習近平排斥「李強首相旗幟鮮明に」
2024.08.21
中国共産党「北戴河会議」で”政治的暗闘”勃発か…李強首相が国務院全体会議でまさかの「習近平思想」排除の衝撃

ありえない!「習近平」が主語から抜け落ちる

8月16日、中国の李強首相は国務院全体会議を主宰した。そしてこの会議において、今までに様々な場面で「習近平離れ」の動きを見せてきた李首相は、それこそ旗幟鮮明に「習近平排斥」の姿勢を示したのである。

この国務院全体会議は、李強が首相に就任してから5回目の主催である。17日の人民日報の公式発表によると、会議には中央政府各部門の責任者が列席した以外に、各省・自治区の責任者もオンライン方式に参加したという。今まで5回の国務院全体会議のうち、各省・自治区の責任者が参加したのは今回が初めてのことだ。この会議が全国規模の大変重要なものであることを示唆している。

まず、人民日報掲載の会議発表は冒頭からこう述べる。「会議は党の三中総会の精神と中央政治局会議・政治局常務委員会議の精神を深く学び、党中央の精神を持って思想の統一・意思の統一・行動の統一を図るべきことを強調する」と。

ここで大いに注目すべきなのは、国務院会議としては、学ぶべきところの「精神」は党の一連の会議の精神であって、思想・意思・行動の「統一」の軸となる精神は「党中央の精神」であること。つまり、肝心の「習近平」と「習近平思想」が完全に抜けて「党」「党中央」が主語となっている。

現在の中国政治を熟知している人ならば、このような表現を目にしただけでビックリ仰天するのであろう。習近平ワンマン独裁政権下では普通、党と政府の「思想統一・意思統一・行動統一」の軸とされるのはまさに「習近平思想」であある。そして「党中央」のこととなると、「習近平総書記を核心とする党中央」は絶対不可欠な標準的な表現であって、習氏自身の発言以外に、「党中央」から冠としての「習近平総書記」を外すのはありえない話である。

しかし、李首相主宰の国務院会議はまさにこのような「あり得ない」ことをやってしまった。国務院の学ぶべき「精神」と「思想・意思・行動統一」の軸から「習近平」「習近平思想」を堂々と外して、あまりにも露骨な「習近平排斥」を行ったのである。

習近平ではなく「党中央の方策」に従う

その一方、発表されたところでは、李首相が会議での発言で一度だけ、習近平のことに触れたことがある。「改革の全面的深化に関する習近平総書記の一連の新思想・新観点・新論断を深く学習し理解し、改革の全面深化に関する党中央の方策を断固として実施していく」と。

「習近平」に関する李首相のこの発言は実に興味深いものである。彼は一応、習近平の「新思想・新観点・新論断」を「深く学習・理解すべき」と語っているが、しかしその直後に「党中央の方策の実施」を述べたのがミソである。

つまり彼はここで、習近平の「新思想・新観点・新論断」に関してはそれを「深く学習・理解すべき」と言ったものの、それの「貫徹」や「実施」については何も言わない。国務院として実施していくのは「党中央の方策」なのである。

要するに彼はここで、「習近平の思想・観点たるものは一度学んで理解したらそれで終わり。実際にやることは別である」と言わんばかり。そして自分が従うのは「党中央の方策」であって「習近平の思想」ではないことを公言しているのである。

「習近平からの離反」の決定的な転換

今回の李首相発言がどれほど「異常」なものなのか、彼自身がそれまでに主宰した国務院全体会議の「習近平」に関する表現と比べてみればよく分かる。

例えば2023年3月、李氏が首相になった第1回会議は習近平のことについてこう述べる。「新しい政府は習近平思想を指針とし、習近平総書記の重要講話を深く学び理解し、それを真剣に貫徹させ実施に移さなければならない」。

あるいは今年3月開催の李首相主宰4回目全体会議は、「習近平総書記の重要講話は、非常に強い思想性・指導性を持ち、われわれはそれを深く学び貫徹させなければならない」と。

つまり以前の国務院会議は、習近平の講話などに関し、国務院のそれに対する「実施」「貫徹」が強調されているが、今回の場合、「実施」も「貫徹」も抜けて事実上「棚上げ」されたのである。

以上は、人民日報発表の李首相主宰国務院会議の注文内容であるが、習近平の子分であるはずの李氏はこれで、「習近平からの離反」の決定的な一歩を踏み出したと言って良い。彼は今後、国務院総理として、党中央の一員として「党中央の精神と方策」に従って仕事していくとの姿勢を明確に示し、もはや習近平一個人の言いなりにならないと宣言したのである。

「北戴河会議」で暗闘

どうしてここに来て、李首相はそれほどの思い切った習近平離反をやってしまったのか。一つの推測としてはおそらく、この二週間に開かれたかもしれない恒例の「北戴河会議」に関係している可能性がある。

「北戴河会議」とは毎年の盛夏の8月に、党中央の指導?者と引退した長老たちが避暑地の北戴河にある党中央専用の「別荘団地」に集まって断続的に開く非公式会議のことだ。

今年の場合、政治局常務委員の蔡奇が8月3日に北戴河で科学者たちを慰問し、また、習近平・李強を含めた中央指導者たちが8月に入ってから姿を消していたことからすれば、いわゆる「北戴河会議」がこの二週間に実際に開かれた可能性は大。

そこで様々な政治的暗闘が行われたことの結果、習近平の力が後退して李首相がある程度の主導権を取り戻したのではないかと推測できるが、実際には何か起きたのかについては、今後の観察が必要である。

「習近平礼賛拒否」の内幕…そして解放軍でも不満顕在化

中国の李強首相が裏切った、とうとう忍耐の限界に達し、「切れて」しまったようだ。18日に閉幕した中国共産党第二十期中央委員会第三会全体会議(三中全会)後の重要会議で、本来、行うはずであったろう習近平国家主席の指導体制への礼賛に「背」を向けてしまったのである。

李強首相(=国務院総理)がそのトップを務める、中国の中央政府である国務院が開いた「三中全会の精神を学ぶ会議」でのことだ。

この会議は、国務院だけでなく、全人代常務委員会、政治協商会議、そして中央規律検査員会という中国の最高機関がそれぞれ並行して開催したもの。7月20日付けの中国共産党機関紙「人民日報」によると、それぞれの会議では、主催者である李強・国務院総理、趙楽際・全人代常務委員会委員長、王滬寧・政治協商会議主席、李希規律検査委員会書記の4氏が各々の会議で「重要講話」を行っている。

そのうち、趙楽際、王滬寧、李希はそれぞれ、各自の会議で、「2つの確立」、すなわち「習主席の指導的地位の確立と習近平思想の指導理念としての確立」に言及し、今では政治の場で欠かせない定番文句を使って習主席への忠誠心の表明を行っている。

中でも王滬寧に至っては、「2つの確立」について「“2つの確立”の決定的意義」を強調すると同時に、「今までの輝かしい業績は全て、習近平総書記の舵取りによるものであり、習近平思想の導いたものである」と、習主席に対する最大限の賛辞を捧げた。

しかし4人の中では唯一、国務院総理である李強は、他の3人とは鮮明の違いを出して見せた。講話の中でこの「2つの確立」に対する言及を全くおこなわなく、また習主席のことをことさらに賛美することもしなかったのである。

李強首相、長期のいじめに耐えかねたか

本来、この4人の中で、李強こそは首相という習主席に最も関係の深い側近であることから、誰よりも習主席に忠誠を尽くさなければならない立場にあるはずだ。

しかし李首相は、国務院会議という公の場での講話において、しかも人民日報によって公開される形で公然と「2つの確立」を無視した。中国の政治文化において、これはまさに重大な意味を持つ政治的行動であって、李首相による「公開造反」といっても過言ではない。

捉えようによっては、李首相はここで、自分はもはや習主席の側近でもなんでもなく、「習近平の指導地位も習近平思想もクソッタレだ!」と宣言したようなものである。

昨年3月の全人代で国務院総理になって以来、習主席がさまざまな重要な場面で李首相外し、李首相排除を行ってきたことは1月25日に公開した「習近平側近集団で大権力闘争の予兆~早くも李強首相はしご外し、代わりに台頭の蔡奇ら福建組が金融危機対策の指揮権握った」で指摘した通りのことである。

どうやらここに来て、李首相がとうとう忍耐の限界に達して切れてしまったのだろうか。

露骨な李強外し

そして同時に、極めつけの李強首相外し中身が、明らかになった。

この会議の内容が報じられたその2日後の7月22日、人民日報は一面で、今度は三中全会で採択された「さらなる改革深化に関する中共中央の決定」の制作過程に対する習近平主席の説明報告の全文を掲載した。

その中で習主席は、昨年11月の中央政治局会議が「決定」の草案づくりと制作を決定し、自分が「組長」とする制作組(制作チーム)もその時に設置されたと説明した。そして習主席によると、この「制作組」では、自分が「組長」を務める以外に、政治局常務委員の王滬寧・蔡奇・丁薛祥の3名が「副組長」を務めていたという。

つまりここでも、国務院総理の李強氏が排除されているわけである。

しかし本来、2029年までの改革や経済政策の策定に関わるこの「決定」の制定には、国務院総理こそが一番関わるべき人物である。李首相はそこから外されるようなことは本来ならありえない。それでもあえて李首相を「制作組」から排除したことは、要するに習近平主席としてはもはや、政権の最高意思決定には李首相を関わらせないと腹を決めたことを意味する。

しかも、2029年までの政権の方向性に関する政策決定から李首相を排除したことは、要するに今後の5年においても「李首相は要らない」ということになるのだ。これでは、首相の任期が後3年半もあるはずの李首相は今の時点ではすでに事実上の「死刑判決」を受けて完全に「死に体」となっているのである。

こうした事態が起きている中で、今まで散々虐められていても習主席に従順だった李首相がつい切れた模様なのである。問題は、李首相は半ば「公開」で習主席への造反を表したことで、さらに習主席自身が例の「制作組」から李首相を排除したことを自ら公表したことで、2人の対立はすでに公然のものとなり、改善が考えられないものとなったことである。

もちろん、流石の習主席でも相手が首相となるとその首まではそう簡単に切ることはできない。以前、習主席は秦剛外相や李国防相の首を切ったがそれと同じわけにはいかない。李首相は死に体のままで首相職をしばらく続ける可能性もある。しかし2人の対立と相互不信は今後も続く中で、中国の中央政治はますます機能不全に陥って混迷を深めることとなろう。

解放軍も忍耐の限界が近づいていた

こうした中で7月27日、解放軍機関紙の「解放軍報」はその二面の「強軍論壇」において、「党内政治生活の低俗化は戒めるべき」との論評を掲載した。

そしてその中では次のような意味深長の言葉が散りばめられていた。

「いま、個別なところでは党内政治生活が正常さを失い、個人は党組織の上に凌駕し、家長制的なやり方で、鶴の一声で物事を決めるようなことが起きている」。

この文章は、「軍」の話としてではなく、「党」を指して「党内政治生活」の不正常さを問題にしているが、そこに指摘した「個人は党組織の上に凌駕し、家長制的なやり方で、鶴の一声で全てを決める」それは当然、習主席を指している。そして今の中国政治の文脈の中では、これを読んだ大半の人はおそらく、心の中では「習主席じゃないのか罵倒しろ」と誰しもが思う。
2024.08.21 11:38 | 固定リンク | 国際

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