると伝えた。

ロシアでは前日、ノボロシースク海軍基地がウクライナの無人艇による攻撃を受け、軍艦1隻が大きな被害を受けたばかり。

ロシア側の当局者は、5日の攻撃ではクリミアとロシア本土を結ぶケルチ橋とは無関係だと述べた。同橋はウクライナ侵攻開始後、攻撃により2度にわたり大規模な被害を受けた。

ウクライナは、今回の攻撃について公式声明は発表していない。

■ロシア南部サマラの石油精製所ミサイル攻撃

ロシア軍は28日、ロシア南部ロストフ州のタガンログの上空でウクライナのミサイルを迎撃したと発表した。ミサイルの破片が民間人が負傷し、建物を損壊したとしている。

ロストフ州はウクライナとの国境に近い。同州のゴルベフ知事によると、博物館のほか、カフェが被害を受け、住宅の窓ガラスも吹き飛んだ。9人が負傷して病院に搬送されたが、死者は出ていないという。

この件に関してウクライナは今のところ反応していない。

これとは別に、ロシア南西部サマラ州の州都サマラで、国営石油会社ロスネフチが保有する石油精製所で爆発が発生。アレクサンドル・ヒンシュテイン議員は対話アプリ「テレグラム」への投稿で、爆発は爆弾によるものとの見方を示した。大きな被害はなく、死傷者も出ていないという。
タス通信は、爆発に関与したと疑われる人物が拘束されたと報じた。

ウクライナとの国境に近いロシアの地域では、エネルギー施設や武器庫などを標的とした攻撃がこれまでも発生している。

■米CIA長官も情報提供呼びかけ

ウラジーミル・プーチン大統領率いるロシアが、西側情報機関の「草刈り場」となっている。英秘密情報局(MI6)のリチャード・ムーア長官が、ロシア国民にスパイ活動への協力を呼びかけたのに続き、米中央情報局(CIA)のウィリアム・バーンズ長官が、情報収集の好機だとみている趣旨の発言を行ったのだ。「ワグネルの乱」で混迷を深めるプーチン政権は、さらに窮地に追い込まれそうだ。

■250万回視聴

CNNによると、バーンズ氏は20日、米コロラド州で行われたアスペン安全保障フォーラムで、ロシアには多くの不満がたまっているとして「情報機関としてこのチャンスを生かす機会を無駄にはしない」と表明。「一世代に一度」の情報収集の機会だとの見方を示した

CIAは5月、SNSでウクライナ戦争に不満を持つロシア人に機密共有を呼び掛ける動画を投稿した。バーンズ氏はこの件についても最新情報として、動画が最初の1週間で250万回視聴されたことを明らかにした。

ロシアに対しては、MI6のムーア氏が19日、チェコの首都プラハでの講演で、「流血を終わらせるため、協力したいというロシア人へのドアはいつでも開いている」と情報提供を呼びかけていた。

■プリゴジン氏〝粛清〟情報

プリゴジン氏〝粛清〟情報 プーチン大統領と会談後、6月末から消息不明に「クレムリン招待は罠だった可能性」

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領による「断末魔のあがき」が続いている。ウクライナ侵略による軍事的、経済的、政治的負担に加え、民間軍事会社「ワグネル」の創設者、エフゲニー・プリゴジン氏による反乱の余波が収まらないのだ。プーチン氏は事態収拾後、プリゴジン氏らワグネル幹部と面会したとされるが、その発信内容には食い違いが見られる。プリゴジン氏に急遽(きゅうきょ)浮上した「暗殺・粛清」情報。苦境を脱するためか、ロシアはウクライナ産穀物を黒海経由で輸出する「穀物合意」からの一時的離脱を発表した。世界的な食料危機を引き起こすつもりなのか。ジャーナリストの加賀孝英氏による最新リポート。

「プーチン氏は、すでに戦争に負けている」

ジョー・バイデン米大統領は13日、訪問先のフィンランドの首都ヘルシンキで行われた記者会見で、こう断定した。

事実、プーチン氏はいま、崖っぷちに立たされている。

ウクライナ軍による大規模な反転攻勢に加え、6月下旬に勃発した、プーチン氏の最側近、プリゴジン氏によるクーデター未遂事件「ワグネルの乱」が、プーチン氏の権威を失墜させ、地獄に突き落とした。

外事警察関係者は「プーチン氏は狂乱状態だ。自身の暗殺におびえ、プリゴジン氏と通じた裏切り者の捜索、大粛清を開始した。治安当局が入手した『ワグネル秘密VIPリスト』には、ロシア軍幹部や治安当局者ら30人の名前が書かれていた。しかし、プリゴジン一派はその1000倍ともいわれ、治安当局はパニック状態だ」と語った。

米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は13日、「ワグネルの乱」で、「少なくとも13人のロシア軍将校らが一時的に拘束された」「約15人が停職や解雇の処分を受けた」と報じた。

この中には、「ハルマゲドン将軍」と呼ばれ、ウクライナ侵攻の副司令官を務めるセルゲイ・スロビキン航空宇宙軍総司令官や、スロビキン氏の副官であるアンドレイ・ユーデン氏、軍参謀本部情報総局のウラジーミル・アレクセーエフ副長官が含まれている。

こうしたなか、衝撃情報が飛び込んできた。

前出の外事警察関係者は「プリゴジン氏の粛清情報が浮上している。ドミトリー・ペスコフ大統領報道官は10日、ワグネルの乱から5日後の6月29日、プーチン氏がクレムリンに『プリゴジン氏とワグネル指揮官ら35人を招待して面会した』『彼らは今後も祖国のために戦うと誓った』ことを発表し、全世界を驚かせた。これ以降、プリゴジン氏の消息は途絶え、生きている姿は誰も見ていない。西側情報当局はいま、確認に走っている」と語った。

さらにロシア有力紙「コメルサント」が13日、突然掲載したプーチン氏のインタビュー記事が、混乱に拍車をかけている。

プーチン氏はここで、プリゴジン氏らワグネル幹部らとの6月29日の面会について、内務省出身のアンドレイ・トロシェフ大佐を新たなトップにして、ワグネルがロシア軍の指揮下で軍務を続ける選択肢を提案した。多くの指揮官はうなずいたが、プリゴジン氏が「いや、皆はその決定に同意しない」と拒否、決裂した事実を明らかにした。

以下、日米情報当局関係者から入手した情報だ。

「プーチン氏はもともと、ワグネルの乱に激怒して、連邦保安庁(FSB=旧KGB)に『プリゴジン氏の暗殺・粛清』を命令していた。ペスコフ氏は『プーチン氏がクレムリンに招待した』と説明したが、クーデター未遂犯をなぜ招待するのか。プーチン氏はコメルサントのインタビューで、プリゴジン氏を排除しようとした事実を口にした。ペスコフ氏の説明にはなかった事実だ。口が滑ったのか。招待が罠だった可能性がある」

「ゼレンスキー暗殺」申し出
プーチン氏は、ワグネルの乱の一報を聞くや、モスクワから逃げ出し、世界の嘲笑をかった。それを払拭するために、ロシアはさまざまな情報工作を仕掛けていた。続く日米情報当局の情報はこうだ。

「ロシア情報当局は、プーチン氏を大物に見せるため、プリゴジン氏らとの面会情報を流した。プリゴジン氏は面会で、プーチン氏の歓心を買おうと、自分から新しい任務を申し出たという。『ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領の暗殺』だった。プーチン氏は『ヤツの頭をクレムリンに持ってこい』と命令した。英タブロイド紙などが報じた。ウクライナを脅す効果もあるが、狙いは1つだ。プリゴジン氏が殺された場合、『犯人はウクライナだ』とする偽旗作戦だ」

米情報当局は「プリゴジン氏が(暗殺者から)自分の行動、居場所を隠すため、『ボディーダブル』(替え玉・影武者)を使用していた」という情報をつかんでいる。

バイデン氏は13日、冒頭で紹介したヘルシンキでの記者会見で、プリゴジン氏の消息について、こう語った。

「神のみぞ知る」「仮に、私が彼なら食事の内容には気をつけるだろう」

バイデン氏は、ロシア情報機関の常套手段、毒殺を警告した。
2023.08.06 21:14 | 固定リンク | 戦争
第1次革命(バルチック艦隊の全滅)
2023.08.03


専制君主構造のひずみから不満が噴出 ニコライ2世皇帝は退位 新たに自由主義体制のもと政党が擁立された。社会主義を隠したレーニンなどのソビエト(赤軍)の政党も参画した。しかし...後に自由政党を倒したソビエト(赤軍)はニコライ2世皇帝と家族全員も処刑した。

20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み,世界史に革新的な作用を及ぼした。

革命は大きく分けて,1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り,後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は,ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し,マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を,人類史上初めて誕生させたことで知られる。そのため〈ロシア革命〉という名称が〈十月革命〉と同義に用いられる場合もある。

■歴史的前提

20世紀初めのロシアは,フィンランドに自治を認めつつ支配し,ポーランド,カフカスを完全に併合し,東はシベリアより極東までを版図に収めた広大な帝国であった。大ロシア民族が,この帝国の住民を構成する多数の民族を支配していた。国家権力は,身分制的秩序を残しながら,一応独立した司法制度,全身分的地方自治制,国民皆兵制軍隊をもつ,改良された無制限専制君主制であった。

経済的には,国家の手で養成された鉄道と重機械工業,外国資本で発展した鉄鋼,石炭,石油業が,自立的に成長した綿工業と併存する後進資本主義的な工業の体系と,地主的土地所有が共同体農民の馬,農具持参の労働で支えられる雇役制的農業構造とが,出稼労働者の低賃金によって結びついていた。このような構造をもつロシアは,1890年代には急テンポの経済成長をとげ,体制的に一応の安定をえていたが,20世紀に入ると,恐慌で経済成長が止まり,構造のひずみからさまざまな運動が噴出しはじめた。

まず学園の自由から進んで,政治的自由を要求する学生運動が1899年の全国一斉同盟休校から始まり,1901年3月には首都の路上で警官隊と衝突,死者4名を出した。この間,運動弾圧に徴兵措置を用いた文相は狙撃され,殺されている。

ほぼ同じころ,フィンランドでとられた自治権否定,ロシア化政策に抗議するフィンランド人の請願運動は,1901年9月全人口の2割が署名した請願書を皇帝に提出した。1902年3月には,南ロシアのポルタワ,ハリコフ両県で,農民の激しい地主領襲撃事件が広がった。それは農村の久しい沈黙を破るものであった。1903年になると,1890年代の成長の基盤であった南ロシアの鉱山・工場地帯全域に長期かつ深刻なゼネストがおこった。

このような学生運動,民族運動,農民運動,労働運動が噴出して,体制が動揺する中で,皇帝ニコライ2世は90年代の成長政策の推進者蔵相ウィッテを退け,内相プレーベを重用して抑圧政策をとる一方,山師的人物の献策をいれて,極東での冒険政策をすすめ,1904年1月日露戦争に入り込んだ。この戦争は,国民にまったく不人気であり,かつロシアの軍事力,国力の欠陥を露呈した。同年7月,内相プレーベが首都の路上で暗殺され,代わった内相スビャトポルク・ミルスキーPyotr D.Svyatopolk-Mirskiiは譲歩路線に転換し,〈自由主義者の春〉が現出した。

政治党派としては,20世紀の初めよりマルクス主義者の党であるロシア社会民主労働党(以下〈社会民主党〉と略す)とナロードニキ系のエス・エル党が生まれ,活動していたが,全局を制したのは自由主義者たちであった。反政府的な地主層は,ゼムストボ(地方自治体)代表者の大会を開催して圧力を加え,解放同盟Soyuzosvobozhdenie(カデットの前身)に入っている自由主義的知識人は政治的デモンストレーションを目的とする解放宴会をくりかえし,立憲政治を要求したのである。

■第1次革命(バルチック艦隊の全滅)

1904年末,旅順が陥落すると,ロシア政府の権威は決定的に動揺した。この時を待っていた司祭ガポンは,彼が組織してきた首都労働者の合法的親睦共済団体〈ペテルブルグ市ロシア人工場労働者の集い〉(会員約1万)を動かし,皇帝に改革要求の請願書を提出することに踏み切った。これはプチーロフ工場のストライキの中で進められ,請願行進の形をとることになった。

1905年1月9日(新暦1月22日),政治的自由と国民代表制,8時間労働と団結権を求め,〈私たちの祈りに答えてくれなければ,あなたの宮殿の前で死ぬほかない〉と結んだ請願書をもった十数万の労働者とその家族は,首都の数ヵ所から求心的に冬宮めざして行進を開始した。軍隊がこれに発砲し,政府発表では130人,革命家の見積りでは数百人の死者と数千人の負傷者を出した。

憤激は首都中に広がり,学生・市民の同情ストがおこり,他の都市の労働者も抗議ストに入った(血の日曜日事件)。政府は問題を労働者の待遇改善問題と狭くとらえて対応しようとしたが,労働立法に消極的な資本家すら立憲的改革を要求するに至った。2月4日には皇帝の伯父でモスクワ総督のセルゲイ大公がエス・エル党員によって暗殺された。政府もやむなく2月18日には,国民代表を法案の審議に参加させることを約束し,その案の作成を内相ブルイギンAleksandr G.Bulygin(1851-1919)に求める勅書が出された。これは世論をいっそう活気づけることになり,自由主義者は専門職業人連盟を結成し,運動の組織化に乗りだした。

日本海海戦でバルチック艦隊が全滅すると,政府批判はいっそう高まり,6月9~11日にはポーランド第2の都市ウッチで労働者がバリケードをつくって警官隊と衝突,300人以上の死者を出した。一方,6月14日黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵の反乱がおこり,オデッサ市民と交歓し,政府を慄然とさせた。

8月6日,きわめて限定された内容の諮問議会(ブルイギン国会)の設置が発表されたが,それではとても国民の満足はえられなかった。おりしもアメリカ大統領の斡旋で,8月10日よりポーツマス講和会議が始まった。全権に起用されたウィッテは,南サハリンの割譲という,ロシアにとっては最小の譲歩で日本との講和を締結することに成功した。8月末,政府が大学,高等教育機関に自治を認めたことは,労働者,市民,政党が大学の構内で政治集会を自由に開くことを可能にした。大学が革命の震源地と化した感があった。

やがて革命の波は10月に最高潮に達する。10月7日,モスクワ~カザン鉄道の労働者がストライキに入ったのに発した全国鉄道ゼネストは,一般労働者,市民のゼネストを導いた。その中で,ウィッテはニコライ2世に譲歩を迫り,ついに10月17日(新暦10月30日),市民的自由と立法議会の開設を約束する〈十月詔書〉が出された。2日後,事実上の首相職である大臣会議議長職を新設する勅令が出され,ウィッテが初代の首相に任じられた。ここに〈自由の日々〉が到来した。だが,〈自由〉を統一スローガンに全国民的な連合をもって進んできた革命は,ここから分解を始めた。

まず労働者は8時間労働の要求を実力で実施する闘争の道に立ち,〈十月詔書〉に満足した資本家と衝突した。農民は,共同体の取り決めで地主に対し,地代引下げ,労働報酬引上げの交渉を行ってきたものだが,10月以降,中央農業地帯とボルガ沿岸地方で激しい地主領地打ちこわしの挙に出た。地主たちは一時は領地放棄を考えたが,やがて実力自衛策をとり,全体として右翼化する。

12月2日,ペテルブルグ・ソビエト,農民同盟,社会民主党両派(ボリシェビキとメンシェビキ),エス・エル党,ポーランド社会党の6者が,国庫への納税拒否を呼びかける〈財政宣言〉を発すると,態勢を立て直し弾圧の機をうかがっていた政府は,翌日,ペテルブルグ・ソビエトの代議員全員を逮捕した。

12月7日モスクワで始まった大抗議ストに対し,当局は武装自衛隊に攻撃をしかけ,バリケードをつくって抵抗する労働者をペテルブルグとポーランドからの増援軍によって粉砕した。このとき約700人の労働者・市民が殺された。これは通常〈モスクワ蜂起〉といわれるが,武装した労働者が革命の既得権,解放された空間を防衛しようとしたものである。

こうして,危機を脱した皇帝と保守派は約束した大改革を切り下げ,12月11日にまず〈ブルイギン国会〉選挙法を若干手直しした程度の国会選挙法を定め,さらに06年2月20日には皇帝権力に法律裁可の権限を残した国会,国家評議会の二院立法制を発表した。ついに国会開会直前の同年4月23日(新暦5月6日),引き続き皇帝に〈最高専制権力〉が属するとする新国家基本法が公布された。革命の結果は無制限専制から国会,国家評議会の二院によって制限される専制への移行という,きわめて不徹底なものに終わったのである。

4月27日国会は開会したが,自由主義者の党カデット党と無党派急進農民のトルドビキ派が議員の過半数を握り,土地改革を要求して政府と対立した。政府は7月8日国会を解散した。181人の議員たちは,ビボルグに集まって反政府闘争を呼びかけるアピールを発したが,バルチック艦隊の水兵が反乱をおこしただけであった。

国会解散とともに首相を兼務するに至った内相ストルイピンが以後精力的に活動し,共同体の解体をねらった改革を推進して,1907年6月3日第2国会解散と同時に,地主勢力を優遇する新国会選挙法を公布し,国会を政府に協力的なものに強引につくりかえた(〈6月3日のクーデタ〉)。政治は以後完全に常態化する。第1次革命を最も長くみる人々も,ここに革命の終りをみる。

■総力戦「挙国一致」の行きづまり(第1次大戦)

ストルイピンの執権のもとで,経済はふたたび好況を迎え,銀行の力が強くなり,ブルジョア文化が発展したが,第1次革命を生みだした矛盾は,成長の中でかえってより深刻化していった。政治的には皮肉なことに,国会と国家評議会は左と右から専制権力を利用するストルイピンの改革路線を妨害し,彼は目的を達しえず,政治的には無力化した中で,11年9月暗殺されてしまった。

彼の死後は皇帝を抑えこめる強力な政治家は現れず,皇帝の恣意が徐々に増大する傾向にあった。ストルイピン改革の柱であった土地改革も農村構造を改革しえず,かえって共同体に立てこもる農民とそこから出た富農との新たな対立を生んだ。労働立法は遅れ,労働者は再び戦闘性を表し,12年プラハ協議会で独自党を結成したレーニン派のボリシェビキをみずからの指導者に選んだ。

注目すべきは,第1次革命の頂点で専制を助ける側にまわった資本家の中から,地主貴族を押しのけて国家の主人公になろうという政治志向が現れたことである。進歩党をつくったモスクワの綿工業資本家コノバーロフAleksandr I.Konovalov(1875-1948)らの右翼自由主義者である。こうして労働者の急進化とブルジョアジーの急進化によって,1914年初夏のロシアには,ふたたび革命的危機が接近していた。ストルイピンは再編のための条件として〈内外における20~30年間の平静〉をあげたのだが,帝国主義諸国家間の対立,バルカンの小国間の対立は,ロシアをまきこみ,ついに14年7月第1次大戦が始まることになった。

交戦列強が経済力,国力のすべてを動員して戦争を遂行するこの総力戦の中で,ロシア国家は解体を始める。大戦はロシア革命の条件を一変させたのである。具体的には,開戦直後にみられた挙国一致的状況は急速に去っていき,14年末には輸送と補給の困難が,すでにまったく危険な域に達していた。15年4月ガリツィアにおけるロシア軍の第一線はドイツ軍の攻撃を支えきれずに後退し,ついでポーランド戦線が総くずれとなって,大退却が始まった。

この状況の中で,全工業の動員を主張して軍需生産への参入をめざすモスクワ資本の動きは,戦時工業委員会をつくり出し,国の信任をうる人々よりなる内閣を求める国会多数派〈進歩ブロック〉が形成された。皇帝は皇后とラスプーチンの助言で,敗北の責任者,ロシア軍最高司令官ニコライ大公を解任し,みずからがその後任となった。大臣たちはこれに強く反発し,皇帝と激突した。以後,皇帝は皇后,ラスプーチンに支配され,混乱した政治指導を行っていく。こうして国家解体が本格化した。

この事態の中で,皇族も軍部も,国会議員たちも資本家たちも,打開の手が打てずに危機はますます深化していくばかりであった。結局,なされた唯一の行動は,16年12月16日のラスプーチン暗殺であった。しかし,万事手おくれであった。皇后はラスプーチンの愛人であるという流言は,皇帝の国父としての権威を決定的に傷つけていた。

■二月革命(コサック兵も革命に加担)

革命はふたたび首都の労働者の行動によって始まった。大戦中にペトログラードと改称された帝国の北西隅にある首都では,食糧難,燃料難が最も激しく現れた。しかも全国一の工業都市で軍隊の集結地として,38万の労働者と47万の兵士がいた。資本家の中の急進派と結んだ戦時工業委員会労働者グループは,1917年2月14日の国会再開日に,かつて〈血の日曜日〉に冬宮へ請願行進したように国会へ請願行進をしようと呼びかけた。ボリシェビキなどの反対で,当日の行動は失敗に終わったが,首都中心部でのデモのよびかけは労働者の間でも複雑な反応を呼びおこしていた。

2月23日(新暦3月8日),国際婦人デーにさいして,無名の活動家グループの働きかけで,ビボルグ区の婦人労働者はストライキに入り,〈パンをよこせ〉と叫んでデモ行進を開始した。これに男子労働者も応じ,デモ隊はネバ川にかかる橋を突破して,市の中心部,ネフスキー大通りへ向かおうとした。ストライキは2日目から他の区に広がり,25日には全市ゼネストになった。

これを鎮圧するために出動したコサック兵が警察署長を斬殺するという事件がおこり,兵士の命令不服従を予感させたが,26日には兵士たちはデモ隊に向けて発砲し,多くの死者を出した。しかし,この日の鎮圧行動から嘔吐を催す思いで帰った近衛ボルイニ連隊の兵は下士官に率いられて,翌27日(3月12日)朝反乱をおこし,これは近くの2連隊にも波及した。

反乱した兵士は労働者と一緒になって,二つの監獄から政治犯を解放させた。釈放された政治犯の一部は,国会の建物に集まり,ペトログラード労働者・兵士代表ソビエト創設のイニシアティブをとった。政府側の軍管区司令官は,この反乱鎮圧のため部隊を出動させたが,この部隊は途中で消えてしまった。

国会はこの日の朝,皇帝の休会命令を受けとって解散することに決めたのだが,事態の急変を知り,本会議場の外で非公式会議を開き,国会臨時委員会を選出した。

コノバーロフと提携するケレンスキーは,国会を革命にコミットさせようと努力した。夜になって,国会の建物の中に労働者代表と社会主義政党の代表が集まって,ソビエトの結成会議を開くと,国会臨時委員会は深夜の2時,権力掌握を決断した。翌日各省庁の接収が行われたが,国会の代表者が交通省に入り,鉄道の運行をコントロールしはじめたのは決定的に重要であった。というのはモギリョフの大本営にいた皇帝が,イワーノフ将軍に命じて首都革命の鎮圧軍を出動させていたからである。

一方,大本営の軍首脳は国会議長ロジャンコと接触し,皇帝に次々に譲歩を進言していた。

首都では3月1日に兵士が最終的にソビエトに忠誠を誓うことを決議し,これが〈命令第1号〉という文書にまとめられた。労働者と兵士がソビエトに忠誠を示し,官吏と将校が国会臨時委員会に忠誠を誓うというあり方が,いわゆる〈二重権力〉状態である。この基礎の上に,ソビエトの承認のもと,3月2日国会臨時委員会は,首相リボフGeorgii E.L'vov(1861-1925),外相ミリュコーフ,商工相コノバーロフなどの臨時政府を発足させた。

この白軍首脳はロジャンコの要請を受け入れ,皇帝に皇太子への譲位を求めた。ニコライ2世はいったんはこれを受け入れたものの,皇太子の病気を考えて,自分の弟ミハイルに譲位するとした。ミハイルはこれを拒否したので,ここに帝政は崩壊することになった。帝政を打倒したのは,一つは〈労働者・兵士の革命〉であり,いま一つは〈ブルジョアジーの革命〉であった。

首都での革命の知らせは全国に衝撃を与え,この二つの革命は全国に拡大したが,それと同時に,この革命の受益者として,農民と被圧迫民族とが,つくりだされた自由の空間の中で革命に立ち上がることになった。農民は共同体単位で行動をおこし,郷(ボーロスチ。郡と村の間の行政単位)のレベルに委員会をつくった。被圧迫民族は,たとえばウクライナでは,3月4日に民族統一戦線としてのウクライナ中央ラーダ(ラーダ)を成立させている。このあとから加わった〈農民革命〉と〈民族革命〉の展開が〈労兵革命〉と〈ブルジョアジーの革命〉の関係に影響してくるのである。

臨時政府は政治犯の大赦,言論・出版・集会・結社の自由,身分の廃止,宗教的・民族的差別の撤廃を実現し,ロシアを〈自由〉な共和国とした。問題は〈平和〉にあった。ブルジョアジーにとって革命は,よりよく戦争するためのものであった。

一方,ペトログラード・ソビエトは3月18日,無併合・無償金の講和を実現することをめざすアピールを発した。これは外相ミリュコーフの方針と衝突した。4月20日,首都の兵士のイニシアティブでミリュコーフ打倒,侵略反対のデモがおこり,ミリュコーフは閣外へ去った。ボリシェビキは帰国したレーニンの〈四月テーゼ〉を受け入れ,ソビエト権力の樹立をめざす活動を開始する。他方,ソビエト主流派のメンシェビキとエス・エル党は,この動揺ののち臨時政府に入閣し,連立政府を発足させた。

新政府の外相テレシチェンコ(チェレシチェンコとも呼ぶ)Mikhail I.Tereshchenko(1886-1956)は戦争目的を修正する連合国会議を提唱し,郵政相ツェレテーリはソビエトの主張する線で平和のための国際社会主義者会議を開くことを推進した。陸海軍相ケレンスキーはロシアの国際的地位を上げるために,前線での攻勢を準備しようとした。平和のために戦争するというこの政策は,深い矛盾をはらんでいた。

民衆はボリシェビキを突き上げ,6月8日,〈全権力をソビエトへ〉というスローガンのもと,デモを行うことを決定させた。ソビエト主流派はこれを強く非難し,デモを中止させたが,6月18日〈無併合・無償金・民族自決の全面講和〉を要求するデモを主催せざるをえなかった。この6月デモは30万から40万人が参加した大デモとなった。

■十月革命

革命の課題は〈自由〉と〈平和〉にとどまらなかった。二月革命によって8時間労働日を獲得した労働者は,工場委員会をつくって権利要求をさらに高めていたが,資本家側は経営権を守るため,この要求を抑え込もうとした。1917年5月末~6月初めペトログラードの工場委員会協議会は,ボリシェビキの指導下に〈労働者統制(労働者による生産の統制)〉の必要を決議した。

農民は〈土地〉を求めていた。5月末に開かれた第1回全ロシア農民大会がエス・エル党の指導下に憲法制定会議で〈土地社会化〉を実現することを決議すると,郷委員会に結集する農民はただちにこれを実現してよいと判断されたものと受けとった。エス・エル党の指導者V.M.チェルノフが農相のポストにあったが,連立の条件にしばられて,農民のこの意欲にこたえる施策を打ち出せなかった。

彼がわずかに決定した土地売買・質入れの禁止も,地主である首相以下の強い反発を招いた。被圧迫民族も〈自治〉を求めた。ウクライナ中央ラーダが5月半ばに自治を要求すると,臨時政府はこれを拒否した。6月10日,ラーダはウクライナの自治を宣言した。ソビエトはウクライナ地方の自治を認めるという考えを出し,政府とラーダは協定を結んだが,カデット党から出ている4大臣は抗議して辞任した。

この政府危機に対して,首都の兵士はまたもやイニシアティブをとり,連立の中止,ソビエト権力の実現を求めて,7月3日の武装デモを決行した。ボリシェビキは時期尚早としてデモを中止させようとしたが,果たせず,デモを承認するにいたった。翌日もつづいたデモに,ソビエト主流はボリシェビキの陰謀をみて,弾圧に乗り出した。レーニンは地下に潜行した。

しかしボリシェビキは非合法化されず,ソビエト内部の地位を保ちつづけた。デモは抑えたものの,首相リボフは職を投げ出し,前線ではケレンスキーの始めた攻勢がドイツの反攻を招き,危険な状態となった。ようやく4人のカデット党員が個人の資格で入閣することをえて,ケレンスキーを首班とする第2次連立政府が7月24日に成立した。

この政府は〈平和〉を実現する展望をもちえず,前線と国内秩序の維持だけを目的とした。ということになれば,軍人が主役になるのが当然である。新任の最高軍司令官コルニーロフは前線で死刑を復活したのにつづいて,後方でも軍内抗命者(命令に服従しない者)に対してこれを復活することを目ざし,軍事独裁の樹立も辞さない腹であった。

8月25日コルニーロフはケレンスキーの譲歩を問題にせず,将軍クルイモフAleksandr M.Krymov(1871-1917)に首都進撃を命じた。政府内のカデット4大臣はコルニーロフ支持を表明し,辞任した。ケレンスキーに残るのは,ソビエトの支持だけであった。

ソビエトは一丸となってコルニーロフ軍を迎え撃つ態勢をとったが,その中核となって働いたのはボリシェビキであった。コルニーロフ軍の進撃ははばまれ,8月31日クルイモフは自殺し,翌日コルニーロフは逮捕された。コルニーロフ反乱の経験は,ソビエト権力を求める声を一般化した。

ボリシェビキは連立策をとってきたソビエト右派を除いた左派だけの政権を望んだ。8月31日,首都のソビエトが〈革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権〉を要求する決議を採択したのは,ボリシェビキの力を示したものである。ケレンスキーは新しい権力基盤を求めて,9月に民主主義派会議を開き,いわゆる予備議会を発足させ,コノバーロフを副首相に迎えて,第3次連立政府を発足させた。しかし,地方では農民革命が高揚し,地主邸の焼打ちが広がっており,人々の要求にこたええない政府の命数は尽きていた。

この9月,潜行中のレーニンは臨時政府打倒の武装蜂起の決行を同志に提案したが,党中央委員会はただちには賛成しなかった。とくにジノビエフとカーメネフという古参の大幹部は強く反対し,党外でその態度を表明した。権力掌握への準備は首都ソビエトの議長となったトロツキーの考えで進められ,10月12日反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。

この委員会が委員を派遣し,首都の軍事組織を指揮下に収めようとして,軍管区司令部と衝突した。23日夜,臨時政府はこの挑戦を粉砕することを決意し,翌朝よりボリシェビキ側を攻撃した。しかし,24日中に首都内の重要拠点は,ことごとく革命派の兵士と労働者赤衛隊の手に制圧されてしまい,臨時政府は冬宮に孤立した。10月25日(新暦11月7日)午前10時,軍事委員会は臨時政府が打倒されたことを宣言した。冬宮は翌26日,わずかな戦闘の末陥落し,ケレンスキーを除く臨時政府の閣僚全員は逮捕された。

この行動は25日夜11時に開かれた第2回全ロシア労兵ソビエト大会に既成事実として突きつけられた。ソビエト右派は抗議して退場し,残ったボリシェビキと左派エス・エル党,その他若干の党派は,ソビエト権力の行動綱領をもりこんだアピール,〈平和についての布告〉〈土地についての布告〉をレーニンの提案によって可決した。

民主的講和と即時休戦,地主の土地の没収,軍隊の民主化,生産に対する労働者統制,憲法制定会議の召集,パンの確保,民族自決権の保障が新しい権力の目標とされたが,注目すべきことは,〈社会主義〉という言葉は含まれていなかったことである。目標については一致があったが,左派エス・エル党に入閣を断られたボリシェビキが,レーニン首班,トロツキー外務人民委員の単独政府を提案すると,他党はすべて反対した。このため単純多数で臨時労農政府,人民委員会議が選出された。

首都を脱出したケレンスキーは,将軍クラスノフPyotr N.Krasnov(1869-1947)の部隊とともに攻め上ってきたが,10月30日,郊外のプルコボで打ち破られた。この日モスクワでも5日間つづいた大戦闘が終わり,臨時政府派が敗北した。11月1~4日には,北部方面軍と西部方面軍司令部があるプスコフとミンスクでソビエト権力が樹立された。こうして十月革命は勝利した。

これはボリシェビキと左派エス・エル党を支持する首都およびモスクワの労働者と兵士,北部方面軍・西部方面軍の兵士の組織された力によるものであった。この労兵革命は,農民革命と民族革命に助けられ,ブルジョアジーの革命を打ちたおしたのである。キエフではウクライナ中央ラーダとソビエトは協力して臨時政府側の軍管区司令部を打倒した。11月7日,ラーダもウクライナ人民共和国を宣言した。だが,この革命の過程がはらむ矛盾は,ただちに顕在化した。

労兵革命の一方の柱であった革命的兵士集団は,休戦が実現し,階級制の廃止と将校選挙制を中心に軍隊の民主化が実現するとともに,急速に解体していった。

民族革命との対立も早くきた。ウクライナ中央ラーダとロシア人労働者を中心とする地元ソビエトとの対立から,12月にはモスクワ政府は最後通牒をつきつけ,遠征軍を送り込んだ。1918年1月26日ソビエト軍はキエフを占領し,ウクライナ全域は,ひとまずソビエト権力の支配下に入った。

農民との関係では,12月に労兵ソビエトと農民ソビエトとの合同がなり,左派エス・エル党が入閣するという進展があったが,農村では農民たちが自力で地主を追い出し,土地を共同体の原理で分配していった。

11月に行われた憲法制定会議選挙では,ボリシェビキは善戦したものの,得票率24%の第2党にとどまった。レーニン政府は,この結果は革命の昨日を意味するとして従うことを拒否し,1918年1月5日に開催された憲法制定会議にソビエトの採択した〈勤労被搾取人民の権利の宣言〉の採択を迫り,これが拒まれると,1日で会議を解散させた。1月10日第3回ソビエト大会でレーニンは,ロシアが〈社会主義ソビエト共和国〉であると宣言した。十月革命は社会主義革命としての性格を,このとき明示したのである。

■自由主義政党を倒したソビエト政権(赤軍)は窮地に(内戦と干渉戦争)

このときすでに,極東からボルガ川のほとりまでチェコ軍団の反乱により,各地のソビエト政権は次々に打倒されていた。この軍団は,オーストリア軍に徴兵されて捕虜となったチェコ人兵士を中心に組織されたものであった。

民族主義的なこの軍団は,ウラジオストクから船に乗ってヨーロッパの戦場へ赴くことになっていたが,その移動中に武装解除を命じられたことから,1918年5月25日反乱をおこしたものであった。

時を合わせたかのように,英仏軍1万5000が北のアルハンゲリスクに上陸し,反ソ政権を擁立した。そして8月2日と3日には日本とアメリカがチェコ軍団救出の名目でシベリア出兵を宣言した。日本は10月末までに7万5000の兵力をシベリアと北満(現在の中国東北の北部)に展開させた。連合国は東部戦線再建のため,武力干渉の機会をねらっていたのである。チェコ軍団の反乱によって,サマラ(現,クイビシェフ)に憲法制定会議議員たちが反ソ政権を樹立した。

ソビエト政権は,この危機にさいして赤軍を徴兵制の軍隊に切りかえ,8月30日レーニンが暗殺者に撃たれて重傷を負うと,チェーカーを中心に赤色テロで対抗した。反ボリシェビキ派の中で,チェコ軍団の後押しをうけるエス・エル派と旧軍人,帝政派,リベラルとの対立は根深かったが,9月のウファ国家会議で妥協が成り,5人の執政府のもとに全ロシア統一政府が生まれた。しかし,これは短命に終わった。11月17日陸海軍相コルチャークはクーデタをおこし,最高執政官に就任した。

こうして反革命の主役は帝政派の軍人となった。コルチャークは沿海州で日本の支持を受けて勢力を張っていたセミョーノフをも一応指揮下におさめ,全シベリアの支配者としての地位を固めたうえで,19年3月,ウラルから西に向けて総攻撃を開始した。

4月にはカザン,サマラに80kmの地点まで進出する。このとき北西部では,エストニアからロジャンコの軍がペトログラードを目ざして侵攻し,挟撃の形をとったのだが,赤軍はがんばりぬき,ついに6月9日チャパーエフVasilii I.Chapaev(1887-1919)の軍はウファを奪還し,コルチャーク軍を押しもどした。すでにシベリアではコルチャーク軍と日本軍に対して,農民パルチザンが立ち上がっていた。中央部の農民はソビエト政権の穀物徴発に苦しみながらも,地主制を復活させかねない帝政派の勝利をおそれ,赤軍を助けた。

これが赤軍の勝因の最大のものの一つである。

コルチャーク軍の進撃がくい止められると,こんどは南からデニキン軍が攻め上ってきた。6月24日ハリコフを陥した同軍は,7月3日モスクワへの進撃を開始した。赤軍側の作戦の混乱もあって,デニキン軍の前進はつづき,10月13日オリョールが陥落した。このときもペトログラード方面にはユデニチNikolai N.Yudenich(1862-1933)軍が迫ってきた。軍事人民委員トロツキーの作戦案が,この危機の中で効果を発揮した。

これとともに,デニキン軍の背後からアナーキストのマフノに率いられたウクライナの農民軍が攻撃を加えたことが赤軍を助けた。10月20日,オリョールが奪還され,デニキン軍は後退した。12月16日,キエフが解放され,デニキン軍は打ち破られた。

この熾烈な内戦を戦いぬくために,ソビエト政権は〈戦時共産主義〉と呼ばれる経済政策をとった。その第1の柱は〈穀物独裁〉であり,第2の柱は全工業の国有化であった。20年11月,5~10人の労働者を雇う小工場までも国有化された。商品経済は極度の国家統制の中に封じ込められたのであった。政治面でも,共産党の一党国家があるべき姿とされ,組織局と書記局により党機構が整備され,党と国家が一体化した。〈軍事的プロレタリア独裁〉と呼ばれる強力な国家がつくり出された。

内戦・干渉戦は国際帝国主義との闘争で,ロシア革命は世界革命の第一歩と考えられたので,革命的共産主義者を糾合して新しいインターナショナルをつくることが構想された。1919年3月2~6日,共産主義インターナショナル(コミンテルン)第1回大会が包囲下のモスクワで開かれた。ここから世界へ散った代表たちは,各国社会主義運動の左翼を結集して,20年7月23日に第2回大会を開いた。41ヵ国・67組織の代表が集まったこの大会で,コミンテルンを世界党とし,各国共産党をその支部とする規約が決定され,かつロシア革命を植民地従属国に広める〈民族植民地問題テーゼ〉が採択された。

ロシア革命の拡大の最初の実験は,ポーランド戦争によって試みられた。1920年春,ウクライナに侵入し,5月7日キエフを占領した独立ポーランドのJ.ピウスーツキの軍を追って,赤軍はポーランド領内へ進撃を開始した。7月30日には亡命者によって,ポーランド臨時革命委員会が結成された。赤軍がピウスーツキ軍を粉砕してしまえば,この委員会がポーランドの革命政府となったであろう。だが,8月15日トハチェフスキーが率いる赤軍はワルシャワ近郊で進撃を止められ,退却する。革命の軍事的輸出は失敗したのである。

このころ白衛軍の最後の代表者として登場したのが,将軍ウランゲリPyotr N.Vrangel’(1878-1928)であり,彼は1920年6月,4万の兵力を率いてクリミア半島に入った。

9月になるとウランゲリ軍はさらに力をつけて,アゾフ海東岸のクバン地方に進出する。この軍隊と戦うにあたって赤軍は,デニキンに対する勝利後,〈脱走兵,裏切者〉として狩り立ててきたマフノ軍とあらためて協定を結んで共闘することになった。11月に両軍の共同反攻は効を奏し,ウランゲリ軍は壊滅した。こうして白衛軍との闘争は終わったが,赤軍とマフノ軍との協力もそれまでであった。赤軍のケルチ解放より10日後には,マフノ軍は〈ソビエト共和国と革命の敵〉と宣言されてしまった。

ソビエト政権は,同じとき,タンボフ県のアントーノフの反乱に苦しめられていた。反乱の指導者アントーノフはエス・エル党員であった。農民たちは,20年の夏から〈人馬の解放〉をスローガンに反政府ゲリラ活動を始め,郡部から共産主義者を一掃した。

帝政派の将軍たちが打倒されると,ふたたび当初の農民,エス・エル派と共産党政権との対立が正面に出たのである。多年にわたり農民革命の最大の根拠地であったこのタンボフ県での反乱につづいて,21年3月,これまた常に首都革命の柱の一つであったクロンシタット要塞水兵の反乱(クロンシタットの反乱)が生じた。マフノ軍同様,この二つの反乱は厳しく鎮圧された。レーニンはそのころ,農民との和解を考えていた。すなわち彼は21年3月の第10回党大会で,穀物の割当徴発制を廃止して現物税制を導入し,余剰穀物の販売を許すという新政策を採用した。

これはこの年のうちに都市と農村の間の自由な商品経済関係を認めるネップ(新経済政策)体制に発展していった。

このようにして,21年3月のクロンシタット反乱の清算がなされた時点をもって,内戦の終了,大きくはロシア革命の時代の終りをみることができる。これは,2月21日,ただひとつ残ったメンシェビキのグルジア共和国が赤軍の侵攻によって打倒され,ザカフカスが完全にソビエト政府によって制せられたことと見合っている。

しかし,極東では日本軍は22年10月までウラジオストクにとどまり,さらに尼港(にこう)事件を口実とした北サハリンの占領は25年までつづけられたのである。それはともかく,1921年には革命と内戦,干渉戦に勝利したソビエト権力は,政治的には一元的な強力な国家となっていた。しかし,国土は荒廃しきっていた。その秋,ボルガの沿岸から恐るべき飢饉が発生し,控えめにみても100万の人が死んだ。だが,全身に受けた傷による多量の失血で顔面蒼白ともいえる,この若き社会主義国の誕生は,全世界に変革を呼び,世界史に衝撃を与えていくのである。
2023.08.03 10:49 | 固定リンク | 戦争
兼重宏一前副社長「死刑死刑死刑」とLINE送る
2023.08.01



ビッグモーターの深刻度 数々の悪行と兼重社長の他人事のような態度 損保ジャパンと〝ズブズブ〟 兼重宏一前副社長「死刑死刑死刑」とLINE送る

ビッグモーターの板金塗装部門が顧客の車に刃物やヤスリを使ってわざと傷をつけるなどして、修理代を水増し請求していたことが内部告発により明らかに。元社員や現社員がテレビの前でブラック企業の実態を証言し、その悪質さと利益追求体質が浮き彫りになった。

「成果至上主義で、すべての部門に数字でプレッシャーをかけ、社員を縛っていた。自動車販売業界で厳しいノルマをかけられる営業スタッフの話はよく聞きますが、ビッグモーターは工場部門でも工費と部品交換で得られる1台あたりの利益の合計を『@アット』と呼び、それを14万円前後にするように上層部から要求されていた」

中古車販売は買い取り販売が売り上げの大半。板金塗装はそのサポート役で部門売り上げは全体の2%にすぎない。不正が起きた背景にあるのは制裁人事だった。

「経営陣はアットの目標が達成できないと工場長を交代したり平社員に降格したりする露骨な処分をしていた。それを恐れた現場幹部が不正に手を染めたのですが、それが組織ぐるみだったのかどうか、今後追及されるでしょう」

ビッグモーターのオーナーである兼重宏行社長(当時)は今月25日に会見を開き、その場で辞任を発表したが、「知らなかった」「がくぜんとした」と関与を否定し、その態度が他人事のようだと非難が殺到した。

同氏の息子である兼重宏一前副社長(当時)は実権を握り現場に指示を出していたとされ、成果が乏しい社員に「死刑死刑死刑…」というLINEを送ったことが判明。

その宏一氏はかつて「損保ジャパン」の前身企業に在籍しており、同社からビッグモーターに2011年から延べ37人の出向者を受け入れるなど〝ズブズブの関係〟が疑われている。

「ビッグモーターは自賠責保険の契約手続きを行う保険代理店も兼ねていたので、損保ジャパンの大事な取引先。事故車修理には保険調査員が立ち会うのが原則ですが、数年前からそれを省略するようになり、不正がまかり通るようになった」と先の全国紙社会部記者は話す。

店舗前の街路樹を枯死させた疑惑も浮上し、ビッグモーターの数々の悪行があぶり出されつつある。国交省や金融庁も調査に入っており、今後の展開から目が離せない。

■虚偽の自動車保険契約の疑い…従業員が負担、件数積み増し

自動車保険の保険金を不正請求していた中古車販売大手ビッグモーターが、福井県内の店舗で、虚偽の自動車保険契約を複数結んでいた疑いがあることがわかった。ビッグモーターは複数の損害保険会社の保険代理店となっており、虚偽契約は保険業法に違反する恐れがある。

関係者によると、虚偽契約には車検証がある展示車両などが使われた可能性があるという。保険料は従業員が負担していたとみられ、契約件数の積み上げを狙った可能性がある。

ビッグモーターは、保険代理店として、自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)契約のほか、任意保険の販売などを行っている。保険の契約件数に応じ、ビッグモーターは損保会社から販売手数料を得ている。

金融庁は、31日にもビッグモーターと損害保険ジャパンと、三井住友海上火災保険や東京海上日動火災保険など損保会社計7社に対して報告徴求命令を出す方針。保険代理店としての業務実態や損保会社との取引実態などを詳しく調べる。

ビッグモーターを巡っては、損保ジャパンが保険代理店契約を解除すると発表。三井住友海上と東京海上も契約解除を検討している。

保険金不正請求問題で、金融庁は31日、同社と損害保険ジャパンなど損保7社に保険業法に基づく報告徴求命令を出した。ビッグモーターが虚偽の保険契約を結んでいた疑いも浮上しており、同法違反などに該当しないか調査する方針だ。

命令の対象は他に三井住友海上火災保険、東京海上日動火災保険、あいおいニッセイ同和損害保険、AIG損害保険、共栄火災海上保険、日新火災海上保険。ビッグモーターは7社とそれぞれ保険代理店契約を結び、自動車保険を販売していた。

損保ジャパン、三井住友海上、東京海上の3社はビッグモーターに複数の出向者を派遣していた。金融庁は出向者の役割に加え、保険金の不正請求を認識していなかったかどうかについて詳しい報告を求める。

 一方、関係者によると、福井県内のビッグモーターの店舗で、車検証がある展示車両などを使い、虚偽の保険契約を結んだ疑いがあるという。保険料は従業員が負担していたとみられ、契約件数の積み上げを狙った可能性がある。

 本来必要のない保険の販売や、契約者が不利益を被るような行為は保険業法違反に該当する。虚偽契約が事実であれば、代理店としての業務停止や代理店登録の取り消しといった処分に至る可能性もある。

■ビッグモーターに37人出向の損保ジャパン

自動車保険の保険金不正請求を行っていた中古車販売大手「ビッグモーター」に対し、損害保険ジャパンが2011年から計37人の出向者を派遣していたことがわかった。三井住友海上火災保険と東京海上日動火災保険も出向者を出しており、不正請求を見抜けなかった損害保険会社の姿勢を問う声が上がる可能性がある。

損保ジャパンは、ビッグモーターの板金や営業、品質管理部門に出向者を派遣していた。一時期はビッグモーターの第2位株主でもあった。損保ジャパンによると、現在は資本関係はないという。

損保ジャパンは取材に対し、「不正を認識していた出向者はいない」としている。一方で社外弁護士による調査を検討しているという。

ビッグモーターに対しては、三井住友海上は17年度から計3人を板金部門、東京海上も20年度から計3人を営業部門に出向させていた。3社はいずれも現在、出向を取りやめている。

損保各社はビッグモーターと保険代理店の契約を結んでおり、自動車保険の契約者に対し、同社を修理工場として紹介していた。

金融庁は、ビッグモーターの保険代理店としての実態などについて、損保各社に報告を求めることを検討している。

■金融相が損保ジャパンを重点調査

中古車販売大手ビッグモーターによる保険金不正請求問題について、鈴木金融相は1日の閣議後の記者会見で、前日に報告徴求命令を出した損害保険会社7社のうち、損害保険ジャパンに対しては他の6社よりも踏み込んだ対応で臨む姿勢を明らかにした。

鈴木氏は、損保7社に対する調査では、「不正行為の被害を受けた顧客への対応状況を確認していく」と述べた。一方、損保ジャパンに対しては「本件に関する事実認識や、ビッグモーターへの出向者にかかる事実関係、1社だけ顧客紹介を再開した際の経緯などについても確認する」と述べ、重点的に調査を進める考えを示した。金融庁によると、各社には8月中に回答するよう求めた。

■金融庁、ビッグモーターと損保7社に報告徴求命令

中古車販売大手「ビッグモーター」による保険金不正請求問題で、金融庁は31日、ビッグモーターと損害保険ジャパンなど損保会社7社に対して、保険業法に基づく報告徴求命令を出した。

報告徴求命令を出した損保会社は、損保ジャパンのほか、三井住友海上火災保険、東京海上日動火災保険、あいおいニッセイ同和損害保険、AIG損害保険、共栄火災海上保険、日新火災海上保険の計7社。ビッグモーターは7社と保険代理店契約を結び自動車保険を販売していた。

■「優位な立場にあったのはビッグモーター側」か

中古車販売大手ビッグモーターによる保険金不正請求問題は、損害保険会社との「持ちつ持たれつ」ともいえる関係が明らかになってきた。両者は保険代理店契約を通じ、互いの客を紹介し合う関係にあった。金融庁も実態解明に乗り出しており、不正を見抜けなかったとする損保各社の責任も焦点になる。

存在感

「保険契約を増やしたい営業現場にとって、ビッグモーターは重要な取引先の一つ。優位な立場にあったのはビッグモーター側だろう」。ある損保業界関係者は話す。

ビッグモーターは損保各社と代理店契約を結び、自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)や任意保険を販売している。損保会社は契約者から事故の連絡を受けると、修理工場としてビッグモーターを紹介していた。これが同社の修理部門の売り上げ拡大につながっていた。

一方、ビッグモーターは紹介件数に応じ、自賠責保険の契約をどの損保会社に割り振るか差配していたという。

強制保険の自賠責は、損保会社や代理店にとって利益も損失も出ない仕組みになっており、保険料も補償内容も一律だ。ただ、損保側は保険料を収入として計上できるため、契約件数が増えれば売り上げ規模を大きくできる。さらに自賠責の契約者に自社の任意保険を勧誘するきっかけにもなり得る。

ビッグモーターが販売する自賠責と任意保険の保険料は年間で計約200億円に上るとみられる。損保側にとって存在感は増していた。

出向者

損害保険ジャパンは2011年以降、計37人の出向者をビッグモーターに出しており、執行役員を務めた者もいた。三井住友海上火災保険、東京海上日動火災保険もそれぞれ3人の出向者を出していた。

一方、ビッグモーターの兼重宏行前社長の長男で前副社長の宏一氏は、過去に損保ジャパンの前身の日本興亜損害保険に在籍。経理などを担当していた。在籍期間の11年4月~12年6月は、損保ジャパンがビッグモーターへの出向を始めた時期とも重なる。

昨年6月、保険金不正請求の疑いが浮上し、損保大手がビッグモーターを修理工場として紹介することを一時停止した際には、損保ジャパンのみがビッグモーターの自主調査を受け入れ紹介を早期に再開した。「自賠責保険の契約拡大を目指したのではないか」(業界関係者)との指摘もある。

特に出向者が多かった損保ジャパンは、不正の可能性を認識していたという。同社はこれまでの経緯を検証するため、社外の弁護士による調査委員会を設置。7月28日にはビッグモーターとの保険代理店契約を解除すると発表しており、三井住友海上と東京海上も契約解除を検討している。

互いの客を紹介し合う親密な関係にありながら、不正行為を見逃した損保の責任を問う声は強まっている。金融庁は不正への関与や黙認がなかったか、出向者の役割などについて詳しく調べる方針だ。

■従業員が保険料負担し虚偽の保険契約結んだか

中古車販売大手ビッグモーターによる保険金不正請求問題で、金融庁は31日、同社と損害保険ジャパンなど損保7社に保険業法に基づく報告徴求命令を出した。ビッグモーターが虚偽の保険契約を結んでいた疑いも浮上しており、同法違反などに該当しないか調査する方針だ。

命令の対象は他に三井住友海上火災保険、東京海上日動火災保険、あいおいニッセイ同和損害保険、AIG損害保険、共栄火災海上保険、日新火災海上保険。ビッグモーターは7社とそれぞれ保険代理店契約を結び、自動車保険を販売していた。

損保ジャパン、三井住友海上、東京海上の3社はビッグモーターに複数の出向者を派遣していた。金融庁は出向者の役割に加え、保険金の不正請求を認識していなかったかどうかについて詳しい報告を求める。

一方、関係者によると、福井県内のビッグモーターの店舗で、車検証がある展示車両などを使い、虚偽の保険契約を結んだ疑いがあるという。保険料は従業員が負担していたとみられ、契約件数の積み上げを狙った可能性がある。

本来必要のない保険の販売や、契約者が不利益を被るような行為は保険業法違反に該当する。虚偽契約が事実であれば、代理店としての業務停止や代理店登録の取り消しといった処分に至る可能性もある。

2023.08.01 16:16 | 固定リンク | 事件/事故

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