アナタハン実話「女王事件」
2023.02.11


孤島アナタハン、たった一人の女が本当に「女王」だったのか? 32人の男が和子をめぐり殺人が7~9件起こったという。 また拾った拳銃2丁が権力の象徴となった。

終戦後、孤島に32人の男と1人の女が……「アナタハンの女王」事件を巡り日本中が熱狂した。

1945年から1950年にかけて太平洋マリアナ諸島に位置するアナタハン島で発生し、多くの謎を残した複数の男性の怪死事件。別名「アナタハン事件」

南洋開発の支援下で

比嘉和子(1952年)

サイパン島の北方約117キロに位置するアナタハン島は、1945年当時日本の委任統治領北マリアナ諸島に属する島で、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルという、元からの住人がわずか数十人に満たない火山が中心のなだらかな小島であった。

第二次世界大戦末期に、南洋興発社員の妻である「比嘉和子」と、同社員の男性上司の菊一郎(ともに沖縄出身)、爆撃を受け沈没した徴用船3隻の船員(軍属)と乗り組みの海軍兵士、島に居合わせた陸軍兵士ら男31人(日本人で多くが10~20代の若者)が合流し、島に派遣され南洋興発からの物資を受けつつ、昔からの島の住人と自給自足に近い共同生活を送っていた。

1944年6月、日本の「絶対的国防圏」の要衝であったサイパン陥落を目指すアメリカ軍は、アナタハンにも激しい爆撃を加えた。元からの住人はすべてサイパン島に避難したが、日本人は島に残った。当初、菊一郎と和子はそれぞれ妻子と夫が出張で島を離れており、状況判断から2人は「夫婦」として男たちから離れて同居。31人の男たちも船ごとにそれぞれ集団を作って暮らしていた。そのうち全員が1人の女性を巡って争うようになり、1945年8月の終戦までに複数の行方不明者が出た。

終戦後

1945年8月の終戦時、この島に残留する日本人がいることを知ったアメリカ軍は拡声器で島の住人達に日本の敗戦を知らせたが、アナタハン島の日本人は信じず島を離れようとしなかった。その後アメリカ軍は、北マリアナ諸島一帯の信託統治の委譲などに手間を取られ、この島から離れようとしない日本人たちは放置された。敗戦後の島は「忘れられた」状態となり、彼らは南洋開発から与えられていた食料を食べ尽くし、イモを自作するようになるまでは、コウモリ、トカゲなどを捕って食べた。衣服もなく、木と木をこすり合わせて火を起こす、原始人のような生活を送る。

1946年8月、山中に墜落したアメリカ軍のボーイングB-29の残骸とパラシュートが発見され、その際、残骸の中から発見された4丁の拳銃を組み変えた拳銃2丁が手に入ったことから、男たちの力関係に変化が生ずる。これ以降、銃の存在が権力の象徴となり、以来女性を巡って、男性達の間で公然と殺し合いが行われるようになった。

まず、菊一郎が変死。その後、和子は、男たちのリーダーが選んだ若い男を「夫」とし暮らし始めたが、その「夫」も変死。さらに、その次の「夫」も同様に変死。「元凶は和子」とする雰囲気が強まり、生命の危険を感じた和子は1人でアメリカ軍に投降。これをきっかけに男たちも救出されたが、最後は32人から20人に減少していた。この時点までに死亡した男性は行方不明を含め13人に上った。救出された人々は1951年7月7日には日本本土に上陸して復員手続きを終えて解散したが、一部は同日に参議院引揚特別委員会に招かれて、懇談会を行ったという。

「ただ、ひとりの女をめぐって、自分の若い情熱を傾けつくして、花火のように自分の生命を散らしてしまった人」と、和子をめぐる男たちの争いがあったことを示唆したが、他の帰国者らは一様に人間関係について言葉を濁したことから、さらなる憶測を呼んだ。翌年には、丸山は別の徴用船「海鳳丸」の乗組員である陸軍2等兵だった田中秀吉と共著で「アナタハンの告白」を出版したが、「はじめに」には「あの不条理な孤島生活にこそ生まれえた人間の悲しい宿命的、原初性をかい間見たのである。」と書かれ、はるかにスキャンダラスな描写であり、和子をめぐり殺人が7~9件起こったと記した。
2023.02.11 21:19 | 固定リンク | 事件/事故

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