立ったままの遺体が「199人」
2024.01.24
「凍傷で赤く腫れあがり、立ったままの遺体が…」199人が凍えて死んだ“無謀な訓練”…「八甲田山の惨事」で“消された事実”とは

「殴り合って凍死を防ぐしかなかった」「氷点下41度を観測した日に…」記録的極寒の雪山で210人がさまよい続けた「八甲田山雪中行軍遭難事件」の“顛末”

いまから122年前の1902(明治35)年に起きた八甲田山雪中行軍遭難事件。未曽有の荒天の中でいくつも人為的なミスが重なったとされるが、その責任はほとんど追及されないまま、「無謀な行軍」の悲劇は「天災」として片づけられただけでなく、いくつもの「美談」に転化されていった。

 訓練に参加した210人中199人が亡くなった「日本山岳史上最悪の遭難」はどのように伝えられたのか。あるいは伝えられなかったのか――。

 今回も当時の新聞記事や記録は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中にいまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。部隊名の表記は例えば「歩兵第五聯隊」「三十一聯隊」が当時の正式名称だが、新聞記事の見出し以外「歩兵第五連隊」「三十一連隊」などで統一する。

1906年に全国の将校たちの寄付により建てられた雪中行軍遭難記念像。雪の中、仮死状態で立ち続け最初に発見されたとされる後藤房之助伍長が象られている

 1902年1月23日に出発した旧軍青森歩兵第五連隊。この年の冬は、北海道から東北にかけて猛烈な寒気団に包まれ、25日は北海道上川で氷点下41度の観測史上国内最低気温を記録した日でもあった。しかし、五連隊の津川連隊長は行軍隊が行程通り進んでいると楽観視。帰還予定の日を過ぎてからようやく救援隊を編成したが、悪天候もあって対応が遅れ、凍りついて直立したままの後藤房之助伍長が発見されたのは27日のことだった。

 大規模な捜索により将校、下士官、兵士らが生存あるいは死亡で発見。救助されて病院に収容された17人のうち、5人が凍傷などで死亡し、全治したのは3人だけだった。

■210人中199人が死亡した「大惨事の凍死」

 訓練に参加した210人中199人が死亡という大惨事に、世論は沸騰した。東京の新聞も1月29日付で東朝や時事新報、都新聞(現東京新聞)などが大きく報じ、黒岩涙香の萬朝報、陸羯南が創刊した新聞の日本なども小さく伝えた。五連隊は岩手と宮城から兵士を徴募しており、参加者210人中、岩手出身は144人。地元紙・巌(岩)手日報も1月30日号外で「嗚呼(ああ)慘事々々大慘事二百餘(余)の凍死」と報じた。

 新聞報道は当初「一隊の士卒皆凍死」「行軍兵209名の凍死」「140名凍死、他は解散・行方不明」などと混乱したが、その後は連日、行軍隊員が生存あるいは遺体で見つかったというニュースや軍部の対応、侍従武官派遣、犠牲者と遺族関係の情報などを記事化した。

「東朝では『全軍凍死』の報が入ると、直ちに(記者の)村井啓太郎と挿し絵画家の河合英忠とを現地に特派した」(『朝日新聞社史 明治編』)。彼らによる「遭難畫(画)報」は2月5日付の「捜索隊の哨所(しょうしょ=歩哨の詰め所)」から連載された。

 新聞にほとんど写真のない時代、ほかに時事新報も捜索の状況や遺体搬送などの挿し絵を載せたほか、各紙は山口少佐、神成、倉石両大尉らの似顔絵を競って掲載した。

■青森の方に向かい、立ったまま発見された遺体

 2月2日付大阪朝日(大朝)は遺体発見の状況を記している。

「岩の上に倒れたのもあり、川の水に足を浸して死んだ者もあり、付近で発見した遺体は7体に及んだ」「死者が履いた(藁)靴のかかとは大いに擦り切れていた。雪中を無我夢中になって歩いた証拠と見るべきだ。遺体の多くは目を開き、生きているよう。外套は凍って板のごとく、履いた藁靴も固まって石のようで、ナタで切り破らなければ取れない。遺体は皆青森の方に向かい、多くはあおむけか立ち往生の姿。帽子は吹雪に吹き飛ばされたらしく、顔は凍傷のため赤く腫れて見るに忍びない」……。

 1月30日、時事新報は社説「二百餘(余)名の兵士風雪に斃(たおれ)る」で「不時の天災と諦めざるを得ない」として原因調査と遺族への配慮を要望。都新聞も論説で兵士の犠牲を「戦場の討ち死にと同じ名誉」としつつ、今後の雪中行軍に周到な用意を求めた。河北も31日付でほぼ同趣旨の論説。

一方、2月1日の論説では東京日日(東日=現毎日新聞)が「大慘事」、巌手は「嗚呼斯(こ)の大慘事」の見出しで、いずれも行軍の実施に周到な準備と注意がなされていたかと問い、再発防止を訴えた。

遭難の原因は何だったのか――新聞が指摘した4つの問題

 さらに厳しい見方を示したのは萬朝報と日本。萬朝報は2月5日の「言論」で「凍死事件に對(対)する疑問」と題して「空前の大惨事を生じた上官の措置を疑わないわけにはいかない」として行軍の目的地、実施時期などに疑問を提起。

 2月8日には「五聯隊の責任」で遭難の原因と思われるポイントを列挙した。筆者は「安藤生」となっており、のちに読売新聞政治部長や衆院議員を務める安藤覚と思われる。

「道案内が必要だ」という忠告を聞かずに…

(1)1月24日は青森では「山の神の日」で古来大暴雪が絶えないのを顧みなかった。

(2)田茂木野に到着した時、農民が出てきて「とても前進できない」といさめたが、隊長らはこれを叱り飛ばして進んだ。田代までは何カ所も危険な個所があるが、携帯した地図は夏季のものだったうえ、将校、兵士も青森出身者が少なく、青森の雪の経験がなかった。

(3)風雪に遭った時、穴を掘って密集し、携帯の食糧、薪炭を頼りに、静かに風がやみ雪が収まるのを待つべきなのに、慌てふためき、うろたえて風雪をついて連日しきりに彷徨し(さまよい)、ついに道に迷うに至ったのは、ほとんど求めて死を急いだのに等しい。

 現に、22日に同時期に切明(現青森県平川市)から十和田、田代を経て青森に到着した弘前第三十一連隊の雪中行軍隊は切明から5人、三本木から7人、道案内を雇い入れたうえ、24日の大風雪の際には雪中に穴を掘って密集し、天候が回復するのを待って無事だったという。五連隊の一部は、沿道の農民らが「道案内が必要だ」と忠告したのに「その方どもは銭が欲しくてそう言うだけだ」と𠮟りつけて取り上げず、雪中密集の方法もとらなかった。これが手落ちでなくて何だ

 いずれも問題点を突いていると思われる。

地元民は危険を知っていた

 既に1月29日付東奥には「村民死を豫(予)期す」という短い記事が見える。「田代方面は冬季は非常に危険な所で、今年のように『厚雪』で『堅雪』にならない時は危険は計り知れないとして、村民は行軍隊が帰ってこないとの知らせを聞いて、一行の凍死を確信していたという」。対して兵士たちはどうだったか――。

 2月21日付東奥には、生存者の長谷川(貞三)特務曹長の「(出発前の考えでは)田代というのはわずかに5里(20キロ)ばかりで、湯に入りに行くつもりで、タッタ手ぬぐい1本を持っただけ(のつもり)だった」という談話が載っている。「五聯隊の責任」は特に、小説や映画で五連隊と比較される三十一連隊の行軍成功とその理由を挙げているのが注目される。指摘は続く。

(4)五連隊の捜索の緩慢さもまたひどい。行軍隊は1泊で24日帰営の予定だったが帰らず、26日、筒井村の村長が連隊長に、村民らが行軍隊が生還しないのではないかと心配していると言って捜索を求めたが、連隊長は「あなた方の関知するところではない」と顧みなかった。 翌27日、青森市の書記がさらに忠告したが、連隊長は「行軍隊は必ず田代に到着している」と回答。書記が「それなら、市が人夫、消防夫を派遣して捜索する」と言って立ち去ると、連隊長もようやく悟ってこの日の夕方、救援隊を派遣した。救援隊の将校はある遺体を発見した際、「死後20時間もたっていない。捜索がもう1日早ければ」と緩慢な捜索に遺憾の意を示した。

遭難は避けられないものだったのか?

 新聞・日本も遭難発覚直後から軍に批判的だった。2月9日から「大惨事と責任」という記事を3回続きで連載。「200の将卒をこのように惨死させたのは、23日から24日にかけての大吹雪と厳寒に相違ない。人力では防げなかった天災に遭遇したためといわれる。しかし、その天候は予想できなかったもので、遭難は人力では避けられないものだったのか」と追及。

 萬朝報同様、原因を並べ、最後にこう書いた。「今回、生存は将校が多く、兵士は少ない。それは兵士が自分の身を忘れて死に至るまで将校を保護したためではないか。生存者や遺体の発見の場合にも将校に厚く兵士に薄い感がしないでもない」。

 筆者の「三浦生」は自由民権運動家の医師で、夏目漱石の最後の住居「漱石山房」の建築主とされる三浦篤次郎のようだ。主張はもっともだったが、将校と兵の関係は違う形で利用されてしまう。 

明治天皇も事態を憂慮

 訓練中の大量遭難は当時の軍中央にとっても大きな衝撃だった。しかし、児玉陸相の対応は素早かった。捜査が本格化したばかりの1月31日、善後委員会を設置して対応を協議させる一方、凍死者は全て戦死扱いとし、遭難した場所に官費で埋葬するなどの方針を示した(『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』)。

 明治天皇も事態を憂慮。同じ日に侍従武官を青森に派遣して遭難現場の視察や生存者の慰問をさせ、菓子料を下賜(かし)した。以後も天皇・皇后は遺族に祭祀料を下賜。皇后からは手足を切断した生存者に義足、義肢が下賜された。国民の徴兵制への懐疑を防ぐため、早期に問題の鎮静化を図る必要があったとされる。

責任論にフタ、「美談」に転化された

 実は当時、軍はもう1つ、頭の痛い問題を抱えていた。「馬蹄銀事件」「分捕事件」と呼ばれ、2年前の1900年に清(中国)で起きた義和団事件の際、第五師団(広島、師団長・山口素臣中将)を中心とする派遣部隊が清の通貨・馬蹄銀を横領したという疑惑が浮上。捜索が行われるなど、新聞紙面を騒がせていた。

 捜索が継続中の2月12日には日英同盟成立が報じられる一方、伊藤博文・元首相が進めた日露協商はご破算となり、対ロシア戦争が決定的になっていた。それで打ち出されたのが、遭難の最大の原因は天候悪化だったとして責任論に蓋をする代わりに、遭難劇を「軍国美談」に転化させる戦略だった。

 2月7日付東日は「山口少佐の死體(体)」の見出しで「いまは責任を論じて屍に鞭打つの悲惨は忍びない。少佐の遺体はさる3日、火葬を行い、北の果ての一片の煙と化したという。万籟(ばんらい)寂す、責任従って消ゆ」と少佐の責任論を不問とした。

 2月14日付東奥は「興津大尉の死状(しにざま)」で次のように書いた。「興津大尉は一兵卒の膝を枕にして死んでいたが、その兵卒は大尉の従卒で、大尉への切なる思いから、死に瀕しながらなお介抱し、ついに共に倒れたと知られる。主従その死を共にす。将校と兵卒の間柄がいかに親密か見るべきで、実に美談として後世に伝えるべきだ」

 この「美談」は兵士が誰か、2人の姿勢はどうかなど、情報が錯綜しながらまとめられていく。それらを掲載したのが同年6月1日付からの東奥の「凍難隊美談」だ。

 初回は「死に臨んで猶(なお)隊長を省(せい)す(見舞う)」で山口少佐を介抱した一等兵の話。2回目「死して猶上官を庇護す」が興津大尉と元従卒の軽石二等卒のエピソード。2人については救援隊の将校が撮影した写真が新聞などで話題になった。

 以後(3)戦友の屍を負うて行く(4)勇躍水に没して血路を開かんとす(5)貴重の器具捨つべきにあらず(6)死して猶その部下を愛す――と計8回連載。

 いずれも「忠君愛国」の基盤の上に滅私奉公、上官と部下の相互信頼、戦友間の友情など、軍国主義下の美学を教訓とした内容で、見出しや順番を替えて同年7月刊行の『遭難始末附録』に掲載される。

■演劇、映画、軍歌…「雪中行軍神話」として大人気に

 そうしたドラマに興行関係者が飛びつく。2月18日付都新聞の「投書一覧」には「八甲田山の慘事」として「俗極まる浅草公園の見世物中、やや学術的に近いものは水族館、電気館、海底旅行、珍世界などなり。また、来たる19日より八甲田山の雪中惨事を小林習古氏の筆にて『ジヲ(オ)ラマ』に表し、広く観覧に供する由(余白拝借生)」という広告が掲載されている。

 さらに2月19日付東朝「楽屋すずめ」には、東京・赤坂溜池にあった演伎座で「松永憲太郎一座が例の『雪中行軍』を演じようとて松永は実地視察のため青森へ赴いたという」という記事が。

 それどころか、丸山泰明『凍える帝国 八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』によれば、日本橋にあった真砂座では2月4日から「雪中の行軍」三場を上演。電気の作用で吹雪を見せ、雪中の大道具も苦心して造り上げた大仕掛けだった。大入り満員で、台本作者の部屋では行軍凍死者の霊を祭って供物を供えた。劇中では「兵士が服を脱いで隊長に着せる」場面が見せ場で観客に大受けだったという。

巨額の義援金が集まった

『凍える帝国 八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』によれば、遭難事件は「生き人形」や幻灯、講談にも取り上げられたほか、大正時代には歌舞伎出身のスター澤村四郎五郎主演で琵琶を生伴奏にした無声映画も製作された。遭難を題材に落合直文が作詞した軍歌「陸奥の吹雪」がヒットしたほか、詩人大和田建樹ら多くが詩に詠うなどして、事件は悲劇として広く知られるようになった。

 義援金を申し出る国民が続出し、その総額を陸軍省編纂『明治軍事史』は「実に二十有数万円の巨額を数えたのは、いまだかつて聞いたことがない」と記した。現在の10億円を超えたと考えられる。「雪中行軍神話」は見事に成立した。

 この間、陸軍省内に設けられた取調委員会は事件の責任を協議。『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』によれば、結論を出したのは遭難から4カ月余り後の1902年6月9日だった。報告書は児玉の後任の寺内正毅陸相(のち首相)に提出されただけで公表されなかった。『青森県史 資料編 近現代2』に収録された「遭難事件当局者の責任に関する報告書」は冒頭でこう言い切っている。

 将校以下二百余名が悲惨の極に遭遇した顛末は、はたして人力では救済できない天災だったのか、そうでないのかを追究するに、全く予想できない天候の激変で、避けることができない災厄だったことは明瞭だ。

 これは第五連隊長、第八師団長らの意見をそのまま受け入れた結果だった。報告書は「計画・準備」「実施」「善後の処置」に分けて検討しているが、責任者である山口少佐について「あえて死屍に鞭打つ必要はない」と判断。他に責任を求める者はなく、ただ救護措置の遅れについて連隊長の責任は免れず、相当の処分が相当とした。『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』によれば、寺内陸相は天皇の裁可を仰いだが、結局連隊長も実質的には処分なしで決着した。軍中央の描いた筋書き通りだっただろう。

 2年後の1904(明治37)年2月、日露戦争勃発。そして、1905年1月、奉天会戦の前哨戦としての黒溝台会戦が行われた。

 伊藤正徳『軍閥興亡史 第1巻』によれば、日本軍は予備軍として長く内地に留め置かれていた第八師団に攻撃させたが、戦力ではるかに上回るロシア軍の抵抗で激戦となり、応援部隊の参戦もあって辛うじて勝利した。この戦いで第八師団は名声をあげたが、八甲田山雪中行軍生き残りの五連隊・倉石大尉と雪中行軍を成功させた三十一連隊の福島大尉は戦死した。

 結局、軍部は大量遭難の最大の原因を「想定外の天候の激変」とし、遭難劇をいくつもの美談に彩られた「戦雲近づく中での悲劇」にすり替えた。その犠牲となったのが三十一連隊の雪中行軍だった。条件が違うとはいえ、同じ「天災」下で一方に成功例があるのはまずかったはずだ。

■「殉国者としていかなる批判も許されなかった」

『東奥日報百年史』によれば、三十一連隊の行軍には弘前支局の東海勇三郎記者が随行していた。中園裕「資料で見る『雪中行軍』」(「市史研究あおもり」所収)によれば、三十一連隊は行軍中、五連隊行軍兵士2人の遺体と銃2丁を目撃。

 東海記者はそれを1月29日付号外で記事にしたが、「数日後に当該記事は姿を消し、三十一連隊の壮挙とともに全く記されなくなっている」。同論文はそう指摘し、こう書いている。「記しておきたいことは、何よりも五連隊の行軍将兵が天皇から戦死者同様の待遇と認められ、殉国者としていかなる批判も許されなかったことである。雪中行軍遭難事件を語る際には、このような政治的圧力と社会的風潮を理解する必要があろう」。

一部の紙面が保存されていない

 その東奥日報は、当時の一部の紙面が保存されていない。『東奥日報百年史』によると、現存しないのは1月28日付と1月30日~2月7日付。遭難報道のピーク時で、同書は「大事なカギが重要な意義があって持ち去られたのであろうか」と書いている。何らかの政治的圧力が働いたと考えるのが自然だろう。「雪の悲劇」の筋書きに、都合の悪い事実はなかったことにされたのではないか。

遭難事件であらわになった日本軍の体質

 取調委員会の報告書は道案内を同行させなかったことについて、同じ時に土地に精通した炭焼きや猟師が道に迷ったり死亡したりしていることを挙げ、「同行させて安全だったかどうかは分からない」とした。責任追及の点からいえばそうかもしれない。しかし1つの問題は、軍隊が地域でどんな存在であり、住民とどのような関係を結ぶべきなのかだ。

 住民の声を記録した資料からは、「兵語」とはいえ、住民を「土民」と呼び、行軍兵士の家族に宿泊を求められて「連隊は旅籠屋(はたごや=旅館)ではない」と断ったことが分かる。傲慢で頑迷で閉鎖的な体質は、軍内部の上から下に向けても同様だった。

 遭難事件の処理次第では、そうした理不尽な体質をわずかでも変える可能性があったかもしれない。しかし、戦争を目前にした強引な論理が全てに優先された。この事件で表れたのは日本軍の本質だった。

 日本兵は粘り強く精強だといわれた。一方で、八甲田山の厳寒地獄をさまよう行軍兵士の姿は四十数年後、ニューギニアやインパールで、苦しんだすえに死んでいった日本兵の姿と重なる。この事件の結末を見れば、日露戦争で薄氷を踏む勝利を得たことも、太平洋戦争で悲惨な敗北を避けられなかったことも、どこか約束されていたように思える。
2024.01.24 08:59 | 固定リンク | 事件/事故
トランプ氏復活で世界はどう変わるのか
2024.01.24
24年11月に控える米国大統領選挙で、民主党のジョー・バイデン大統領と共和党のトランプ氏の“一騎打ち”が実現する公算が大きくなっているのだ。しかも、勝敗の鍵を握る激戦州のうち5州ではバイデン大統領よりもトランプ氏が支持率をリードしている世論調査もあり、両者の決戦を経てトランプ氏の返り咲きが現実的なシナリオとして認識されつつある。

トランプ氏復活の暁には、世界情勢が再び根底から揺るがされることは必至だ。

その最たるものが、ロシア・ウクライナ戦争だ。

ウクライナ支援、ガザ紛争、台湾情勢の行方は「もしトラ」で世界秩序は激変トランプ氏が2024年の米国大統領選に勝利した場合、世界情勢は再び混乱の中に陥る可能性が高いと言えます。 その理由は以下の通りです。

欧州の“支援疲れ”などが目立ち始めたロシア・ウクライナ戦争や台湾統一に向けた姿勢を崩さない中国など、国際情勢は緊迫の中にあるが、その趨勢のほとんどが2024年11月の米国大統領選の結果に左右される。共和党候補としての選出が濃厚なトランプ氏が大統領に返り咲けば、世界が再び混乱の渦に巻き込まれることは必至だ。

トランプ氏は米国第一主義の下に保護主義的な政策を推進し、同盟国や多国間機関との関係を損なう恐れがあります。

例えば、在日米軍や在韓米軍の駐留経費の負担増を要求したり、NATOやWHOなどから離脱したりする可能性があります。

トランプ氏は中国やロシアなどのライバル国との対立を激化させる可能性があります。 例えば、台湾やウクライナの問題に対して、支援や介入を控えたり、対話や交渉を拒否したりする可能性があります。

トランプ氏は気候変動やパンデミックなどのグローバルな課題に対して、協力的な姿勢を見せない可能性があります。 例えば、パリ協定やコペンハーゲン合意などの気候協定から離脱したり、ワクチンの供給や分配に消極的だったりする可能性があります。

以上のように、トランプ氏復活は世界の安全保障や経済や環境などに多大な影響を及ぼすと考えられます。 そのため、日本を含む世界の多くの国々は、トランプ氏の暴走を防ぐために、協調や対話を重視する必要があるでしょう。

■さらに世界は以下のような影響を受ける可能性があります。

自由貿易の崩壊:トランプ氏は自国優先主義の下に保護主義的な通商政策を推進するでしょう。 すでに離脱を表明した環太平洋パートナーシップ協定(TPP)や北米自由貿易協定(NAFTA)などの多国間の通商協定からの完全な撤退や再交渉を求める可能性が高いです。

また、中国や欧州連合(EU)などの主要な貿易相手国に対しても関税や制裁措置を強化するでしょう。 これらの措置は世界の貿易量や経済成長に悪影響を及ぼし、国際的な摩擦や紛争を引き起こす恐れがあります。

同盟国との関係の悪化:トランプ氏は同盟国に対しても過度な負担分担や防衛費の増額を要求するでしょう。 すでにNATO加盟国に対しては2%の防衛費目標の達成を迫っており、日本や韓国に対しても米軍駐留費の大幅な増額を求めています。

トランプ氏が再選されれば、これらの要求はさらに強化される可能性があります。 また、トランプ氏は米国の核の傘を維持することに消極的であり、日本や韓国に対しては自国で核兵器を保有することを容認する発言もしています。 これらの姿勢は同盟国の安全保障に不安を与え、米国の信頼性や影響力を低下させるでしょう。

地政学的な緊張の高まり:トランプ氏は外交政策においても予測不可能で短絡的な判断を下す可能性があります。 すでにイラン核合意からの離脱やイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官の暗殺などの一方的な行動で中東情勢を混乱させています。 トランプ氏が再選されれば、イランや北朝鮮などの核開発問題や、ロシアや中国などの覇権主義的な挑戦に対しても、適切な対話や協調ではなく、圧力や脅威で対処するでしょう。 これらの行動は世界の安全保障に重大なリスクをもたらし、紛争や戦争の危険性を高めるでしょう。

■対NATO関係: NATOとの関係はさらに悪化する可能性が高いです。トランプ氏はNATOを「時代遅れ」と批判し、加盟国に防衛費の増額を要求してきました。また、NATOからの脱退を一時検討していたとの報道もあります。トランプ氏は欧州の安全保障に対する米国のコミットメントを弱めることで、ロシアの影響力を増すことになると懸念されています。

■中国やロシアとの関係: 中国やロシアとの関係は緊張が続くと予想されます。トランプ氏は中国を新型コロナウイルスの責任者と非難し、貿易戦争やテクノロジー戦争を展開してきました。

また、香港や新疆ウイグル自治区での人権侵害に対しても制裁を加えてきました。ロシアに対しても、トランプ氏はウクライナやシリアでのロシアの干渉を批判し、北朝鮮やイランとの対話を妨害してきました。トランプ氏は中国やロシアとの対立をエスカレートさせることで、国内の支持を固めようとする可能性があります。


日本との関係: 日本との関係は表面的には良好に見えるかもしれませんが、実質的には不安定になる可能性があります。トランプ氏は安倍前首相と個人的に親密な関係を築いてきましたが、日本に対しては防衛費の負担増や貿易赤字の是正を求めてきました。

また、トランプ氏は北朝鮮やイランとの対話を進めることで、日本の安全保障上の利益を軽視することもありました。トランプ氏は日本との同盟関係を戦略的に活用するのではなく、取引的に利用する傾向があります。

■台湾支援関係: 台湾への支援は継続されると考えられます。トランプ氏は台湾との武器売却や外交関係の強化を推進してきました。

また、台湾の国際機関への参加を後押しする法案に署名しました。トランプ氏は台湾を中国に対抗するカードとして利用することがありますが、同時に台湾の安全保障に対する米国のコミットメントを明確にしないこともあります。

■ウクライナ支援関係: ウクライナへの支援は減少する可能性があります。トランプ氏はウクライナへの軍事支援を停止したことが弾劾裁判の原因となりましたが、その理由の一つは欧州がウクライナに対して十分な支援をしていないと感じていたからだと述べています。また、トランプ氏はロシアとの関係改善を目指しており、ウクライナ問題を解決するための政治的合意を模索する可能性があります。
2024.01.24 07:54 | 固定リンク | 国際

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