首なし死体の謎?
2023.06.20


閲覧注意…祭りに浮かれた村人らが阿鼻叫喚となった最悪の「人喰いヒグマ事件」

1■不気味な首なし死体

史上最悪の人喰いヒグマによる「三毛別事件」発生から107年が経った。歴史に埋もれた北海道のヒグマ事件をたどる。数々の事件の中でも「三毛別」とならぶ衝撃を受けたものがある。

その「三毛別事件」から7年半後の大正12年5月、三毛別のある苫前村から40キロ西の温根別村で「首なし死体」が発見された。

「上川郡温根別模範林及び北線方面では、去月下旬より巨熊が出没し付近農家を驚かす等危険甚だしく、(中略)同地、石川信治(四三)は二日午前七時頃、三番山に行ったまま三日朝に至るも帰宅しないため、付近に住む大平善一、矢野利作の両名現場に赴くと、信治は自宅を距たる約二百間の箇所で、見るも無惨な有様で咬み殺され、雪中には血痕点々とし、膝蓋骨の一部露出している騒ぎに一同驚き、(中略)駐在巡査に報じて発掘検屍すると、わずかに胴を残すのみにて、内臓全部を喰い尽くされ、あたかも蝉の空殻のごとく惨状目も当てられず(『北海タイムス』大正十二年五月六日)

事件の一報は上記の通りであったが、実際にはさらに凄惨なものだったらしい。

『士別よもやま話 第三集』(士別市郷土史研究会)に、三宅裕良の聞き取りによる『熊と首なし死体』の挿話が掲載されている。

「死体は木の株にでも腰をかけた様な格好をして坐っていた。発見するのにそう時間はかからなかったが、驚いたことに首がない。みんなで四方八方捜したが見当らなかった。とうとう諦めて死体の移動にかかったところ、尻の下から首が出てきた。自分の首の上に腰をかけていたんだ

2■ヒグマ五大事件に数えられる

西森正一によれば、「その日、被害者の石川は山に行く途中、住職の寺沢皆遵と行き会い、寺沢が熊の足跡があったから気をつけるように伝えると、石川は「出てきたら反対にこっちからブチ殺してやるさ」と笑い飛ばした。

翌朝、まだ暗いうちに石川の奥さんが西森家を訪ねてきて、「昨夜から石川が帰ってこない」という。西森の父親が山に行ってみると、トーキビ(トウモロコシ)弁当が散乱し、鋸は木に刺さったままで、そこら中熊の足跡だらけであったそうである。

「当時の農家は貧乏で米の飯を食べられる人は少なかった。石川さんもそうで、トーキビを弁当にしていた。それでも腹の中は油が一ぱい浮んでギラギラしていた。(中略)熊は臓物(はらわた)が好きなようで、石川さんの時は首を引きぬいて、そこから手を入れて、はらわたを食べたらしい」(西森正一談)

襲われたのは杣夫(林業従事者)であった。そして加害熊を捕獲したという続報はない。

さらに、同事件のわずか3ヶ月後に、南に90キロの沼田村で、4名が喰い殺され、4名が重傷を負う重大事件が起きた。

「五大事件」のひとつとして知られる「沼田幌新事件」である。

3■闇の中に浮かぶ恐ろしきヒグマの顔

この事件は大正12年8月21日、雨竜郡沼田村字幌新の太刀別御料地農家、村田三太郎(54)一家らがヒグマに襲われ、妻のウメ(52)、次男幸四郎(15)、雨竜村の熊撃ち長江政太郎(56)、近隣の農家、上野由松(57)の4名が死亡、4名が負傷した事件である。

昭和29年刊行の『熊に斃れた人々』(犬飼哲夫)と『北海タイムス』(大正12年8月24日、25日)を主に参照しながら、事件の経過を追ってみよう。

この日、幌新地区恵比島では太子祭が盛大に行われていた。人気の演目であった浪花節が終わったのは深夜11時過ぎで、村田一家は近所の青年ら8人と提灯、ろうそくを手に、揃って家路についた(後出の林謙三郎は、一行は隣の支線沢集落の人々を含めて22、3名だったと証言している)。

幌新通りに面した沢にさしかかったときであった。小用を足したせいで、皆より50mほど遅れて歩いていた林謙三郎(19)は、突然、暗やみから異様なうなり声とともに襲いかかった巨熊に帯を引きちぎられた。体力に自信のあった林は、背中に傷を負いながらも、ヒグマを振り切って駆け出した。彼が「クマだ!」と叫んだときには、村田家の次男、幸四郎は一撃のもとに倒されていた。母ウメは、子供が襲われたことに動転したのか、その場で躊躇していたところ、ヒグマが飛びかかり、ウメを押さえつけた。これを見た長男の与四郎は咄嗟にマッチを擦った。闇の中にヒグマの顔が浮かび上がり、次の瞬間、ヒグマは与四郎に襲いかかった。

4■念仏を唱える声が途切れ途切れに

与四郎が襲われている間に、一同は現場から300mほど離れた持地音松宅に走った。持地家では、すでに寝支度をしていたが、彼らのただならぬ様子に驚き、炉に樺皮(ガンビ)を盛んにくべた。30分ほどして、ヒグマは窓から顔を覗かせたが、人々が声を限りに騒ぎ立てたので、いったん引っ込めた。しかし今度は表に回って、ガラス戸を押し倒し、内側から必死に押さえていた三太郎を踏みつけて持地家に侵入した。この時、ヒグマの口から喰い殺した幸四郎のものと思われる内臓がぶら下がっていたという。

「危険を知ると家の中に居た者はそれぞれ梁に登る者、押入れに入って隠れる者、便所に逃げ込む者、蒲団の間に潜る者等、散らすごとく姿を消した。人を見失った熊は炉に燃えている火を掻き散らし、踏みにじったりして暴れたが、村田の妻ウメだけは子供のことで心配のあまり、この騒ぎの中にフラフラと一人戸外に抜け出て表にウロウロしていると、熊が気付いて、再び外に躍り出てウメに猛然と襲ひかかり抱き込んでしまった」

夫の三太郎は重傷の身にもかかわらず、スコップを手に外に飛び出し、「畜生畜生」と連呼しながら、妻を引きずっていく熊を幾度も打ち据えた。しかし熊は悠然と笹藪の中に消えてしまった。ウメは初め「助けてくれ」と叫んでいたが、そのうち念仏を唱える声が切れ切れに聞こえ、やがて消えてしまった。翌朝になって様子を見に行った一同は、腰から下を全部食われた無残な姿のウメを発見した。

一方、畑に倒れていた長男の与四郎は、助け出されて持地家に運び込まれた。犬飼の著書では、「瀕死の興四郎(与四郎)を沼田病院に送ったが、遂に生命を取り止め得なかった」となっている。また25日付の地元紙でも「興四郎は沼田病院に入院中なるも生命覚束なく」となっている。

5■死の床から一命をとりとめる

真実はどうだったのか。

昭和52年に採録された村田与四郎本人(72歳)の口述筆記『沼田の熊事件』(沼田町教育委員会)が残されている。これによれば、持地家に運び込まれた与四郎は、2時間かけて沼田の病院まで馬で運ばれた。着いたのは朝の4時頃で、あたりはうっすらと明るくなっていた。医者が肺の傷を縫い合わせたので呼吸は楽になったが、応急処置もそこまでで「治療もなにもできない。もうだめだ」と匙を投げた。熱はどんどん上がって42度に達し、出血もひどくて毛布がベタベタになった。3日間放置された後、寝台車で札幌の北大病院に運ばれ、2時間に及ぶ大手術を受け、一命を取り留めた。退院したのは4ヶ月後の12月のことだったという。

「熊に叩かれてその家(持地家)に入って寝かされたとき、隣の人ら『この人はもう助からんのではないか』ってしゃべってるのが聞こえるんだから。腹立って『俺はそんなにひどいのかな』って思ってね。自分ではそう思ってるんだ。だけど見てる人はね、また…あの血見たら助かるとは思わないんだ。(中略)『あの人は死んだ』と部落の人も噂を立ててたから無理もない」

「沼田町郷土資料館」の展示ですら与四郎が死亡したことになっているのは、このような噂のためだろう。

与四郎の口述によれば、ウメが食われている間に、幾人かは脱出したようである。

翌22日になって知らせを受けた消防団、青年団などが集まり始めた。しかしこの日は熊は姿を見せなかった。

6■胃袋には大量の未消化の指が

23日になって、雨竜村の熊撃ち名人といわれる砂沢友太郎、長江政蔵らが駆けつけた。長江は身の丈五尺八寸(174センチ)の偉丈夫で、「そんな凶悪な熊は必ず自分が仕留める」と豪語して単身、山に入った。十一時頃に銃声が聞こえたが、日が暮れても戻ることはなく、人々は長江がヒグマにやられたものと確信した。

24日午前9時より、警察を始めとした220名による大規模な山狩りが開始された。午前11時頃、十五町ばかり山に入ったところで(後述の藤崎廣幸によれば、加害熊と出会したのはマドイ沢で、射止めたのは二十号の沢(たけの沢)の上流の嶺であったという)突然、大熊が飛び出してきて、隊列の中間に襲いかかり、折笠徳治(57)の頭部に一撃を加えた。折笠が悲鳴を上げて昏倒すると、次に上野に一撃を加えてこれも斃した。さらに次の者にのしかかろうとした時、ようやく戦闘態勢の整った銃士ら3名が、ほとんど同時に撃ち放った。手応えがあり、ヒグマはその場に斃れて動かなくなった。

犬飼の著書によれば、「上野は頭部その他から血を吹いてよろよろと廻りながら倒れ」とあり、重傷を負いながらも生き延びたことになっているが、実際には絶命したようである。一方の折笠は一命を取り止めた。

行方不明であった長江の遺体は、熊が斃れた地点からほど近い沢奥で発見された。残されていたのは頭部と革帯、そして三つに折れた鉄砲だけであった。長江はこの場所で熊に遭遇し、一発を発射したものの致命傷には至らず、ついには格闘となり、力尽きたものと思われた。別の資料によれば弾は不発で、現場には左足首だけが転がっていたともいう。

討ち取られたヒグマは体長2メートル、体重340キロの雄であった。遺骸は林謙三郎の家に運ばれ解剖されたが、胃袋からは大ザルに一杯の人骨と未消化の指が出てきたとか。

7■首なし死体が永遠に残した謎

この事件で特異なのは、十数名の人間が群れ歩いているところにヒグマがちん入したという点である。

事件から44年後、63歳となった林謙三郎の聞き書きが、林業雑誌『寒林帯』(百十八号「私の山官記 その8」藤崎廣幸 旭川営林局)に残されている。記事中に事件の「被害足取図」があるので転載するが、現場は現在の沼田町化石館の付近と思われる。

加害熊は「事件のあった四,五日前に馬が崖から落ちて死んだので、土に埋めたのでその肉を熊が嗅いで、それを喰べて道路へ出て来たのが、お祭り帰りの一同に合ったのであろうといわれている」(前掲『寒帯林』)ということで、エサを横取りされることを恐れて人間を排除したのが原因ではないかという。

しかし筆者が注目したいのは、加害熊が北東から襲来したことである。

沼田村の北東には、首なし死体が見つかった温根別村が位置するのである。

今となっては証明しようもないことではあるが、3ヶ月という短期間に、天塩山地の限られた地域で凶悪事件が続発したという事実は、同一個体であった可能性を十分に示していると筆者は考える。
2023.06.20 14:21 | 固定リンク | 事件/事故
ロシアのキンジャール「全くの嘘っぱちだ!」
2023.06.20



パトリオット」で簡単に撃墜 「ロシアの言うことは嘘ばかり」「単なる空中発射型弾道ミサイルに過ぎない」全くの嘘っぱちだ!

キンジャールはどんな攻撃も交わして標的に命中する極超音速ミサイルだと喧伝していたプーチンを笑う動画をウクライナが作成 

ロシアの極超音速ミサイル「キンジャール」は、ロシア政府流に言えば「無敵」の高性能ミサイルだ。だがアメリカ製の対空防衛システム「パトリオット」でかなりの数が迎撃されており、ウクライナ当局はキンジャールの性能を揶揄する動画を公開した。

ウクライナ戦略通信情報セキュリティセンター(CSCIS)が公開した動画によれば、ウクライナ側は過去2カ月で13発のキンジャールを撃ち落としたという。

キンジャールは空中発射型の弾道ミサイルだ。ロシアのメディアの報道によれば、音速の10倍の速さで飛ぶことができ、射程は2000キロメートルに及ぶという。キンジャールは通常、ミグ31K戦闘機から発射され、ロシア国営タス通信によれば、昨年3月にウクライナへの攻撃に初めて使われた。

だが今年4月以降、アメリカやドイツ、オランダから供与された米製地対空防空ミサイルシステム「パトリオット」がウクライナに配備されてからというもの、なかなか当たらなくなった。

■「ロシアの言うことは嘘ばかり」

SCISの動画は今月16日にツイッターに投稿されたもので、こんなメッセージが添えられている。「『キンジャール』は無敵だと聞いたことはあるだろうか? 動画を見れば真実が分かる」

動画はまず、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がキンジャールについて誇らしげに語る資料映像から始まり、続いてこんなメッセージが現れる。「『無敵の』キンジャール・ミサイルは驚異的な成果を上げられる、そして防空システムをかいくぐることさえできる、とロシアは信じさせようとした。だがロシアの言うことはどれも同じ......嘘っぱちだ」

「この2カ月の間に、ウクライナは13発のキンジャールをパトリオットで撃墜した。西側の兵器はウクライナ人を救い、ウクライナ人はロシアの神話を破壊している」

動画ではメッセージとともに、パトリオットの発射シーンや、キエフ市長がウクライナに向けて発射されたキンジャールの破片を手にする様子が映る。バックグラウンドには有名なジャズ曲「縁は異なもの」が流れている。

米航空宇宙・防衛大手でパトリオットの製造元であるレイセオン・テクノロジーズのグレッグ・ヘイズCEOは今月、ウォールストリート・ジャーナルの取材に対し、パトリオットの年間製造数を12基に増やすと明らかにした。

またヘイズは「(パトリオットがキンジャールに対して)こんなに有効とは驚いた」と述べた。

ウクライナ迎撃があまりにうまくいくので、キンジャールが本当に極超音速ミサイルなのかどうかを疑う声も出てきている。

軍事評論家のデービッド・ハンブリングは本誌にこう述べた。「キンジャールがプーチンの言うように本当に極超音速ミサイルで、マッハ5を超える速度で複雑な軌道を飛べるミサイルであるなら、現行の防空システムで迎撃するのは非常に困難なはずだ」

「あらゆる情報がキンジャールが単なる空中発射型弾道ミサイルに過ぎないことを示している」

2023.06.20 09:31 | 固定リンク | 戦争

- -