小澤征爾さんの残したもの
2024.02.09
小澤征爾さんは、世界的な指揮者として多くの名演奏を残しました。ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督を日本人で初めて務めたほか、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉団員にも選ばれました。

小澤さんは、音楽を通して人と人の心をつなげることができるという信念を持ち、国内外で多くの音楽教育活動にも取り組みました3。小澤さんは、日本の文化勲章やアメリカのハーバード大学名誉博士号など、数々の栄誉を受けました。小澤さんは、音楽界に偉大な芸術的遺産を残しました。ご冥福をお祈りします。

またこの名誉博士号称号は、ハーバード大学が「人類の知的・文化的・社会的発展に顕著な貢献をした人物」に贈るもので、小澤さんは音楽家として初めて受賞しました。

小澤さんは、ハーバード大学の卒業式に出席し、学生たちに「音楽は人間の心を豊かにし、平和と調和をもたらす力がある」というメッセージを伝えました。

小澤さんは、ハーバード大学との関係を深め、2002年には同大学の教授に就任し、音楽教育にも尽力しました。小澤さんは、ハーバード大学からの名誉博士号を「私の人生の中で最も大切なものの一つ」と語っていました。

■指揮者の小澤征爾さん死去、88歳 戦後日本のクラシック界を牽引

 世界の楽壇の第一線に立ち続け、戦後日本のクラシック音楽界を牽引(けんいん)した指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全で死去した。88歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を検討しているという。

 事務所によりますと、小澤征爾さんは6日、心不全のため都内の自宅で亡くなりました。葬儀は近親者ですでに執り行われたということです。

 小澤さんは2010年に食道がんが見つかり、国内外の公演をすべてキャンセルして治療に専念し、7カ月後に公演に復帰しました。

 小澤征爾さんは、1935年、中国・瀋陽(旧奉天)生まれ。ピアノに才能を示したが、ラグビーで指を痛めたため指揮に転向。高校時代に作曲家の山本直純、名チェリストでもあった斎藤秀雄のもとで指揮の勉強を始める。桐朋学園短大を経て渡欧し、59年に仏ブザンソン国際指揮者コンクールで日本人初の優勝を果たした。

 カラヤンに弟子入りし、61年にはバーンスタインにも才能を認められ、ニューヨーク・フィルの副指揮者に。ウィーン・フィルやベルリン・フィルなど世界の名門楽団と共演を重ねた。武満徹が和楽器とオーケストラの融合に挑んだ「ノヴェンバー・ステップス」の67年のニューヨーク初演は世界的な話題となった。

 カナダのトロント交響楽団を経て70年、米タングルウッド音楽祭の芸術監督とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に。73年から29年間、ボストン交響楽団の音楽監督を務めた。2002~10年にはオペラの最高峰、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。02年には日本人指揮者で初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに登壇した。

■「戦争に出口はある…」若きマエストロが語る いま“音楽”にできること

 アメリカのボストン交響楽団を率いる世界的な指揮者が、5年ぶりに来日し、小澤征爾さんと一緒に観客の前に姿を見せました。この困難な時代、2人にはクラシック音楽を通して伝えたいことがありました。

 その瞬間は、音楽ファンにとって感動的だったと言います。長野県松本市で開かれた音楽祭。世界的指揮者のアンドリス・ネルソンスさんが国内外の一流奏者が集まるサイトウ・キネン・オーケストラをはじめて指揮し、そのカーテンコールにオーケストラの生みの親である小澤征爾さんが登場したのです。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「セイジは日本人にとってだけではなく、世界中のすべての音楽家にとっての伝説なのです。セイジは本気で応援してくれる人です。素晴らしい指揮者であると同時に、クラシック音楽の未来について考えてくれています」

 小澤さんこそ、ネルソンスさんに大きなきっかけをもたらした人物でした。がんが見つかった小澤さんは、2010年に活動を一時休止。当時、30代の若手指揮者だったネルソンスさんが代役としてウィーン・フィルを指揮し、注目されました。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「(20世紀の偉大な指揮者の)カラヤンやバーンスタインからセイジは支援を得たと思うのです。だから同じように若い指揮者を支援してくれるのだと思います」

 2014年、ネルソンスさんは小澤さんが育て、愛したボストン交響楽団の音楽監督に就任。そのボストン交響楽団は2022年11月、新型コロナの流行を挟み、5年ぶりに来日ツアーを行いました。ネルソンスさんは日本での公演は特別だと話します。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「こんなことが起きるのは日本だけです。聴衆が指揮者らを大きな拍手で出迎えたあと、次の瞬間、一瞬で静まり返るのです。ここではすべてが音楽に捧げられています。大切なことは、私たちは音楽をともにつくり、愛する日本のお客様と音楽を共有するためにここにいるということです。この場所に戻ることができて本当に感激しています」

 東京・サントリーホールでの公演では19世紀末から、20世紀初頭にかけて活躍した作曲家マーラーの「交響曲第6番」を演奏。5年ぶりとなる公演に観客席から大きな拍手が起こりました。

 観客:「一音目が鳴った瞬間にこんなにすごい音が鳴るんだという感覚を得たのが本当に久しぶりだった」「同じ空気を伝って、あらゆるものを感じられるので生きていてよかったとか」

 ネルソンスさんは1978年、当時ソ連の一部だったラトビアで生まれました。音楽家の両親とともに5歳のときに観たオペラ「タンホイザー」が後の人生に大きな影響を与えたと語ります。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「照明が暗くなり、指揮者がやってきて…。その時、あの素敵な指揮者と同じことをしてみたいと無意識のうちに思ったのです」

 トランペット奏者として音楽の“壮大な旅”を歩み始めたネルソンスさんは、指揮者に転向。若くして頭角を現し、小澤さんとの出会いなどもあり、今や世界中を飛び回る多忙な日々を送ります。

 新型コロナという厳しい時代を経て、生演奏のコンサートに代わるものはないと強調するネルソンスさん。公演前に日本の中高生を招いて、ロシアの音楽家ショスタコービッチが作曲した「交響曲第5番」のリハーサルを披露しました。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「若い世代は音楽を感じたい、必要だと思っていてオーケストラが奏でる音に興味を持っていると思います」「音楽は音の世界です。音楽が作り出す音の雰囲気や柔らかさ、かよわさ、怒りなどを感じてほしいのです」「(ショスタコービッチが作曲したのは)恐ろしい権力に対するある種の抵抗だったのでしょう。いつか状況は良くなるだろうという気持ちがあったのだろうと思います」

 中高生との交流の後のインタビューでネルソンスさんは、ショスタコービッチが「交響曲第5番」を作曲したのは、ソ連の指導者スターリンによる圧政が行われていた時代だったと教えてくれました。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「大切なのは心の中にあるものや雰囲気を音楽を通してどう表現したいかです。特に今のようなロシアとウクライナの間で人が殺される世界ではなおさらです。ショスタコービッチが作曲した時代に近づいていて、以前よりもっと恐ろしいことになっています」

 短いインタビューのはずがネルソンスさんは予定時間を大幅に超え音楽への思いを語ってくれました。

 東京・サントリーホールでの公演後、ネルソンスさんは大きな拍手を送る聴衆に向かってメッセージを送りました。クラシックのコンサートでは、指揮者が聴衆に語りかけるのは異例のことです。

 ボストン交響楽団音楽監督、アンドリス・ネルソンスさん:「お客様同士、また観客とオーケストラとのつながりは素晴らしいもので、それはこの戦争やパンデミックなどのひどい状況に出口があることの証明です。誠実さや善意を持てば世界には可能性があると思うのです。私たちは世界が良くなるよう感化できます。音楽はその一つの手段だと思っています」

■25歳で見せた歴史的瞬間、西洋に起こした革命 小澤征爾さんを悼む

 「小澤の目力」という言葉を、楽員たちからよく聞く。目が合った瞬間、無意識に音が出てしまう。なのに、なぜか他の奏者たちとぴったりそろってしまうのだと。

 制するのではなく、技術と気の独創的な融合により、壁を壁とせず、東洋人にクラシックはできないという偏見に挑戦状を突きつけてきた。規格外の才能を花開かせたのは、やりたいことを絶対にやり抜く意志力、桁外れの行動力、そして愛すべき無鉄砲さだった。

 1950年代末、1台のスクーターと貨物船に乗り、63日かけて欧州へ。日の丸付きのヘルメットをかぶり、ギターを背負って国から国へ。

 パリに漂着し、腕試しにと受けたブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。ほかのコンクールもどんどん勝ち抜き、カラヤンに弟子入りし、名門ニューヨーク・フィルの副指揮者に大抜擢(ばってき)。躍進ぶりも規格外だった。

 「ねえ先生。僕、バーンスタイン先生に教えてもらいにアメリカに行ってもいいかな」

 そう、帝王と呼ばれたカラヤンにも屈託なく尋ねた。周囲からライバル扱いされていた2人だが、小澤さんにとっては最高の音楽を奏でる「同志」でしかなかった。物おじしない奔放な振る舞いを保守的な日本の楽壇がもてあまし、対立したNHK交響楽団に公演をボイコットされる事件も起きた。

■3年ぶりにタクトを握った小澤征爾さん、宇宙に向けて演奏した

 指揮者の小澤征爾さんが23日に長野県松本市のキッセイ文化ホールで、総監督を務めるサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を指揮した。同オーケストラ財団が24日、発表した。指揮自体は約3年ぶりという。演奏会はSKOと宇宙航空研究開発機構(JAXA)が共同で企画。無観客での演奏だったが、宇宙飛行士、若田光一さんが滞在する国際宇宙ステーションに向けて生中継されたという。

 小澤さんは「ぼくらの演奏を宇宙へ届けられるなんて……驚きます。いまは宇宙にいる若田さんと、また会えることもとても楽しみです……宇宙で、音楽はどんなふうに聴こえるのだろう。地球ではコロナの感染症や戦争で、たくさんの大人たち、子どもたちが苦しみ、悲しんでいます。音楽は、言葉も国も宗教も政治も超えて、人と人のこころをつなげることができる――音楽を通して、僕らは同じ星に住む、同じ人間であることを感じて、みんなでひとつになれることを願っています」とコメントした。

 若田さんも「今回のJAXAとサイトウ・キネン・オーケストラとの共同企画は『科学技術と音楽はあらゆる垣根を超え人類に幸せをもたらす』を体現し、世界を一つにまとめてくれる力がある、と感じています。困難なことが多い時代に生きる我々に、今回の企画は勇気と希望を与えてくれると信じています」などとコメントを発表した。

 当日は、コロナ禍やウクライナ侵攻などの困難が続く中でも地球に住む者同士で協力し合おう、との意味を込め、ベートーベンの「エグモント序曲」が演奏されたという。

■「人間がみんなやることをやって、はじめて音楽家になれるんです」 小澤征爾さん30年前のインタビュー
 世界の楽壇の第一線に立ち続け、戦後日本のクラシック音楽界を牽引(けんいん)した指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全で死去しました。88歳でした。

 1994年に朝日新聞夕刊に4回にわたって掲載された小澤さんのインタビュー記事を配信します。

 日本より海外での知名度が高い「サイトウ・キネン・オーケストラ」。その欧州演奏旅行に同行した。アテネ、ケルン、ザルツブルク。聴衆の熱狂は、すごいものだった。そして長野県松本市でのフェスティバル。

 三十五年前、貨物船にスクーターを積み、身一つで日本を飛び出した二十三歳の小澤青年は、今年五十九歳になった。

 ボストン交響楽団の音楽監督を二十一年。「おれはいま、寝ても覚めてもサイトウ・キネンだよ」という。そして「出来れば、日本に帰りたい」とも。

※小澤征爾(オザワ セイジ) 指揮者。

1935年生まれ、中国出身。

1959年、『ブザンソン指揮者コンクール』で1位を獲得。

73年、ボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任。02年~10年までウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。

92年、国際的音楽祭『サイトウ・キネン・フェスティバル松本』の総監督に就任。『米国ハーバード大学名誉博士号』

(00)、『フランス・ソルボンヌ大学名誉博士号』(04)、『フランス・レジオン・ドヌール勲章オフィシエ』

(08)、『日本国文化勲章』

(08)、『松宮殿下記念世界文化賞』

(11)、ケネディ・センター名誉賞

(15)など数々の賞を受賞。

16年、小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ『ラヴェル:歌劇“子どもと魔法”』が、『第58回グラミー賞』最優秀オペラ録音賞を獲得。

※セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督

1935年、中国のシャンヤン(旧奉天)生まれ。幼いころからピアノを学び、成城学園中学校を経て、桐朋学園で齋藤秀雄に指揮を学んだ。

1959年、ブザンソン指揮者コンクールで第1位を獲得。当時ボストン響の音楽監督であり、このコンクールの審査員であったシャルル・ミュンシュに翌夏タングルウッド音楽祭に招かれた。その後、カラヤン、バーンスタインに師事、ニューヨーク・フィル副指揮者、シカゴ響ラヴィニア・フェスティバル音楽監督、トロント響音楽監督、サンフランシスコ響音楽監督を経て1973年にボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任、アメリカのオーケストラ史上でも異例の29年という長期にわたって務めた。

ボストン交響楽団の音楽監督としてオーケストラの評価を国際的にも高め、1976年のヨーロッパ公演および1978年3月の日本公演で多大の成果を挙げる。

1981年3月には、楽団創立100周年を記念して、アメリカ14都市演奏旅行を果たし、同年秋には、日本、フランス、ドイツ、オーストリア、イギリスを回る世界公演を実施。

その後も1984年、1988年、1991年にヨーロッパ公演と198年、1989年、1994年、1999年には日本公演を行い、いずれも絶賛 を博す。

1978年には、中国政府の公式招待により、中国中央楽団と1週間にわたって活動したのをはじめ、1年後の1979年3月にはアメリカのオーケストラとしては初めてボストン響を率いて再度訪中し、意義深い音楽・文化交流を果たした。

それ以来、中国とは深い関係を築いている。他にも、1973年6月にはサンフランシスコ響を率いて、モスクワ(ソビエト連邦・当時)を訪れ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチと共演している。

2002年秋には、東洋人初のウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任、2010年春まで務めた。

欧米での評価と人気は絶大なものがあり、これまでにベルリン・フィル、ウィーン・フィルをはじめとする多くのオーケストラ、ウィーン国立歌劇場、パリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、フィレンツェ歌劇場、メトロポリタン・オペラなど主要オペラハウスに出演している。

日本においては、恩師・齋藤秀雄を偲び、没後10年の1984年に、秋山和慶らの仲間に声を掛け、メモリアル・コンサートを東京と大阪で開催。それを母体としてサイトウ・キネン・オーケストラへと発展させ、1987年、1989年、1990年にはヨーロッパ公演を、1991年にはヨーロッパ、アメリカ公演を行い絶賛を博した。

1992年からは、芸術的念願であった国際的音楽祭“サイトウ・キネン・フェスティバル松本”へと発展させ、総監督に就任(~継続中)。その後もサイトウ・キネン・オーケストラは、1994年、1997年、2001年、2004年、2010年、2011年に海外ツアーを実施。フェスティバルは、2015年より、“セイジ・オザワ 松本フェスティバル”として新たなステージに踏み出した。

また、1996年にサイトウ・キネンの室内楽勉強会から始まった室内楽アカデミー奥志賀を、アジア圏の優秀な学生に門戸をひろげる小澤国際室内楽アカデミー奥志賀として2011年にNPO法人化。一方で、実践を通して若い音楽家を育成するための“小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト”(2000年~)、および“小澤征爾音楽塾オーケストラ・プロジェクト”(2009年~)を公益財団法人ローム ミュージック ファンデーションの支援を受けて精力的に展開。

2005年にはヨーロッパにおける音楽学生を対象にしたSeiji Ozawa International Academy Switzerlandをスイスに設立し、教育活動に力を注いでいる。その他、水戸室内管弦楽団とは1990年の創立時より親密な関係にあり、2013年からは同楽団の総監督を務めると共に水戸芸術館 館長も務めている。さらに、新日本フィルハーモニー交響楽団とは創立に携わり、長期にわたり活動を続けた。

これまでに国内外で受賞した賞には、朝日賞(1985)、米国ハーバード大学名誉博士号(2000)、オーストリア勲一等 十字勲章(2002)、毎日芸術賞(2003)、サントリー音楽賞(2003)、フランス・ソルボンヌ大学名誉博士号(2004)、ウィーン国立歌劇場名誉会員(2007)、フランス・レジオン・ドヌール勲章オフィシエ(2008)、フランス芸術アカデミー外国人会員(2008)、日本国文化勲章(2008)、イタリア・プレミオ・ガリレ2000財団・金百合賞(2008)、ウィーン・フィルより日本人として初めて「名誉団員」の称号(2010)、高松宮殿下記念世界文化賞(2011)、渡邉暁雄音楽基金特別賞(2011)、ケネディ・センター名誉賞(2015)などがある。2016年、サイトウ・キネン・フェスティバル松本 2013で録音された小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラによるラヴェル:歌劇「こどもと魔法」のアルバムが、第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞。

同年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、東京都名誉都民の称号を贈られる。2022年3月、日本芸術院会員に選ばれた。
2024.02.09 20:37 | 固定リンク | 文化
我が闘争「プーチン&習近平」
2024.02.06
「歴史は繰り返す」と言いますが、プーチン大統領と習近平国家主席の共通点はどこにあるのか

プーチン大統領と習近平国家主席は、現代の世界で最も影響力のある指導者のひとりと言えるでしょう。彼らの共通点をレポートするとしたら、以下のような点が挙げられると思います。

権威主義的な政治体制(専制主義者)

プーチン大統領と習近平国家主席は、ともに権威主義的な政治体制を率いています。プーチン大統領は、2000年に大統領に就任して以来、反対派やメディアを弾圧し、憲法改正で任期を延長するなど、自らの権力を強化してきました。習近平国家主席は、2012年に中国共産党の総書記に就任して以来、反腐敗運動を名目に政敵を排除し、党内の絶対的な権力者となりました。2018年には、国家主席の任期制限を撤廃する憲法改正を実施し、終身制を可能にしました。

国際社会との対立

プーチン大統領と習近平国家主席は、ともに国際社会との対立を深めています。プーチン大統領は、2014年にウクライナのクリミア半島を併合し、2023年にはウクライナ本土への軍事侵攻を行いました 。これらの行動は、欧米諸国やNATOからの制裁や非難を招きました 。習近平国家主席は、2013年に「一帯一路」構想を提唱し、アジアやアフリカなどの国々に対して経済的な影響力を拡大しようとしました 。また、南シナ海や台湾海峡などでの領有権主張や軍事的な挑発を繰り返しました 。これらの行動は、米国や日本などの同盟国からの警戒や批判を招きました。

国内の経済・社会問題

プーチン大統領と習近平国家主席は、ともに国内の経済・社会問題に直面しています。プーチン大統領は、国際的な制裁や原油価格の低迷などの影響で、経済成長が低迷し、貧困や格差が拡大しています 。また、コロナウイルスの感染拡大やワクチン接種の遅れなどで、国民の不満や不信が高まっています 。習近平国家主席は、米中貿易戦争やコロナウイルスの影響で、経済の減速や失業の増加などの課題に直面しています 。また、香港や新疆ウイグル自治区などでの人権弾圧や民主化運動の弾圧などで、国内外からの批判や抵抗が強まっています。

以上のように、プーチン大統領と習近平国家主席は、権威主義的な政治体制、国際社会との対立、国内の経済・社会問題という共通点を持っています。しかし、これらの共通点は、彼らの政治的な安定や国際的な地位を高めるというよりも、むしろ危機や挑戦を増やすという結果になっていると言えるでしょう。歴史は繰り返すと言われますが、プーチン大統領と習近平国家主席は、歴史から学ぶことができるのでしょうか。🤔

■専制主義を強化し、歴史から学ばない

プーチン大統領と習近平国家主席の二人は、専制主義を貫く手段を歴史の教訓に学び、失敗を繰り返さないための実践を行っているという見方もできますが、逆に専制主義を強化し、歴史から学ばないという見方もできます。以下に、両方の見方を示します。

専制主義を貫く手段を歴史の教訓に学び、失敗を繰り返さないための実践を行っているという見方。

プーチン大統領は、ソ連の崩壊や冷戦の敗北を歴史の教訓として捉え、ロシアの国益と国威を回復するために、専制主義を貫く手段を選択しています。彼は、国内では反対派やメディアを弾圧し、国民の支持を得るために、ナショナリズムや宗教を利用しています。

国外では、ウクライナやシリアなどでの軍事介入や、サイバー攻撃や情報操作などでの対米対抗を展開しています。彼は、これらの手段によって、ロシアの国際的な影響力を高め、米国や欧州との対等な関係を築こうとしています。

習近平国家主席は、中国の百年の屈辱や文化大革命などの歴史の教訓として捉え、中国の国益と国威を回復するために、専制主義を貫く手段を選択しています。

彼は、国内では反対派や少数民族を弾圧し、国民の支持を得るために、ナショナリズムや社会主義を利用しています。国外では、「一帯一路」構想や南シナ海や台湾などでの領有権主張や軍事的な挑発などでの対米対抗を展開しています。

彼は、これらの手段によって、中国の国際的な影響力を高め、米国や欧州との対等な関係を築こうとしています。

専制主義を強化し、歴史から学ばないという見方もある。

プーチン大統領は、ソ連の崩壊や冷戦の敗北を歴史の教訓として捉えず、ロシアの国益と国威を回復するために、専制主義を強化しています。彼は、国内では反対派やメディアを弾圧し、国民の支持を得るために、ナショナリズムや宗教を利用していますが、これは、国民の自由や権利を侵害し、政治の不安定化や社会の分断を招いています。

国外では、ウクライナやシリアなどでの軍事介入や、サイバー攻撃や情報操作などでの対米対抗を展開していますが、これは、国際社会との対立や制裁を招き、ロシアの孤立化や経済の低迷を招いています。

習近平国家主席は、中国の百年の屈辱や文化大革命などの歴史の教訓として捉えず、中国の国益と国威を回復するために、専制主義を強化しています。彼は、国内では反対派や少数民族を弾圧し、国民の支持を得るために、ナショナリズムや社会主義を利用していますが、これは、国民の自由や権利を侵害し、政治の不安定化や社会の分断を招いています。

国外では、「一帯一路」構想や南シナ海や台湾などでの領有権主張や軍事的な挑発などでの対米対抗を展開していますが、これは、国際社会との対立や制裁を招き、中国の孤立化や経済の減速を招いています。

プーチン大統領と習近平国家主席の二人は、専制主義を強化し、理想とする目的にへまっしぐらに付いているという見方もできますが、逆に専制主義による弊害や障害に直面しているという見方もできます。以下に、両方の見方を示します。

専制主義を強化し、理想とする目的にへまっしぐらに付いているという見方:

プーチン大統領は、ロシアの国益と国威を回復するために、専制主義を強化しています。彼は、国内では反対派やメディアを弾圧し、国民の支持を得るために、ナショナリズムや宗教を利用しています。国外では、ウクライナやシリアなどでの軍事介入や、サイバー攻撃や情報操作などでの対米対抗を展開しています。

彼は、これらの手段によって、ロシアの国際的な影響力を高め、米国や欧州との対等な関係を築こうとしています。

彼の理想とする目的は、「偉大なるロシア帝国の復活と東欧への勢力拡大」1であり、そのためには専制主義が必要だと考えています。

習近平国家主席は、中国の国益と国威を回復するために、専制主義を強化しています。彼は、国内では反対派や少数民族を弾圧し、国民の支持を得るために、ナショナリズムや社会主義を利用しています。

国外では、「一帯一路」構想や南シナ海や台湾などでの領有権主張や軍事的な挑発などでの対米対抗を展開しています。彼は、これらの手段によって、中国の国際的な影響力を高め、米国や欧州との対等な関係を築こうとしています。

彼の理想とする目的は、「中国の百年の屈辱の克服と世界のリーダーとなる」ことであり、そのためには専制主義が必要だと考えています。

専制主義による弊害や障害に直面しているという見方:

プーチン大統領は、専制主義によって、国内外の多くの問題に直面しています。国内では、反対派やメディアの弾圧により、国民の自由や権利が侵害され、政治の不安定化や社会の分断が招かれています。また、コロナウイルスの感染拡大やワクチン接種の遅れなどで、国民の不満や不信が高まっています。

国外では、ウクライナやシリアなどでの軍事介入や、サイバー攻撃や情報操作などでの対米対抗により、国際社会との対立や制裁が招かれ、ロシアの孤立化や経済の低迷が招かれています。

彼の理想とする目的は、「偉大なるロシア帝国の復活と東欧への勢力拡大」1ですが、そのためには専制主義ではなく、民主主義や協調主義が必要だと言えます。

習近平国家主席は、専制主義によって、国内外の多くの問題に直面しています。

国内では、反対派や少数民族の弾圧により、国民の自由や権利が侵害され、政治の不安定化や社会の分断が招かれています。また、米中貿易戦争やコロナウイルスの影響で、経済の減速や失業の増加などの課題に直面しています。

国外では、「一帯一路」構想や南シナ海や台湾などでの領有権主張や軍事的な挑発により、国際社会との対立や制裁が招かれ、中国の孤立化や経済の減速が招かれています。

彼の理想とする目的は、「中国の百年の屈辱の克服と世界のリーダーとなる」ことですが、そのためには専制主義ではなく、民主主義や協調主義が必要だと言えます。

2024.02.06 21:26 | 固定リンク | 戦争
日本に上陸・小粉紅(紅衛兵)
2024.02.04
2022年11月末に中国各地でゼロコロナ政策に異議を唱えた「白紙運動」

日本へ中国の知識人が大勢押し寄せているというのは、中国で言論統制が厳しくなっているために、自由な発言や研究ができないと感じる人々が日本に拠点を移しているという現象です。

日本に移住した中国の知識人には、歴史学者や経済学者の秦暉(しん・き)氏、近代史に精通した作家の傅国涌(ふ・こくよう)氏、人権派弁護士やジャーナリスト、ドキュメンタリー映画の監督、出版業者、学者、芸術家などがいます。

彼らは日本で中国の歴史や現状を分析した著作や講演を行ったり、日本の学術機関やメディアと交流したりしています。

彼らの活動は、日本と中国の文化や思想の交流に貢献しているとともに、中国の政治や社会の問題に対する批判的な視点を提供しています。

しかし、彼らは中国からの圧力や脅迫にさらされる危険もあります。

日本は、彼らの安全や自由を保障するとともに、彼らの知見や経験を活用して、日中関係の改善やアジアの平和と発展に貢献することができるでしょう。

■亡命者たち

日本に中国から多くの知識人が押し寄せている。中国で言論統制が厳しさを増しているためだ。属性はジャーナリスト、人権派弁護士、ドキュメンタリー映画の監督、出版業者、学者、芸術家と多岐にわたる。あたかも清朝末期に日本で西洋思想を吸収した後に帰国し、辛亥革命(1911年)をリードした先人たちのようだ。

そうした知識人の例として真っ先に挙げられるのが、歴史学者で経済学者の秦暉(しん・き)氏だ。

リベラル派の大物で、2015年には、清朝帝政の呪縛から解き放たれた中国で立憲民主主義が定着しなかった経緯を検証した著書、『走出帝政 (「帝政を抜け出す」)』(邦訳未刊)が発売停止に追い込まれた。現在は東京大学客員教授を務める。

秦氏は都内の大学などで2023年から「全球化和亜州(グローバリゼーションとアジア)」と題する連続講座を実施中で、毎回超満員となっている。

■東大「阿古智子教授」

自宅の一部を開放し、中国の知識人を受け入れてきた東京大学大学院の阿古智子教授


「東京で中国を再建する」

近代史に精通した作家の傅国涌(ふ・こくよう)氏も日本に身を寄せる知識人だ。彼が2011年10月10日に『中国経営報』に発表した「1911年、清朝滅亡前夜」という記事が中国で注目された。書き出しはこのように暗示的だった。

「1911年、北京を支配していた人々は、自分たちの時代がもうすぐ終わるとは一人も考えていませんでした。(中略)上から下まで全員です。彼らの日記には食事や贈り物の記録がつづられており、はたからは本当に繁栄している『盛世』のように見えました」

傅氏も都内で「在東京重造中国(東京で中国を再建する)」というテーマで、清朝末期に日本にやってきた中国人思想家についての連続講座を開いている。

2010年ごろから中国の知識人の受け入れを積極的に行ってきた東京大学大学院総合文化研究科の阿古智子教授(現代中国研究)も、日本に拠点を移す中国知識人の増加を感じている。

阿古教授は2022年に、東京・中野にある自宅の一部を「亜州コモンズ」と名づけて開放し、宿泊者を受け入れている。かつて政治犯や思想犯が収容された旧中野刑務所(豊多摩監獄)の表門(通称「平和の門」)と中国陝西省の横穴式住居「窰洞(ヤオトン)」をイメージして作られたガラス張りの玄関がトレードマークだ。

ここには言論活動への統制が強まる中国や香港からのゲストが宿泊してきた。政治的事情で弁護士資格を奪われた女性弁護士、ゲイのジャーナリスト、#MeToo運動を牽引してきた女性とそのパートナーなどだ。

■中国国内の政治対立が日本を巻き込み始めた

現在の香港では政治的な講演会などを開催することが難しくなっている。かつては香港中文大学が中華圏のホットトピックについて忌憚なく議論できる場だった。「東大をそういう場として提供することで、中華圏の言論活動を活発にし、議論を深めていきたい」と阿古教授は語る。

筆者が2023年11月に東大で参加したフェミニズムをテーマとするワークショップでは、30人ほどの中国人学生らがゲストである在米中国人フェミニストの言葉に熱心に耳を傾けていた。

また、同年6月に東大でポッドキャスト番組「不明白播客」のファンミーティングの司会を筆者が担当した時にも、大講義室が満員になるほどの盛況ぶりだった。ニューヨークタイムズ・コラムニストの袁莉氏がホストをつとめ、中華圏で大人気となっている番組だ。

ここ数カ月だけで、筆者は都内で、前出の連続講座以外にも、ビル・ゲイツ財団に勤めたこともある著名教育家の李一諾氏のイベント、香港バプティスト大学ジャーナリズム学院で教鞭を執る、著名ジャーナリストの閭丘露薇(りょきゅう・ろび)氏らのイベントに参加した。

これらのイベントの参加者はほぼ100%が在日華人だった。まるで、5年以上前の香港、そして10年以上前の北京の言論空間が今の東京に再現されたかのようだ。


都内の「単向街書店」で8月に開かれたイベント。左は中国出身の著名ジャーナリスト閭丘露薇氏、現在は香港バプティスト大学ジャーナリズム学院で教鞭を執る

日本における知識人の大集合には、仕掛けられた側面もある。

国際交流基金や外務省のプロジェクトとして、日本とパイプがある人物を日本へ招聘する動きが2000年代後半に本格化した。

その後、この取り組みは中国で影響力のある知識人を呼ぶ方向へさらに進化した。いま中国から拠点を日本に移している著名な知識人には、そうした招聘で日本に足を運んだことがある人が多い。

■大物外交官によるバックアップ

こうした知識人と強固なネットワークを形成したのが、先ごろ駐中国大使を離任した垂秀夫(たるみ・ひでお)氏だ。垂氏はメディアで「チャイナスクールでありながら中国に毅然とした態度で臨んできた」と評されることが多いが、同時に中国で人権派を含めた幅広い人脈を築いてきた。

実はそれこそが「垂さんの外交官として最大の功績」(外務省関係者)という評価すらある。

退官したばかりの垂氏は、筆者の取材に対して、日本側が「結果的に共産党を支援する形となった天安門事件以降、民主化志向の強い知識人は日本に対する関心を失っていたが、一連の訪日で民主主義と法の支配が定着した日本を再発見した。また東日本大震災発生時期に訪日し、日本人の秩序ある行動に深く感動した者もいた」と話す。

そうした中国の知識人の中には、日本の選挙期間中に訪日し、民主主義の実情に触れる機会に遭遇し感銘を受けた者もいたという。街頭演説する安倍晋三首相(当時)と握手できたなどと、とても喜んでいる様子だったそうだ。中国国内では、庶民が最高指導部と直接触れ合う機会はほとんどないからである。

垂氏は、「中国人の日本渡来ブームは、清朝末期と改革開放後についで今回が3回目。今回は中国に対する国民感情が悪い、そして来日する中国人には富裕層が含まれているという特徴がある。何十年後かに振り返って、『あの時、3つ目の波を日本社会はきちんと受け入れられていたか』という検証に耐えられるような対応を考えなければならない」と話す。

そこから見えてくるのは、富裕層が知識人を支えて、新たな政治的勢力を育てる可能性だ。垂氏は「日本に逃げてくる中国人を中国共産党の一味と捉えるべきでなく、こうした人々を逆に戦略的に取り込むくらいの発想や度量が求められるのではないか」と指摘する。

中国の知識人が日本に来る背景には、香港の自由度が低下する中で、中国政府への抗議活動の前線が香港から東京に移ってきているという側面もある。

2022年11月末に中国各地でゼロコロナ政策に異議を唱えた「白紙運動」が起きた際には、東京でもJR新宿駅南口で数百人が参加する集会が開かれた。

この集会の準備メンバーによると、この集会には香港のデモを継承したところがあった。例えば、参加者たちは中国当局による情報監視が難しいチャットアプリの「テレグラム」で連絡を取り合い、中国大使館員による監視に備えてマスクをつけていた。参加者には多様な意見の発出を認め、リーダーを作らず、看板に工夫を施したりしていた。


2022年11月に新宿で開かれた集会で、白紙運動

中国の現状を変えたいと願う人々の集結は、今後長期的に日本、そして中国に何をもたらすのだろうか。20世紀初頭のように新たな思想的新潮流が東京で生まれ、やがて中国の体制を変えるほどのインパクトを持ちえるのだろうか。

日本への知識人の招聘を進めてきた東大の阿古教授は「まだまだですね」と話す。現時点で体制変革にコミットする中国人は多くない。

「中国が経済的にも軍事的にもかなり厳しい状況になった時に、どう声を上げるかですよね」。たとえば台湾有事などが本当に差し迫った時には、在日中国人により何らかの組織が立ち上げられるのではないかとの見方だ。

清朝末期との共通点を指摘する向きは多いが、違いを指摘する声も聞こえてくる。そもそも当時と違って、現在の中国の国力は日本を大きく上回る。ヨーロッパの大国であるロシアに勝った当時の日本は、アジアにおける政治の首都だったといっていいが、今や日本の位置づけは「文化の首都」(「単行街書店」経営者の許知遠氏)である。

そして、中国では情報管理がますます徹底されるようになり、海外からの声が国内に届く状況ではない。それどころか、中国国内は、ますます体制擁護的で愛国的な声であふれるようになってきている。

さらに、中国の秘密警察が海外在住者にも影響力を及ぼせるようになっている。日本で学ぶ香港人留学生が地元に帰った際に、留学中のSNSへの投稿をめぐり香港国家安全維持法違反の疑いで逮捕され、2023年11月に禁錮2カ月の実刑判決が下ったのは記憶に新しい。

■体制派も反体制派も存在感高める

中国のネット上で、過激な愛国的主張を繰り返す「小粉紅」は日本にも浸透している。2023年8月には、福島第一原子力発電所からの処理水放出に反応して「当店の食材はすべて福島県産です」との黒板を掲げた新宿の居酒屋に中国人が突撃した動画が話題になった。その一方では、そうした店を応援するためにわざわざ食べに行く反体制的な在日中国人もいた。

反体制派の動向に詳しいある東京在住の中国人青年は、「一昔前までは中国人留学生には政治に無関心な層が多かったが、コロナ以降は、留学生の中で愛国的かつ中国共産党に近い立場と反体制派の両極への分断が進んだ」と話す。国際情勢の変化で、在日中国人コミュニティ内で政治的傾向の違いが鮮明になってきているのだ。

いずれにせよ、東京では体制派と反体制派が共に存在感を示すようになっており、今後何らかのきっかけで摩擦が起きる可能性についても想定しておく必要があるだろう。日本の国内に「もう一つの中国」が出現しつつあるとすら言える状況なのだ。もはや日本人は中国政治をめぐる鋭い矛盾に、部外者ではいられなくなってきた。
2024.02.04 15:45 | 固定リンク | 国際
量子テレポーテーション「実現可能」
2024.02.02
量子テレポーテーションが電子スピンによる量子ビットで実現可能であると実証される

量子もつれを利用して物理的に情報を送信することなく画像を「テレポート」させる手法を研究者らが実証

長距離の量子通信は情報セキュリティにおいて重要であり、すでに衛星を用いた長距離間で実証されていますが、これまでは2次元を超える高次元状態の通信に課題がありました。新たに南アフリカ・ドイツ・スペインの国際研究チームが、量子通信において送信できる情報の次元を増やし、物理的に情報を送信することなく画像を「テレポート」させる技術を実証しました。

量子コンピュータにおける情報伝達手段の1つである量子テレポーテーションが、電子スピンによって構成される量子ビットで実証されたことが、ロチェスター大学とパーデュー大学の研究チームによる研究で報告されています。

量子テレポーテーションは「テレポーテーション」という名前ですが、粒子が離れた場所に瞬間移動するという技術ではなく、量子もつれを利用して離れた場所に粒子の状態を転送する方法です。量子もつれによってどのように粒子の状態が転送されるのかは以下の記事を見るとよく分かります。

従来のコンピュータは情報をビットとして扱いますが、量子コンピュータは情報を量子ビットによって処理します。ビットは「0」または「1」いずれかのバイナリデータを保持しますが、量子ビットは「0」と「1」両方のデータを同時に保持可能。個々の量子ビットが同時に複数のデータを処理できる能力は量子コンピュータ技術の基礎となっています。

量子テレポーテーションは主に光子による実例が示されてきましたが、ロチェスター大学の物理学教授であるアンドリュー・ジョーダン氏および物理学准教授のジョン・ニコル氏らによる研究チームは、電子間における量子テレポーテーションが可能であることを報告しました。電子スピンによる量子ビットは、半導体で情報を送信する手段としても有望視されています。

「電子は簡単に相互作用する量子ビットとして有望であり、半導体中にある個々の電子による量子ビットもスケーラブルです。電子間の長距離相互作用を確実に作り出すことは、量子コンピューティングにとって不可欠な技術です」とニコル氏はコメントしています。

電子スピンによる量子ビットでは、量子ビットを制御する個々の電子には自転方向に基づく向きが存在し、電子スピンが上向きだと「1」、下向きだと「0」となります。電子スピンの向きに関わらず、任意の粒子が同じ電子スピンの状態にある場合は、同時に同じ場所に存在することはできません。同じ量子状態にある2つの電子は互いに重なり合うことができず、もし同じ場所に存在した場合は一方の向きが変化します。

ニコル氏らの研究チームは、電子スピン量子ビットの量子テレポーテーションを実現するために、交換相互作用の原理に基づく技術を利用して電子対の量子もつれを分散させ、電子スピンの状態を維持したまま量子テレポーテーションを実現することに成功しました。

「私たちは、粒子が相互作用しない場合でも2つの電子間に量子もつれを生成する方法と、テレポーテーションを使った量子コンピューティングに潜在的に有用な方法である『量子ゲートテレポーテーション』を実証しました。われわれの研究は、光子がなくても量子テレポーテーションが可能であることを示しています」とニコル氏は語っています。

■「瞬間移動(テレポーテーション)」を科学するとこうなる

「もしも、ひとつだけ好きな超能力を得られるとしたら?」と問いかけられ、意思の力だけで物体を動かす「念力」や発火能力の「パイロキネシス」などを自由自在に操る自分の姿を夢想したことがある人は多いはず。そんな幼い頃に憧れた超能力のひとつに、離れた場所に物体を一瞬で転送したり自分自身が瞬間的に移動したりする「テレポーテーション」があります。

テレポーテーションは、ある場所に存在する物体を非物質化し、その正確な原子配置を別の場所に送るというものです。この時、原子配置などの情報は転送先で精巧に物質を再構成するために使用されると考えられます。FAXは通信回路を使って瞬時に画像データを転送することができますが、「情報を転送する」という意味において、FAXもテレポーテーションのようなものと考えることができます。

しかし、量子レベルで考えるとこのテレポーテーションという現象はより複雑になります。

最初に「量子テレポーテーション」を公表したのは、IBMの物理学者であるチャールズ・ベネット氏とその同僚でした。公表されたのは1993年で、量子もつれの効果を利用した方法でした。その方法というのは、まず初めに転送したい粒子Aと量子もつれの状態にある2つの粒子(BとC)を用意します。次に、BとCを別々の場所に転送し、Aの情報をBに送信します。この時、BとCは量子もつれの状態にあるため、Bに転送されたあらゆる情報がCにも自動的に同期(転送)されます。

ただし、Cには物理的な時間や空間を使用して情報を送信したわけではないので、CはAに姿を変えます。これは、Aをもといた場所からCが送られた場所まで転送、つまりはテレポーテーションさせたということになるわけです。

量子テレポーテーションが1993年に公表された後、1997年に物理学者のアントン・ツァイリンガー氏率いる研究チームが量子テレポーテーションの実験を成功させ、その後も2014年にジュネーブ大学の研究グループが25kmの量子テレポーテーションに成功するなどしています。

2001年にはデンマークの研究者がそれぞれ1兆個以上の原子を含むガス雲同士を量子もつれの状態にすることに成功しました。しかし、この2つのガス雲はたったひとつの窒素分子にぶつかるだけでも量子もつれが失われてしまうそうです。よって、量子テレポーテーションを実現させるには量子もつれの状態にあるペアがそれぞれ他の粒子などと反応しないように隔離する必要があるそうで、それを実現することは非常に困難なことだそうです。

そして、人体には10の28乗個の原子が存在し、その数は天文学的な数字だそうです。このとてつもない数の原子を量子もつれの状態でキープするだけでもとても大変なことは明らか。さらに、少数の原子を同時に振動させるだけでもとても困難なのに、量子テレポーテーションを実現するにはこれらを完璧に同期させる必要があるので、これがいかに大変なことかよくわかるはず。

自然環境では物体が環境と常に相互に作用しており、一瞬にしてデコヒーレンスが生じます。よって、もしもテレポーテーションのために自分を構成する原子の情報を量子もつれを利用して転送しようとしても、デコヒーレンスにより瞬時に構成原子の情報が変わってしまうでしょう、とNautilusは記しています。

■量子テレポーテーションの記録を更新、ジュネーブ大

光子の量子状態を結晶体に転送する「量子テレポーテーション」実験で、過去最長記録となる25キロメートルの転送に成功したと、スイス・ジュネーブ大学(University of Geneva)の物理学者チームが21日、英科学誌「ネイチャー・フォトニクス(Nature Photonics)」で発表した。

 同大の光ファイバー上で行われた今回の実験では、同チームが2003年に達成した6キロの記録が更新された。研究チームは声明で、今回の実験により「光子の量子状態は、結晶体への転送中に、この2つが直接的に接触していなくても維持され得る」ことが判明したと述べている。

 量子テレポーテーションは、「量子もつれ」の関係にある1組の原子粒子が、距離を隔てていても一心同体の双子のような反応を示すとの理論に基づいている。

 量子粒子は原理的には、現在のコンピューターの2進コードよりもはるかに大量のデータを運ぶのに使えるかもしれない上、情報の解読も不可能であるため、暗号研究者らの大きな関心の的となってきた。

 「もつれ」関係にある2粒子の片方に触れるだけで、メッセージは完全に消去されることになる。そのため、光にコード化された量子データを実際の通信において情報を壊さずに保存・処理する方法を見つけることが、大きな課題となっている。

 この課題を探究している研究チームは「量子もつれ」状態にある光子2個の一方を長さ25キロの光ファイバーの中に進ませ、もう一方の光子を結晶体に送って光子の持つ情報を保存した。

 そして3個目の光子を、ビリヤードのように光ファイバーの中にある最初の光子に向けて打ち出し、衝突させると、光子は両方とも消滅した。研究チームはこの衝突を測定し、3番目の光子が持っていた情報は破壊されず、もつれ状態にある2番目の光子を含む結晶体にたどり着いていることを発見した。

 実用可能な量子テレポーテーションがはるかかなたの目標であることに変わりはないが、今回の成果は注目すべき実験的な進展だと研究チームは話している。
2024.02.02 12:28 | 固定リンク | 化学
露ミサイル艇を撃沈
2024.02.02
昨年12月、ウクライナ南部クリミア半島でウクライナ軍の攻撃を受けたロシア軍の大型揚陸艦ノボチェルカスク

露ミサイル艇を撃沈 ウクライナ発表、クリミア西部

ウクライナ国防省情報総局は1日、ロシアの実効支配下にあるウクライナ南部クリミア半島西部に位置するドヌズラフ湾で、露黒海艦隊のミサイル艇「イワノベツ」を撃沈したと交流サイト(SNS)で報告した。ウクライナ軍の水上ドローン(無人艇)がイワノベツに体当たりし、爆発する瞬間を撮影したとする動画も公開した。

同情報総局は「イワノベツの価格は6千万~7千万ドル(約87億~100億円)だ」と指摘。「露軍による乗組員の救助活動は成功しなかった」とも述べた。

露国防省は1日夕時点でドローン攻撃の有無についてコメントしていない。

海軍力で露軍に劣るウクライナはロシアの全面侵攻後、水上ドローンの開発・製造に着手。これまでに黒海海域で大型揚陸艦や哨戒艦など複数の露軍艦艇を破壊したり撃沈したりしている。ウクライナはロシアの海軍力に打撃を与えることで自国へのミサイル攻撃の脅威を低下させるとともに、制海権の奪取につなげたい思惑だとみられる。

■ドローン「応接間から操作」ウクライナ軍

応接間からロシア軍を攻撃……前線でドローンを駆使するウクライナ部隊を取材

ウクライナ南部ヘルソンの近くには、花柄の壁紙が残る民家の応接間から、ロシア軍を攻撃し続けるウクライナ軍のチームがいる。

2022年2月以来、ロシアの侵略に対抗するウクライナの戦いで重要な要素となっているのが、安価で手軽な攻撃用ドローンだ。

ウクライナ国家親衛隊の第11旅団で、ドローン攻撃を担当するチームを、ジェイムズ・ウォーターハウスBBCウクライナ特派員が取材した。

■ウクライナ保安庁、武器調達で大規模な汚職を指摘 国防筋が砲弾10万発を架空発注か


ウクライナ保安庁(SBU)は27日、国防関係者による15億フリヴニャ(約60億円)規模の武器架空発注を突き止めたと発表した。大規模な汚職にかかわった国防省幹部5人と武器製造業者の関係者を捜査しているという。欧州連合(EU)加盟を目指すウクライナにとって、政府関係者や議員の汚職は大きい障害となっている。

SBUによると、ウクライナ国防省の関係者は2022年8月に迫撃砲の砲弾10万発を発注し、代金を前払いしたものの、兵器は納入されなかった。代金の一部は国外へ送金されたという。

捜査の結果、国防省や東部リヴィウの武器業者の関係者が「砲弾購入と称して15億フリヴニャ近くを盗んだ」ことが発覚したと、SBUは説明している。

「調べによると、国防省の元職と現職の幹部や、関連企業の幹部が、横領にかかわっている」とSBUは明らかにした。

SBUによると、2022年2月24日に始まったロシアによる全面侵攻から6カ月たった時点での砲弾発注だったにもかかわらず、「砲弾は1発たりとも」納入されなかったという。

当局は容疑者の1人をウクライナを出国しようとしたところで逮捕し、現在も勾留しているという。

ウクライナの検事総長は、横領された資金はすでに差し押さえてあり、国防予算に戻されるとしている。

ウクライナでは、政府や議会内の汚職が長年にわたる根深い問題として続いている。ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は汚職撲滅を主要公約に掲げて、2019年4月に当選した。

ウクライナは現在、アメリカからの追加軍事支援を得る見通しがたたない状態にある。アメリカではウクライナ支援を続けようとするバイデン政権の取り組みを、野党・共和党が議会で阻止している。

ゼレンスキー大統領は昨年8月、全国の徴兵担当を解任した。徴兵逃れを希望するウクライナ人男性からわいろを受け取り便宜を図る汚職が、横行していたためとされる。

ゼレンスキー政権は汚職撲滅の取り組みを続けており、昨年1月には汚職の疑いを指摘された高官11人が辞職。2月には富豪や元内相を家宅捜索し、5月には国家反汚職局と反汚職専門検察が汚職の疑いで最高裁長官を拘束した。EU加盟を求めているウクライナにとって、汚職対策はEUから課せられている重要な要件のひとつ。他の西側機関も、ウクライナに汚職対策を要求している。

各国の腐敗・汚職に取り組む非政府組織トランスペアレンシー・インターナショナルがまとめた2022年の汚職国家ランキングでは、180カ国中116位だった(順位が低いほど、汚職度が高い)。前年は180カ国中122位だったため、近年の対策が評価されている様子がうかがえる。10年間でランキングの位置が28位も上がるなど、同組織のリストで一貫して評価が改善し続けている10カ国のひとつでもある(汚職度が最も低いと評価されている、1位の国はデンマーク。日本は18位)。

■ウクライナ軍、50万人の追加動員求める 「深刻な人数」とゼレンスキー氏

ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は19日、同国軍が最大50万人の追加動員を望んでいると明らかにした。ロシアとの戦争は、開始から2年の節目を迎えようとしている。

ゼレンスキー氏はキーウでの記者会見で、「45万人から50万人」を求めていると説明。デリケートで負担の大きい問題だと述べた。

また、「非常に深刻な人数」だとし、軍の要望に応えるには、計画の「詳細を知る必要がある」と主張。

「ウクライナの100万人強の軍隊はどうなるのか。私たちの国を2年間守ってきた兵士らはどうなるのか。ローテーションや休暇の問題もある。包括的な計画であるべきだ」と述べた。

女性を動員する案については否定した。
2024.02.02 11:56 | 固定リンク | 戦争

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