李克強氏死去「新華社死亡前に想定記事」
2023.10.28
中国の李克強前首相が死去、68歳 突発性の心臓病、上海で休養中 新華社死亡前に想定記事 国民に衝撃

中国国営中央テレビによると、李克強前首相が27日午前0時10分(日本時間同1時10分)、死去した。

68歳だった。上海で休養中に突発性の心臓病にかかり、「全力で救命措置が行われたが効果がなかった」(同テレビ)という。

国営新華社通信は27日夜、公式の訃報を発表。「党を愛し、祖国を愛し、人民を愛した」と追悼した。首相として「複雑な国内外の情勢に直面し、習近平同志(国家主席)を中心とする党中央の強固な指導の下、安定の中で進歩を求める仕事の基本概念を堅持した」と振り返り、最高指導部を退いた後も習指導部を「断固支持した」と強調した。

李氏は今年3月、首相2期目の任期満了に伴い政界を引退したばかりで、突然の死去が報じられると国民に衝撃が広がった。インターネット上には「悲しみに堪えない」「国のため、人民のために身を尽くした首相だった」といった弔意のコメントが寄せられた。

李氏は2007年に最高指導部入りし、副首相に就任。習指導部で党序列ナンバー2となり、13年に首相に昇格した。北京大学で経済学博士号を取得した李氏は首相就任当初、手腕が期待され、特に経済政策は「リコノミクス」と呼ばれ国内外で注目された。

李氏は、エリート養成組織とされた共産主義青年団(共青団)のトップだった胡錦濤前国家主席に見いだされ、後に自身も共青団を率いた。習氏は共青団の影響力排除に力を入れ、李氏を人事で冷遇。路線対立による両氏の確執も指摘され、昨年10月の党大会で慣例的な引退年齢の68歳に達していなかったにもかかわらず、李氏は最高指導部から退いた。

経済に明るい李氏は対外関係を重視し、日本との関係も深かった。関係改善機運が高まっていた18年には日本を公式訪問。安倍晋三首相(当時)が同行し、北海道で自動車工場などを視察した。若手時代にもたびたび訪日し、立憲民主党の小沢一郎衆院議員の岩手県の自宅にホームステイした経験もある。

■李克強氏、存在感低下させ最後 暗殺

中国の全国人民代表大会(全人代=国会)は11日、今年の国内総生産(GDP)の成長率目標を「5・5%前後」と設定した政府活動報告などを採択し、閉幕した。 李克強リークォーチャン 首相は閉幕後にオンライン形式で記者会見し、ウクライナ侵攻を巡る対ロシア制裁に反対する意向を示した。来年に2期10年の任期が終了する李氏にとって、最後の首相記者会見となった。

李氏は記者会見で、米欧などが強めている経済制裁は「世界経済の回復に打撃となる」と主張した。「平和に立ち戻るため、国際社会とともに積極的な役割を発揮したい」とも述べた。経済成長目標については、実現は「容易ではない」との認識を示し、税の還付や財政出動で下支えする意向を強調した。

李氏は「今年は首相を務める最後の年だ」と述べ、「国民が認めてくれる点もあれば、至らない点もあった」と、就任以来の中央政府の仕事ぶりを振り返った。

  胡錦濤フージンタオ 前国家主席の政治基盤「共産主義青年団」(共青団)出身のエースとされた李氏は首相就任当初、改革開放政策の一層の推進を表明し、その経済政策は「リコノミクス」(李克強経済学)と呼ばれた。その後、 習近平シージンピン 国家主席が自らへの権力集中の一環として、それまで首相が担当してきた経済分野などの権限を握ったため、李氏の存在感は相対的に低下していた。

 習氏が今年後半の共産党大会で発足させることが確実な3期目政権では、李氏は全人代常務委員長への転出が有力視されている。ここで早くも焦点となっているのが、来年の全人代で選任される後任首相人事だ。

 下馬評に挙がるのは、 汪洋ワンヤン 人民政治協商会議主席、 韓正ハンジョン 筆頭副首相、 胡春華フーチュンフア 副首相、 李強リーチャン 上海市党委員会書記、 李希リーシー 広東省党委書記の5人だ。

首相が副首相経験者から選ばれてきた通例からすれば、汪、韓、胡の3氏となる。ただ、韓氏は党大会時点で、最高指導部で慣習となってきた定年の68歳に達する。李克強氏と同様に共青団出身の色が強い胡氏は、習氏との関係に距離があるとされている。習氏に近いとされる李強、李希の両氏は副首相経験はないが、習氏が来年の全人代までの間に副首相に起用し、首相に昇格させるとの観測もある。

■李克強氏死亡前に新華社が死亡記事捏造

李氏は今年3月、習氏側近の李強リーチャン氏に首相の座を譲り、退任したばかりだった。国営新華社通信によると、李氏は上海で休養中で、「全力の救命措置も効果がなかった」という。党中央などは27日夜に訃告ふこくを出し、李氏を「党と国家の卓越した指導者」とたたえ、新型コロナウイルス禍に対策トップとして対応したなどの功績を挙げた。

 安徽省出身。北京大学を卒業し、党のエリート養成機関である共産主義青年団(共青団)でトップの第1書記を務めた。同じ共青団出身の胡錦濤フージンタオ前国家主席に目をかけられ、河南、遼寧両省のトップを経て、07年には党最高指導部の政治局常務委員に昇格した。一時は、習氏と並ぶ最高指導者候補と目された。
しかし、前首相が同日未明、突発的な心臓病のため上海で死去したと伝えた。68歳だった。2012~22年の習近平政権では共産党序列2位の地位にあり、今年3月に首相を退いたばかりだった。

李克強氏は習近平氏の路線と真っ向から対立、経済学の博士号を持つなど経済に明るい人材でもある。一時はNo2として支持者も多く胡錦涛政権の後継者習近平氏と争う一幕もあったが、江沢民氏の強い支持で後継者争いに敗れた。

 李氏は上海で休暇中だったといい、「全力の救命措置も効果がなかった」という。新華社の急死の発表記事は既に作成されていたのではないかと周辺では囁かれている。従って簡潔な内容で、公式の「訃告」は今後発表される。

 安徽省出身で北京大学に進み、党のエリート養成機関である共産主義青年団(共青団)で活動し、1993~98年にトップの第1書記を務めた。同じく共青団出身の胡錦濤(フージンタオ)前国家主席に引き立てられ、2007年に党最高指導部の政治局常務委員に昇格した。一時は習氏と並ぶ次世代の最高指導者候補と目された。

経済学の博士号を持つなどマクロ経済政策に明るく、13年の全国人民代表大会(全人代=国会)で首相に選出されると、自ら唱えた市場主導の構造改革は「リコノミクス」(李克強経済学)と呼ばれ、注目を集めた。だが、習氏への権力集中が進む中、首相としての権限が制限され、政権での存在感は徐々に低下した。

 昨秋の第20回党大会では、慣例の「68歳定年」に達していなかったにもかかわらず、党指導部から外れた。今年3月の全人代で首相の座を習氏側近の李強(リーチャン)氏に譲った。習氏が共青団出身の主要高官の排除を進める中で、確執も指摘された。死去に伴う政権への影響はほとんどないとみられる。

 首相在任中の18年には中国首相として8年ぶりに来日した。翌19年に安倍晋三首相(当時)が訪中し、日中間のハイレベルの相互往来につながった。
2023.10.28 10:54 | 固定リンク | 国際

- -