内容●[1]映像作品の感想文[2]蛍光灯の下で見た幻覚の記録[3]ピンク色が意識にもたらす影響の考察[4]しばしば混入される嘘 まめちしき●パースエイダーは銃器。この場合は拳銃
うむむむ。なんなのだ、この全身のだるさは。先週までの残業続きに日曜のまんが大会遠征がまずかったか。水曜になってもまだだるい。
9月までいたところでは、あたしゃ仕事したくない日はなーんもせずに帰っていた。その一方で、会社の帰りの電車の中でも自分の部屋の中でもアルゴリズムを考えていたりする。研究者ってのはそういうものだと思っていた。いまは半田とプリント基盤の香りかぐわしい回路屋さんで、毎日毎日主任に進捗を報告せねばならない。それでもこうやって、職場で日記を書いていられる余裕があるのだから幸せというしかないのだけれど。
ふむ。ビクターの「InterLink」はA5サイズで重量740グラムだそうだ。わたしの考えでは500グラムぐらいにならないと持ち運ぶ気はしないのだけど、まあ、740グラムならいい線をいっている。そろそろこの手の計算機もわたしの欲しいものリストに入るかと思ったのだけど、どうもWindows CE用に作られているらしいと知ってがっかり。
Windows CEだなんて高級すぎる。そんなびっくりハイテク機器じゃなくてもいいから、A5サイズで、液晶はグレイスケールで、テキスト処理のための便利な道具たちが動いてくれて、HTML 4がまともに表示できるwebブラウザが動いて、重量500グラム以内で、一度充電したら毎日3時間稼動させて1週間電池が持ってくれればそれでいい。そんなに無理な注文ではないと思うのだけど。
資料だのなんだのの本たちをそろそろ段ボール箱から解放してさしあげたく、本棚を買いに行く。出窓の高さに合わせて高さ800ミリメートルのものを探したのだがちょうどいいものが見つからない。本を入れるだけなので引き出しなんかいらないのだけど、背の低い棚には必ず引き出しがついていて困る。よって、前に買った背の高い本棚と同じものを部屋にもう1台、無理矢理置けないかどうかを検討しなおすことにする。
「みんな友だち」の巻。最終回。
あらすじ。黒幕の黒川(名前うろ覚え)はコムネット開発者のうちの一人だった。犬養博士の他に、篠崎愛の両親と黒川も計画に加わっていた。黒川は犬養と技術面で対立し、計画から去ることになった過去がある。犬養と篠崎父は計算機に心を持たせることを提案し、黒川は心という不安定な概念を導入することに反対していたのだ。黒川の復讐はまずコムネットを崩壊させ、かつて実現させるはずだったより優れたネットを構築することである。しかし、仮想世界で長らく復讐の時を待っていた黒川は、現実世界の自らの肉体がすでに死んでいることを知らない。
感想。うむむむ。アイ母裏切り説がいまも捨てがたい。アイ母は黒幕に脅かされてずっとコムネットにとどまっていると考えるべきなのだろうけども、アイ父とアイ母と黒幕の3人が同級生だと聞いて、どうもそっち方面に想像が行ってしまっていけない。大事な娘を放っぽり出してずうっとコムネットにとどまるなんてちょっと不自然。夫が死んだのはコムネットのせいだと考えるアイ母と黒幕の利害が一致してしまい、いつの間にかよい仲になって一緒にコムネットに復讐するというのがアイ母裏切り説。2時間。温泉あり。
それはさておき。本シリーズの裏主人公はアイさんである。もう他がどうでもいいぐらいにアイさんの話である。幼いころに父が死んだ悲しみを隠せるようにと役者を志し、表情も心も閉ざし、いま偶然会ってしまったユイさんの底抜けの明るさに触れて変わっていく。それだけの話なのだけど、これがうまい具合に、飛行場の話で、ユイさんが他者を救うために無条件でわが身を投げ出したことをたぶん伏線にしつつ、8人のコレクターたちが心を持った存在であるがゆえに、盾にされた自分たちもろとも黒幕を攻撃するようにユイさんに頼んだりという演出を入れたりなんかして、いい話になってしまう。
アイさんは心を閉ざしたものだから友だちはできないわ、母の手がかりとなるはずであったメールソフトの「アイちゃん」は追っても逃げてしまうわでしっちゃかめっちゃかである。それがアナタ。ユイさんが全部ひっくり返そうというのだから、局所解の穴ぼこから飛び出して大海に向かう手がかりは案外身近なものである。
最後の、ユイさんと別れる場面のアイさんが。ああ。もう。どうしてくれよう。
アイさん関係はたぶん久遠さんがまとめてくれるだろう。半年間楽しませてもらった。わたしはフリーズさんのやられキャラっぷりを見て笑っているぐらいがお似合いですわい。
なんとなくあさきっちの家に遊びにいく。「MAHO堂ダンスカーニバル!」とキッズステーション専用コントローラを持っていく。
いつものお約束。ブツをちびバイクのいすの下に入れて駅前の駐輪場まで走って留める。大急ぎで電車に乗る。ふう間に合った。さて今日は5話からあとを観ますかね、と小脇に抱えたブツを確かめようとするとなにもないんである。ブツの入った袋を指すポインタは小脇にくっついているのだけどもポインタの先にブツの実体はなく、真実はただ、ちびバイクのいすの下にあるのである。ああ。
真実はどんどこ遠ざかる。この電車は快速列車なのだ。途中で1本の快速列車とすれ違った。次の停車駅に着くと同時に反対側のホームに1本の各駅停車が停まった。えんやこらと階段をアレして反対側のホームにナニすると各駅停車は去っていく。さっきまで乗っていた快速列車も去っていく。待つこと10分弱。真実の使者、快速列車到来。またえんやこらともと来た駅に戻って、駐輪場までアレして、真実のブツをナニして戻ってくる。さらに待つこと10分弱。また快速列車に乗って旅立つ。すでに40分の遅刻が確定している。
なんてこったい。わたしは今日はお菓子を買っていく予定だったのに忘れ物のごたごたに巻き込まれてこれまた忘れてしまった。今日は「とーれとれぴーちぴちカニりょうりー」と、かに道楽のテーマ曲を歌いながらケーキを差し出す予定だったのに。そんな仕込みをしているひまがあったらとっとと家を出ろってなもんである。
今日のお出迎えはすごかった。犬が裏口から駆け寄ってきてわたしの大切なブツの入った袋に向ってほえたてる。あとからおねいさんが追いかけてきて犬を回収して去っていった。わたしは玄関から入る。おお。玄関から入るとまた犬が駆け寄ってくる。この家にはワームホールがあるのか。玄関の大理石の上には緑色のマットがしかれていた。傷がつくのだろうか。で、あたしも慣れたもので、金色のノブのついた扉を開けて、すてれけてーっとあさきっちの部屋に入る。面白いものはないかと物色を始める。
読めと言わんばかりに机の上に本が積み上げてあった。うち1冊を取り出して、あさきっちはこう言った。ぽんさんお薦めの電撃文庫の「キノの旅」を本屋で見つけて、わたしがこれは面白そうだと思うことはまずないやろな、と。で、なにも分からん状態で面白そうな本を探し出すにはどうしたらええのやろかってなもんで、えいやっと電撃文庫から出ているあすか正太の「大魔王アリス」を手に取ったらしい。ぱらぱらと見てみたらば、いきなり主人公はナニするわ、味方はアレだわ。一言でまとめると、おっぱいが世界を救う話、なのか。電撃文庫奥深し。
「エターナル・アルカディア」をプレイしているところを横から見る。壮大。派手。恥ずかしい。いまなら、この絵のきれいさだけにだまされて買うのもアリかも。いまなら。あの妙な世界観を、メカだのなんだのがよく描いている。これだけだったらあさきっちはほめないだろう。この派手で恥ずかしい感じがいい、のだと思う。ただ、遊ぶのに時間が相当かかるらしい。
で、問題のブツ「MAHO堂ダンスカーニバル!」を取り出す。
はづき「とりあえず、わたしおどるわ」
問題の第5話も遊んでもらう。やはり問題作だった。登場人物の紹介で、関せんせいの好物が「あんきも」だと分かった。
この日は問題作の日だった。なぜか「愛国戦隊大日本」を観るはめになってしまった。エラいもんを見た。まあこれが歌からナニからちゃんと作ってある。これだけの絵を撮るのは大変な工数だが、全体を見渡せる人が作っているに違いない。歌がかっこいい。「セーラーファイターなみ(名前自信なし)」という人形特撮もちらっと観た。観たことがあるものだった。「パリ、セーヌ川」といって道頓堀が映るアレである。エッフェル塔は通天閣だ。主人公の上はセーラー服、下は体操服のブルマといういでたちからして、このあたりの嗜好は十年来変わっていない。
「おジャ魔女どれみ♯」の「関先生に恋人ができた?」(第30話)で、関せんせいは子供たちを放ってついていくことはできない、と言ったのだけれども、これが4年生の年度末までを指すのか小学校の卒業までを指すのか、ということで意見が対立した。そんなわけで第30話を観直して、北川君は「卒業式に迎えに行く」というメールを寄越した、ということを確認する。いま自分の日記を見返してみるとちゃんと書いてあるではないか。忘れていた。
帰りぎわにたこ焼きを買って2人で食べる。外で食べるのはちょっと恥ずかしいが、このときわたしは、世界でなによりもたこ焼きが食べたかった。大きなたこ焼きを丸ごと口に放りこむと、熱くて危険である。
「そら、おんぷちゃんも泣きますわ」(第34話)
ってなもんである。今日は去り際に、犬との格闘はなかった。
氏はこの日、大艦巨砲と大橋巨泉の類似性を突きとめたことを発表した。そう言われてみれば、確かに大艦巨砲主義が大橋巨泉主義に見えてくる。
うう。仕事したくないよう。今日も会社でとりとめのない日記をぼへーっと。
出版物の電子化が進んで誤字誤植がめっきり少なくなったけれども、ビデオゲームという新天地があったか。浴場のほとばしり(11/04第4段落参照)って、なんだか違う部分を刺激していて、それはそれでいいような気もする。
少し前の少年ジャンプの「ライジングインパクト」のちびリーベルがー。ああ。単行本買うや買わざるや。買いに行くのが恥ずかしくてまだ買えない。キャラ人気投票はプニ助が1位かー。ランスロットさまが2位でリーベルは3位。ふふふふ。きみたちはそんなにランスがいいのか。リーベルはわしのもんー。
ところで。人気投票のときの4色印刷の扉絵で気付いたのだけども、プラタリッサとおねいさんは髪がピンクだったのかー。
「あいこがライバル! スポーツ勝負!!」の巻。
あらすじ。オヤジーデの助手たち4人組がなかなか仕事をしない。オヤジーデが暁をせきたててもあまれいよい返事がない。ある日、たまたまあいこが学校に行く途中、近道をしようとしてレオンがバスケットボールに興じているそばを通りがかった。レオンはあいこに勝負を挑むが軽く負かされてしまう。レオンはあいこのことが気に入ってしまい、一日中あいこを追っかけまわしてはスポーツ勝負を挑む。その間にハナは虫を追いかけて乳母車を魔法で動かしてどこかへ行ってしまう。それでもスポーツ勝負は続くのだった。
感想。レオンのアホー。ここまでアホだとは。最後の最後でレオンはあいちゃんにその根性を気に入られるのだけど、これでレオンがあいちゃんをもっと好きになったりしたらやだなあ。
デジモンアドベンチャー02を録画したままもう10話ぐらい観ていない。いや困った。
昨日ご主人さまに問題を出された。そのままだとあいまいな部分があるので少し手直しして書いておく。
集合、憎悪の家族 = {父、母、息子、娘、召使い、犬}を定義する。いま憎悪の家族はある川の右岸にいる。いま1隻の舟を用いて憎悪の家族全員を左岸に渡したいとする。憎悪の家族は互いに仲が悪く、常に殺意を抱くものがいる。
父は自らが生きている限りは娘を殺したいと思っており、母が近傍にいないと必ず娘を殺してしまう。まだ見たものはいないが娘を殺す準備があり、また殺人の訓練を充分に積んでいるため返り討ちにあうことはない。そして一度に何人でも殺すことができ、また殺しに関して反省することがまったくないため何度でも殺すことができる。また母も同様に、父が近傍にいない条件下では息子を殺してしまう。さらに犬はこの憎悪の家族に恨みがあり、育ての親である召使いの見ていないときには、召使い以外の人間を皆殺しにする準備がある。殺しに要する時間は、舟の移動時間に比して無視できる程度に短い。
ただし息子と娘は複数人数おり、ここではそれぞれ2人とする。父、母、召使いはそれぞれ1人とする。また舟に乗ることができるのは2人のみ。犬も1人と数える。舟の運転ができるのは父、母、召使いのみである。最後に、船は岸を離れると必ず対岸まで進み、対岸では搭乗人員は全て一旦降りるものとする。最後の条件として、憎悪の家族を全員生きたままで対岸へ運ばねばならないことを付け加えておく。
この問題を、昨日の夜に数時間考えたのだけど解けなかった。今日の昼間も引き続き会社で考えているのだけどまだ解けない。
犬とメイドさんが舟で対岸に渡って、犬を置き去りにしてメイドさんが帰ってくる。そのあとメイドさんが息子1を連れて対岸へ行く。二人は対岸で降り、メイドさんは犬の機嫌を取りながら舟に乗る。息子1を対岸に置き去りにして舟は戻ってくる。メイドさんと犬が舟から降りる。ここで投了。負けました。ここでメイドさんが出ていくと犬問題発生。父が出ていくと母が刃をむき、母が出ていくと父が娘を餌食にする。だから動けない。
どうも穴ぼこから出られない。マジカルステージ! あずまさんのアホを治してー。ちゃーんちゃちゃちゃちゃちゃちゃーんちゃーん、ちゃららららららー(ぱぱぱぱんぱんぱん)、ちゃららららららー(ぱぱぱぱん)、ちゃーちゃららー、ちゃららららららっちゃっら、ちゃららららららっちゃっら、ちゃんっ。
「どれみちゃん、あなたは禁じられた魔法を使いました」「女王さまー」「アホを治すことは魔女界のおきてで固く禁じられていると言ったはず」「で、でもっ」「魔女のこともすべて忘れてただの人間にお戻りなさい。ハナちゃんのことなら心配は無用です。ここまでよく育ててくれましたね」「……女王さま、ハナちゃん、マジョリカあああっ」
あああっ。……てな具合なので、局所解からまったく前に進まない。「母に息子を1人殺させておいて、対岸に着いてからもう1人産む」というのと「父にとりついたバグルスをコレクター・ハルナがイニシャライズするから殺人は起こらない」だとか「16時50分発の特急あさかぜ東京行きに母は乗りこんでいるが、実は17時25分に宇部で降りているところが駅弁の販売員に目撃されている」「桂ざこば相談員は『払ってもらえる』と言っている」などいろいろ考えた。が、たぶんこれでは不合格だ。
……で、2日にまたがって、さらにあれやこれと考えたけれども時間切れ。わたしの考えの過程をだだーっと書こうと思ったけれども、正解のあまりの手順の長さに恐れおののき、わたしの途中までのヘボ解答を書く気がなくなった。半分の長さの手順ごときで行き詰まるとはなんとみじめだろう。机の上には、父上やメイドさんを示す8枚のカードだけが残った。職場の机にもまた。
「ハナちゃんもぽっぷも試験中!」の巻。
あらすじ。ハナの健康診断とぽっぷの魔女見習いの進級試験の日が重なってしまった。健康診断はハナの魔法の強さを測るものだった。魔力の強いハナは木を引っこ抜くわ空き缶を飛ばすわで大騒ぎである。そしてことごとく遠くのぽっぷの進級試験を邪魔してしまう。
感想。ぽ、ぽっぷぅぅっ。いかん、まずい。このぽっぷのかわいさはやばい。こういうとんがった子が困ったときに見せる表情がアナタ、こういう強がった子が困ったときに放つ叫びが奥さん。幾千年繰り返したこの叫びが。分かっちゃいるけどやめられない。
どなたか、一日中イヤそうな顔をしたおんぷちゃんと、追いつめられたぽっぷと、心配そうな麗香姉さんで書いてください。
牛丼の店に入るときはたいていへろへろなときだった。よほどふらふらなときじゃないと、吉野家の敷居はまたげないらしい。ふらふらと店に入っていって「特盛」を頼む。特盛というぐらいだから栄養があるのだろう。ところで、長らく「栄養満点」という言葉を聞かなくなった。なにも食べていなかったり寝ていなかったりするへろへろの身体を、吉野家の特盛がふんがふんが通っていく。600円も出すのならもっといいものを食べられる、などとは決して考えない。
あたしゃ辛けりゃなんだっておいしいと思うので、七味唐辛子を表面の肉たちが真っ赤になるまでかけて食べる。食べているうちに肉たちに隙間ができてくると、ご飯の上にも七味唐辛子をかける。どうせへろへろのふらふらで味なんか分かっちゃいないのだけれど、口の周りが七味唐辛子の刺激で熱くなっていることだけは分かる。そんなこんななので吉野家と松屋となか卯の味の違いなんざあ、あっしにゃ関わりのねえことでござんす。松屋でもなか卯でもやっぱり七味唐辛子丼なのであった。
音関係をやっている部署から「木枯らし紋次郎」のテーマ曲が聞こえてきた。よく聞いてみたらそれは「木枯らし紋次郎」ではなく、もっと最近のナウい曲だった。残念。
昨日に引き続き、退屈な仕事に取り組む。少しも気合が入らないので、昼過ぎになってやっと始められた。回路図のデバッグなどという眠くなる作業は、もう勘弁願いたい。
マンションが高い。
昨日の分を除くと、どうにも日記のテンションが低い。日常生活において、毎日毎日同じ事ばかりがあるハズはないのだけど、覚えられないのだから書けないのは仕方がない。文章自体の勢いを上げること自体は可能なのだが、それだけだとどうにも書いた後に空しい気分になりそうである。ちびうさちゃんについて熱く語ってみるとかいった芸当も、毎日毎日駄洒落を考えるのをやめればあるいは可能かも知れないが、あまり気合が入りすぎると続かない気がする。副題を『まねっこ』にしておいたので、こういうのもアリかもしれないが、実は「テンションが低い」と書いてあるのを見た瞬間にここで「ボケなあかん」と思っただけなのであった。
何故か今日は、頭の中におジャ魔女のお着替えシーンの曲が鳴り響く。毎週耳にしているのだけど、突然意識の表層に浮上したらしい。サビのフレーズだけ延々と繰り返し、しかも曲名が分からない。もしかしたら名前なんかないのかもしれない。
ああ。また来た。デジカメ欲しい病がやってきた。どこかのおもちゃ屋さんがちっさいデジタルスチルカメラを出していたような気がする。売っているのを見たことがないのだけど、胸のポケットに入るほど小さく、細長い形状だった。あれぐらい小さくて640x480ピクセル程度で撮れるのがあれば欲しい。
もう出かけるたびに写真を撮りたくなる病を併発している。そのわりにわたしは両手になにも持たないで外を出歩くのが好きなので、家にある一眼レフはまったく持ち歩かない。ここは一つ、胸のポケットに入るカメラで妥協しようじゃあないかと。画質をどうこう言おうと思ったらでっかいレンズがいるのだろうけど、わたしの撮りたいのは美しい花でも湖でも街の風景でもない。
先日、JR難波駅のホームの売店で「ミネラルウォーターと乾電池あります」という張り紙を見て、写真に撮りたい衝動に駆られた。人類史上、飲料水と乾電池がかくもなかよく描かれたことがあるだろうか。ペットボトルと乾電池が描かれた妙なポスターの概観を忘れまいと紙にメモを取ったのだが、この紙はもうどこかへ行ってしまった。やはり絵がそのまま記録できる装置が必要である。だからカメラが欲しい。
「大艦巨砲」と「大橋巨泉」の類似性というのはまったくもって字面の話であって、口で言っても伝わらない。で、文字で表現した場合の視覚的効果について考えると、まず「大」と「巨」が共通している。あとは「艦」と「橋」、また「砲」と「泉」が似ていると思えるかどうかが重要なのだけど、単体ではあまり似ていない。
強いて言えば「艦」と「橋」はそれぞれ「舟扁」と「木扁」が左半分を構成しており、右半分に別の情報が加わるという種類の構成の文字である、ということと、右下部分の箱型要素に類似点を見出せることが挙げられる。しかし、なによりも「大艦巨砲」と「大橋巨泉」はどちらも黒と白のバランスがとても近いということが字面の類似性を高めている。
漢字を使う文字表現においては、どの文字も同じ大きさの正方形の枠に文字が収まるように書くことが多いため、画数なり線分の要素なりが多いほど文字は黒っぽく見え、画数の少ない文字は白っぽく見える。もちろん灰色とでも言うべき中間階調も無数に存在する。その観点からこの二つの語を比較すると、どちらも「白黒白灰」という順列となるのだ。ただそれだけのことで誤読が起こるというのならば、誤読が起こる条件はどこにでもあることを示している。
解像度の低い表示装置において「大艦巨砲」と表示した場合に「大橋巨泉」と誤読してしまう人が本当にいることはすでに偶然に明らかになっている。あとは、ここまでに示した条件のほかに先入観の後押しさえあれば、誰でも誤読ができるのではないだろうか。常日頃から「大橋巨泉」のことを考えていれば、また再び誤読はやってくるのかもしれない。
出版物の電子化に伴い、活字や写植の「文字を拾う」という作業がなくなり、誤植を見る機会が減ったのは寂しい限りだが、一方誤読は作り手に依存しない、読み手内部の問題である。誤読の楽しみは10年も前にみうらじゅんが提唱した「変読」に近い。われわれに残された非常に高級な楽しみと言える。世界軍縮会議で海軍のえらい人が「旧来の大橋巨泉主義を改め」などと発言したら実に愉快である。
ところで、いまだに「衛生放送内臓テレビ」という表記が家電量販店の広告からなくならないのを、わたしはとても心強く思う。計算機の進歩により、素人が書いた原稿がそのまま印刷物に使われるようになったおかげで、まだ誤字はひっそりと生き続けている。過日電気製品の展示会で、液晶で有名なS社の試作品の展示に「ハードディスク内臓」と書かれているのを見て、世の中まだまだ捨てたものではないと思った。
以前に「一日一ギャグ」を自らに課そうと思ったことがあった。これがまた、できないもんである。電車の中で一つ思いついても、電車を降りるころには忘れるんである。で、その場でメモ帳を持っていればいいのだけど、最近持ち歩かなくなった。持ち歩くこと自体を忘れるんである。整理や検索が楽なように電子ネタ帳が欲しいと思う。500グラムぐらいで作れないかと思う。しかし、持ち歩くのを忘れたら元も子もないのであった。
「コミッククリエイション」というイベントがなんだかすごいことになっているらしい。会場で鍋をぐつぐつやりだす人だの、本を売らずにただ焼肉に興じる人だのがいるらしい。なぜかプロレスのリングがあったらしい。うう。すごい。アホだー。なんだか、とても、うらやましい。
牧伸二のウクレレ漫談は4コマ漫画のリズムなのかといま気づいた。
国債の金利が高いのは、政府がどんどこ債券を発行して、その上経済の先行きが暗いために買い叩かれているから、というだけのこと。買い手が殺到となれば金利は下がる。
昨日、帰りの電車の中で日本初男性専用エステ、17年の実績、という広告を見て違和感を覚えた。日本初というのと17年という中途半端な古さがどうも結びつかない。なんだか不思議な感じがする。日本初、奈良の大仏、と言われているような違和感がある。日本初とは日本で唯一であることを意味しないのだから誤りではないのだけど、それでも。
さらに隅の方に小さく、女性のためのエステ「ミス・パリ」と書いてあったので困った。この歯がゆい感じ。「ミス・パリ」とはただ者ではない。この広告を見て足を運ぶのか、大阪のマドモアゼルは。
肉。肉が食べたい。むさぼり食いたい。例え話ではなく、ホンマもんの肉を。牛丼の上に乗っかっているへろへろの肉たちではなく、家の電熱装置で焼かれた妙な臭いのする肉でもなく、ホンマもんを。うう。一人で食べに行っちゃうぞう。本気だぞう。
でっかい肉に串を刺して表面を火であぶって、ナイフで端から細長く切ったものを、口ひげのおやっさんが持ってきてくれる。調味料は塩だけ。こんなのが食べたい。駄目か。無理か。じゃあ、ステーキ。ステーキっすよ。どうやって作るのかは知らないけれど、ステーキっすよ。夏休みまんが大会が終わった翌日に「不二家レストラン」で食べたけれども、今度はもうちょっと分厚いやつがいい。
しかしどんな料理も「はじめ人間ギャートルズ」の登場人物たちがたまに食べていた「マンモス肉」の魅力にはかなうまい。ううう。食べたい。日曜にたこ焼きが食べたくなったときほどの衝動ではないけれど。マンモス食べたい。
「とても」という強調の意味で「マンモス」という語を使っていた人がいたような気がする。マンモスラッキー。マンモスうれしい。いただきマンモス。ごちそうサマンサ。
あの、果てしない、遠い遠い南の方の、それも海の上に空港を作ると決まった時点で、大阪の廃退は決まったようなものだった。あんなにも不便で、あんなにも使用料の高い空港を作ってしまったせいで、航空会社が大阪から逃げていこうとしているというのに、まだ拡張をしようというのだ。大阪の財界の方々は。関西空港の社長は37年後の単年度黒字が達成できなかったときに絶対に責任を取る気はないだろう。なれば、いまから先取りして首を吊って死ぬなり、刑務所で反省するなりしてほしい。
いますぐ空港島が沈没してくれればいいのだが、じわじわと沈んでいくので永久に補修し続けなければならないことも気が重い。
ああ。忘れていた。帰りに、駅前のコンビニの前で「ヘブンイレブンいい気分」というのを思いついた。使い道がない。
だいたい年に30日ぐらい覚醒している日があって、残りの日はだいたいぼへーっとしている。覚醒している日はまず眼が見えている。あと、頭でなにかが起こっている。なんだかよく分からないけれど、脳ではなくて、頭蓋骨の回りの薄っぺらい筋肉が、うれしそうにしている。残りの日は、たいてい頭が重くて視界は白っぽくて、だいたい頭痛か吐き気か耳が聴こえにくいかのどちらかと仲良くやっている。
さて、きょうはなんの日、ふっふーう。11月11日は、ぼへーっとした日でしたー。ほわわわーん。
日本橋の電機店街を歩いていて、突然、年に一度級の悲しさを覚えた。寒さは心の中に直接攻撃してくる。
録画したまままだ観ていない「デジモンアドベンチャー02」を数えてみたら6話あった。朝から2話やっつけた。
賢ちゃんかわいいわー。ワームモンとのほのぼのっぷりが気に入ってたのだけど、なんだか、その、大輔との友情のあたりにとても刺激されるものが。ううう。なんだか、自然とやな方向に想像が進む。ああ。少年まんがよのう。
あと、あの悪者の妖しいおねいさんも好き。もう、どうやって賢ちゃんを引っぱりこんだんだコノコノー。
おお。こんなところにおジャ魔女の島倉さんがー。そうかー。えらい分かりやすい声だなあ。
こんなことを言ってても、泣きながら観ているのである。強い刺激を受けたあとは、なにかと自分の妄想も強くなるので困る。あたしゃはじめてアホな大輔のことが好きになった。
そういや一昨日、会社でお昼ごはんを食べたあとぼへーっと外を歩いていたら、後ろからどこかで聞いたような声がする。島倉さんの声に似ていた。あんな乾いた声でずうっと話してらした。目覚まし時計代わりに携帯電話が音を出すようにしているのだけど、寝ながら複雑な操作をして音を止めてしまうらしかった。ああ。ふつうの会話。あまり大スクープではなかった。
第2次本棚計画は大幅に見直すことになった。本棚は先日買ったものとまったく同じものを買うことにする。その方が見映えがいい。で、現状では本棚を置く空間がないので、床に鎮座します音関係の機械を移動させて空間を作ることにする。で、そのために棚がいる。垂直に4段ほどの丈夫な棚が欲しい。また例によって出窓の高さに合わせて高さは810ミリメートル程度にしたい。
これがまた所望のものが見つからない。中空の木の板でできたものは安いが弱い。まともな木の板でまともに組まれたものは丈夫だが恐ろしく高価だ。7万だの9万だのである。こりゃ自分で作るしかない。
帰りの電車の中でへろへろーっと絵を描く。横に渡す板が、縦の板にはまり込むように工夫する。縦の板には貫通する穴を開けておいて、そこに左右を切り落として中心部だけが飛び出るように加工した横板をはめ込むという寸法。これなら日曜大工の店に行って図面を渡せば加工してもらえる。家に持って帰って組み立てるだけだ。材料は無垢の板は高いのが、かといってベニア板ではみずぼらしい。中間をとって集成材がいい。
まだ強度が心配なので、家に帰って絵を描き直して父上に相談したらば、
「確かにこれが一番丈夫な組み方や」
とおっしゃる。
「せやけど、」
絵に修正が入る。
「横から見て穴が見えへんようにするのがオトナの仕事やな」
とおっしゃる。縦板には「貫通しない」穴を自分で彫って、そこに横板をはめ込むのがプロの仕事だとおっしゃる。がびーん。誰がプロやねんな。
わたしは日曜大工の店で材料をできるだけ完成品に近いところまで加工してもらえる、ということを優先して設計した。この設計のミソは、貫通する穴ならば電動ドリルと電動糸のこで簡単に開けられるという点なのだ。が、父上はそんなことはちいとも考えないのである。このへんが、なんでもかんでも外注に仕事を回してしまう大企業の人と、全部自分たちでやる小企業の人との違いかもしれない。
父上がいうには、貫通する穴に横板を通した結果、穴から横板がはみ出たりへこんだりするかも知れない。その修正が大変やんか、というんである。貫通しない穴を使えばそんな修正ははじめから必要ない。ここまで言われると「はみ出たりするぐらいどうでもええがな」とは言えなくなってしまった。わたしはいかに楽をするか、というところから考え始めたが、父上は最高の出来栄えを想像しておいて、そこから妥協をしていくんだという。
いつ完成するのか心配になってきた。なんせわたしは不器用なのだ。
先週見つけたのだけど忘れていた。難波の地下街で「体においしいごはん定食五八〇円〜」という貼り紙を見つけた。ああ、ごはん定食。いくら「大阪人はきつねうどんでご飯を食べる」だとか「お好み焼きにみそ汁とごはんがつく定食が存在する」だのといった伝説があるからといって、ごはんでごはんは食べられない。この貼り紙と今日再会して、ますますデジカメ欲しい病である。
タカラの「スティックショット」はWindowsでの使用しか考慮されていないらしい。これじゃあ、せっかく撮った絵を計算機に取り込むためにWindowsを立ち上げないといけない。こりゃだめだ。で、日本橋でデジカメを探してみたらば、わたしの好きそうなおもちゃのような安い製品はあまり小さくなかった。小ささもまた魅力なんだと気づいてくれよバンダイ。考え直してくれよトミー。
一方、おもちゃよりもずっと高い製品群の中には結構いい線をいくものがあった。しかし値段がべらぼうに高い。4万だの6万だの。その小さな匡体で200万画素をうたっていたりする。
もうだめだ。状況は絶望的である。アイティー・バブルここにありだ。その特別小さく作られたカメラがどんな使われ方をするのか、作り手にはまるで分かっていないのではないだろうか。そんな高精細なCCDを生かせるほどのまともなレンズが、この小さな匡体に積めるのだろうか。
第一そんな巨大な画像を扱うとなれば、メモリは食うわ処理は重いわ大変じゃないか。きっと、わたしのように小さな画像だけを残したい場合は、内部で画像の縮小処理をしてから記録するのだろう。これじゃあ、わたしにとっては値段は高いわ処理は重いわでろくなことがない。結局わたしはタカラやバンダイがMacで使える製品でかつ小さなおもちゃを作ってくれるのを待つしかないのか。
IBMが3840x2400pixelの液晶ディスプレイを開発した。で、米国の国立研究所に納入された。ユーザからの要望があれば2001年中をめどに同じものを生産できるようにする、と書いてあるではないか。うー。欲しい。めっちゃ欲しい。そんなでっかい画像を出せるビデオカードはないけれど、めっちゃ欲しい。2001年に出たとして200万円ぐらいかなー。300万かなー。それじゃあ買えないなー。あー。
20万円以内じゃないと買えないなあ。2003年ぐらいまで待てば安くならんかなあ。50万円ぐらいにならんかなあ。うー。12回払いで買えんかなー。机の上に無理矢理A3のレーザープリンタまで置いているのに、いまさら液晶ディスプレイで空間の節約もあったものじゃあない。でも欲しい。
デジモンの録画を1話やっつける。そして1話増える。
はうあう。デジモン02は心の描き方がすんごいストレートで困る。ワームモンと大輔の賢ちゃん好き好き感がもうそのまんま伝わってくる。ワームモンとブイモンが合体するあたりの、賢ちゃんと大輔の「一つになる感じ」がもう、なんというか、あまりにもそのまんまなので、お父さん困る。加えてこの甘々っぷりがまた。大輔はほんとはヒカリさんが好きなのに賢ちゃんも好きになってしまうあたりがまた。
うう。わたしは見どころを間違ってるのだろうか。気づかぬうちに論点がずれてしまうほどには、まだはまり込んではいないと思うのだけど。
本までは買わないぞう。ここで敗北するとあっち方面とかこっち方面までも買っちゃいそうだ。
第2次本棚計画に向けたステレオの棚の製作に入る。
材料でかなり妥協した。材料は考えていた通り集成材の板を使う。縦板の厚さ30ミリ、横板20ミリとおおざっぱに考えていたのだけど、20ミリの板がない。18ミリで代用することにした。で、30ミリの板が恐ろしく高い。側面の1対の板を用意するのに13,000円ぐらいかかることが判明。18ミリと30ミリの間をとって24ミリぐらいの板がないかと探したが見つからず、結局全部18ミリの板を使うことにした。全部で8,000円ほど。店のでっかい機械でぎょわああああん、と切ってもらって、えんやこらと持って帰る。今日はここまで。
これで入社してから何回言われたことか。第1種情報を処理する人の資格を取らねばならぬらしい。なんか知らんけどとにかく取らねばならぬ雰囲気。情報を処理する人試験は勉強すりゃなんとかなるだろうけれども、英語の試験がなあ。試験の途中で投げ出すからなあ。だいたい、いつ主任に昇進できるかなんて分かったものではない。
めんどくさいから来年にしよう。来年。全部来年。
うー。この人たちは格が違うわ。ソニーのビデオゲーム機PS2のAPIとフリーなライブラリとの間のブリッジをどうしたものかというなかなかかみ合わない議論とその日本語訳。なんというか、こう、わたしは自分の意識の低さがいやになるというか、英語が憎いといおうか。270点というか。
あー。ごめんなさいごめんなさい。このへんの「Kanon日記」へのリンクから来ちゃう大量の人たち。ホンマにすいません。日々すいません。「Kanon」が長らく放ったらかしだという事実を、いままでできるだけ忘れようとしていたのだけど、このへんを読んでいたら思い出さざるを得なくなった。ではひととおり反省したので、気を取り直して、もう一回忘れよう。
さて、少しだけ読んだまま2週間も放置している「ぴたテン」2巻を、最後まで読めるかどうか。なんせ「ぴたテン」である。これを最後まで我慢できないようなら、わたしの退行はまずいところにまで進んだのかもしれない。そう考えると「ぴたテン」を放ったらかしにしているという事実を、思い出すことさえ恐い。あるいは、人間にとって大事なごはんであるはずの情報を、最近は身体が受け付けなくなった気もする。今年の生活が、わたしにとって刺激が強すぎたせいかもしれない。こんなことははじめてなので恐い。
「あずまんが大王」みたいな高級なやつはもうとても読めない。これは娯楽ではなくて、英語の勉強をさせられているみたいだった。
いま季節は冬になった。わたしの林檎さんで「Kanon」が動いた。冒頭の雪降る場面を横目に見ながら林檎さんで日記を書けるとは、なんというぜいたく。昨日、忘れると言ったものの、突然こいつは降ってきてしまった。
棚に関して昨日書き忘れたこと。板の厚みが変わったために横板の寸法が変わったのだけど、店先で計算しなおしたところ計算を間違えてしまった。「のりしろ」となる突起部分の長さを足すのを忘れていたんだな。最もやってはならん失敗をしてしまうとは。なんてこったい。そのために横板の長さが足りないことが判明。
棚の幅を削って「のりしろ」を作ればいいやと一昨日は考えたのだけど、あとになって、それでは中に入れる機材の幅に対してちょっと厳しいことも判明。仕方がないので、縦板と横板に丸い穴を開けて、そこに丸棒をねじ込んで固定する工法に変えることにする。横板の強度がやや不安。まだ組み立てには入らず。
ああ。暖色系の金髪でポニーテールだから買ったのかー。そうかー。わたしは「おっぱいが世界を救う」という刺激的な部分にしか目が行かなかったから分からなかった。この日は、1日にしておっぱいという単語を1年分使った気がする。
来世紀の印象を色で表すと「白」と答えた人が多いらしい。えらく難しい問いだ。わたしにとっては「白」は不気味だ。不定、あるいは不安定な高エネルギー状態。完全なる清潔。蛍光灯。できれば来たるべき夢の未来は、もう少し低いエネルギー状態にしていただきたい。「黒」で結構。
かつて夢みた21世紀は銀色ではなかったか。服なんかも全部。
なんだか動作が妖しいのでCADツールの回路図ファイルを解析してみようと決意。都合のいいように手作業で書き換えようという算段。ファイルはasciiだけで書かれているっぽいのでテキストエディタで開く。で、括弧が山ほど出てくるわりに字下げがないので見にくくてしょうがない。そういやMuleにこういうときのための機能があったなと思い出したので、Mule for Windows、またの名をMeadowで開いてみる。c-indent-line-or-regionで、全部字下げさせてみる。
字下げしてみる。字下げし、て、み……遅っ。0% Doneからまったく進まんではないか。800KBのテキストファイルがかくも強敵だとは思わなんだ。
なんだか、選択した文字列の長さだけではなくて、ファイル全体の大きさにも処理時間が依存しているような気がする。
ああ兄さん。やりすぎです。なにもPowerMac G4 Cubeの下部の妙な隙間まで真似なくとも。そのまんまである。その名はKomodo Server。真似るならもうちょっとかっこいいのを真似ればいいのに、と思う。PowerMac G4 CubeはNeXT Cubeのパチもんだから、パチもんのパチもんを作ってもうるさく言うまいという計算の上かもしれない。
あたしゃ岐阜に2か月ほどいたころに、駅前に「青少年を守る白いポスト」というのがあって驚いた。青少年に有害な図書を入れるんだそうである。どうやって、なんのために、人はここに本をこっそり入れにくるのかさっぱり分からないけれども、なんだかどきどきした。その箱の中には青少年に有害なものだけが選別されて入っているのかと思うと、とても刺激的だ。わたしも、一度ぐらい青少年に有害なものを書いてみたいものである。
大阪ではさすがに白いポストは見つからないけれども、いつも会社の行き帰りのときに通る駅にこれまたどえらい看板がある。「シンナーで君の心もとけていく」という標語が書いてある。広告主の意思に反して、なんだかとても、シンナーをやりたくなるではないか。心がとけていく。なんと魅力的な標語だろう。心を液体の中に捕らえることができるのなら、いますぐにでも見てみたい。色とりどりの塗料のほかに、君の心も溶かしてく。無色透明の有機溶剤がまぶしい。たかがシンナーをここまで大げさに描くこともなかろう。
ずいぶん前に「VOW」3巻の24ページで押切伸一が「シンナーは心をとかす悪いやつ」と看板に書かれた標語を取り上げたのを思い出す。そこで「心をとかす悪いやつ」だなんて一度でいいから言われてみたい、と著者はつけ加える。客観的で、液体に心が溶解していくさまが描かれた「君の心もとけていく」に比べると、「心をとかす悪いやつ」は情熱的で、高い温度で心が融解していくさまを表す、ような気がする。たしかに夏の夜に一度言われてみたいもんである。ここまでシンナーをほめちぎられたらコカインや合成麻薬がナンボのモンであろう。
それから10年。東京都は自殺と犯罪を誘発する本を有害図書に指定すると言っている。東京都もまだまだひねりが足りない。自殺と犯罪を同列に扱うことの違和感はさておき、なんの創意工夫も感じられないので困ってしまう。くだらない提案をするならせめてギャグを入れないと。
音関係の機械たちの棚の工法が変わって、板を丸棒で固定することになった。板に穴を開ける方法を検討。余った板で練習。電動ドリルの刃の不備でうまく穴が開かない。翌日父上が職場で研磨してくることに。本棚をいつ注文したものか。
しかしまあ、考えれば考えるほどに、テレビ屋さんの先行きの暗さにまいる。期待されることは[1]PCよりも使いやすくて[2]PCよりも絵がでっかい、ということだけ。あと[3]再起動しなくていい、というのと。
文章はへぼいのに物言いはえらそう。これはかなり効く。
あはははー。ついにやっちゃったよー。誰かがFPGAの石を発注していると思っていたら実は誰もやっていなかった。はははは。石は今日いるのだ。
うー。東芝からも出た。3,200x2,400pixelを表示できる20.8インチの液晶ディスプレイ。Solarisの動くWSと組で350万円から。ディスプレイだけだと300万円ぐらいになるんかのう。
大面積の液晶パネルが、いつの間にかかなりの歩留まりで製造できるようになったんじゃないだろうか。画素の密度を高くして小面積な液晶パネルを売った方がコストは低いはずだけれども、さすがに数百円から数千円まで安くはできないから携帯機器に積めない。だから需要がない。なれば、とんでもなく高くても買ってもらえる用途にだけ売ろうということで、まずは引き合いの強い高密度大面積な液晶パネルから商売をはじめたということだろう。開発の主眼はすでに大面積から高密度に移っている。紙のような高解像度表示ができる携帯機器はわりと近いところまで来ている、ような気がする。
うう。すごく欲しいじゃないか。どうやって使うかはこれから考えるとして。
そんなこと言ってても、350万円もあったらVWのビートルを買ってきてピンクに塗りなおす。で、乗らない。
ソニーが記録容量40GBの5インチ径書き換え型光ディスクを規格化している。で、2002年に製品化を目指し、それをHPが採用するという話。405nmの青紫色レーザを用いる点は、現在ソニーが提案中の「DVD Blue」への重要な一歩となる、ような気がする。HDTVが広まってしまえば、現在のDVD規格の陳腐化はどんどこ進む。
で、最近の問題はビートルでも液晶でも青紫色レーザでもなく、どれみさんのDVDである。どれみさんのDVDのパッケージがえらくでかいことが大問題である。中途半端に大きく、そして厚い。これを10個も部屋に置けというのか。2年で20個、3年で30個。これだったらLDの大きく薄い入れ物の方が体積が小さいじゃないか。なぜCDの入れ物にしない。わたしの家はレンタルビデオ屋ではない。願わくは10枚一度に発売して、一つの入れ物に収まるようにしていただきたい。幅60ミリもあれば10枚と解説書が入るはず。
最近出はじめた「ウェディングピーチ」のDVDもやっぱり場所を食うやつだった。もう勘弁してくださいよう。まだ心の準備ができてないのに。
音関係の機械を入れる棚はなんとか完成。目の細かい紙やすりで表面を仕上げる。もうすべすべ。外観はちょっとあか抜けないけれど、むしろ目立たないのがいいのだ。そうだよな。なっ。
ここまでの工程を思い起こすとあんなことやこんなことが思い出される。家内制手工業な製品を買う人は、作っている過程を見ちゃだめなのだ。少々問題があろうと、外から見えなきゃいいのだ。そうだよな。なっ。
釘を使わないという目標は達成したからいいのだ。無駄に丈夫だからいいのだ。仕様を満たしているからいいのだ。そうだよな。なっ。
木板の反りがここまで強敵だとは思わなかった。変型しにくい集成材を選んだのだけど。プラスチックは偉大な発明である。
新しく作った棚にCDプレーヤだのアンプだのを移動。これで少し場所ができる。跡地にちょっとした空きスペースを加えて、そこに本棚が建つ予定である。
そこでやっとこさ本棚を注文。今度は高さの大きい資料だの薄くて高い本だのがわんさと入るように棚の段数を少なくとることにする。前に買った本棚とまったく同じものに棚板を1枚追加して7段にする。前回は高さ18cmと21cmの本が大量に入るようにと棚を細かく取ったので8段だった。23,000円ほど。次の土曜あたりに届く見込み。
久しぶりにアナログのレコードを聴こうと思って針を降ろすと音が出ない。いや、音が出るどころか針が溝に入ってくれなくてアームがだばーっとターンテーブルの半径方向にすべっていく。カートリッジを見てみたらコイルの先に付いているはずの針がない。針は小さな小さな細い棒の先に付いているのだけれども、小さな小さな細い棒の途中で引きちぎられて、その先が行方不明だ。
どうも棚にえんやこらと機材を動かしたときにやってしまったのだろう。アームを器具で固定しておくのを忘れたせいだ。たぶん。それにしても引きちぎられるとはひどい。悲しいだろう、悲しいねえ。
そんなわけで日本橋に行ってみる。こういうのって修理してくれるのだろうか。で、買った店に行ってみるとちゃんと針が置いてあるではないか。これなら自分で取り付けられるような気がする。しかし、自分の持っているカートリッジ用の針は品切れらしいので取り寄せてもらうことにする。
7か月ほど前にカートリッジを買ったときは大特価15,000円かそこらだった。いまでもそうだ。針だけ買うと12,000円ぐらいする。悲しいだろう、悲しいねえ。
「はづきちゃんは名監督!」の巻。
あらすじ。学芸会で芝居をすることになった。脚本はすでに横川信子が書いている。裏方と配役を決めることになり、主役はあっさりと瀬川おんぷに決まる。おんぷは歌って踊って芝居もするアイドルである。監督を決める段になりこれまたあっさり藤原はづきに決まってしまう。はづきは映画監督の子なのだ。しかしはづきは乗り気ではない。芝居の練習が始まっても何をしていいのか分からず困る。無理難題を相談にくるスタッフや役者。決断ができない監督。はづきはついに逃げ出してしまう。
感想。はづきさんが監督とは、これ以上ないぐらいに似つかわしくないと思われた。布地をどうするか、書き割りをどうするか、この台詞が気に入らないなんてことをいちいち相談に来られては、あまり強く言い返せないはづきさんにとってはたまったものではない。だから逃げ出したくなるのはよく分かる。ところが、本を理解してからのはづきさんはえらく切れ者に変わる。あいちゃんの言うように、芝居をどう進めるかというのは誰もたいして見えちゃいない。はづきさんだけが分かっていないのではない。だからはづきさんに相談にくる。それだけ信頼されているということなんだな。
のぶちゃんの本がまた。またまた。トラックを駆って荷物を届ける運送屋の配達員。わがままな姫さまに荷物を届けて、ハンコをもらうまでの一苦労。人呼んでカリスマ配達員。ああ。アホすぎる。10歳かそこらにして、このギャグなのかマジなのかというすれすれの線を走れるとは。意味もなく矢田くんにピエロのかっこうでトランペットを吹かせたりと、やりたい放題。おそらく、配役は本を書きながらのぶちゃんの中で決まっていた。
見どころ。大事な台詞の意味をやっと理解してくれた麗香さまに、のぶちゃんが後ろから抱きつくところ。ここの力の抜けたような麗香さまの叫びがかなり見どころ。本の中でやりたい放題遊んでおいて、さらに自分の過去を姫さまの姿で演じさせるとは、とんでもない逸材やも知れぬ。
11月20日が国民の祝日であることを思い出せる人はいまでもいるであろう。そうだよな、なっ。
はたして4疊半の部屋にどれだけの本を置くことが可能か。いま使っている本棚が置かれた、奥行き300mm、幅850mmの面積の床はどれだけの重量に耐えているのか、という問題から考えたい。床の強度の計算法なんか分からないので、現状について考えてみる。
現状では上記床面積の上に本が500冊ほど置かれている。本の重量は以下のように計測した。高さ180mmの本と210mmの本をそれぞれ4:1の比率で混合して重量を計測して平均値を算出している。本は1冊あたり平均200gと求まったので、500冊の本の重量は推定100kgほど。本棚と合わせて120kgほどであろう。
このままでは、どんな負荷か実感がわかない。そこで、紙のかたまりについて考える。いつぞや訪れたカレーの国の某氏の部屋のように、床に直接本を積み上げた高さに変換するのである。本は高さ18-21cm程度で厚み18mm、重量200gとする。この床の上に本の塔は面積比で計算すれば10基ほど建てられる。塔10基として塔1基あたり12kg分の本を積めばいいのだから、60冊積めばいい。高さにして1,200mmほどになる。
高さ1,200mmの紙のかたまりはただものではない。たいしていい造りでもない木造建築には辛そうだ。まあ、重量120kgぐらいで床が抜けるわけはないが、もしこれを目にしたら本棚を眺めているよりは大きい危機感がある。そんな負荷が現在の床にかかっている。高さ1,200mmの紙のかたまりといい勝負をするのだから、高さ2,000mmの本棚の収納能力もなかなかのものである。
本棚に本を入れる以上は手前から本の背表紙が見えるようになっていないければならないので、本の奥行きがあまりないのが救いだ。もし本棚の手前と奥とで2列に本を詰め込んだら、重量220kgのそれはそれは恐ろしいダークタワーがそびえ立つ。
重量120kgで済んでいるからいまは床が耐えられる。この本棚を増やしていく場合、本棚を並行に配置してどんどこ増やしていくと、本棚が部屋の中央部に迫るあたりで床に四角い穴が開くような気がする。よって、柱に近いように壁に沿って本棚を置いていくしかないように思われる。うーん。ありきたりな結論。3台めが必要になった場合はどうしてくれよう。
次は300枚ぐらいあるCDをどうやってコンパクトに収納すべきかが課題である。
JAS0202 09:30AMあたりで行くかのう。新幹線は椅子に3時間座るのが辛いんだなあ。
昨日は「なんでもランキングの日」だった。国民の祝日なのだが、休日ではなかった。
なぜ、腰痛という語はかくも笑いを誘うのか。腰が痛いという表現をそのまんま縮めて腰痛としただけというところにその源があるとみる。
今朝はあんまり腰が痛いので目が覚めた。しかしあんまり腰が痛いので起き上がるのをためらう。腰を変に曲げたまま寝てしまったせいで腰が痛くなったのかと思い、寝返りをうってみる。起き上がって右へ左へ腰を曲げてみる。どんなふうに曲げても一定の強度で痛む。そろそろまずい事態になったことに気がつく。
部屋を出て居間のこたつに座っていてもやっぱり痛い。寝ても起きても腰にクッションを入れて座っても痛い。とにかく、笑ってしまうぐらい痛い。こりゃあ、まずいことになってきましたぞう、と似ていない広川太一郎ふうの声で家族に説明してしまうぐらい痛い。
今日は会社には行けないと悟り、また布団に入る。やっぱり痛い。こんどは用足しをしたくなる。その場から出てきたときにはなぜか腰の痛いのが納まっていたんである。腰の痛みが納まったとなれば病院に行ける。なんだか矛盾しているが、さっきまでは痛すぎて、とてもちびバイクにまたがって病院になんか行けなかった。
健康保険の被保険者の権利を行使すること、これで二度目。厚生年金病院大ホールへゴー。高校3年ぐらいのときの自分のボケを思い出してしまう。
「昨日まで入院しててん」
「え、うそ。どこの病院?」
「厚生年金病院」
「大ホール?」
「なんでライブせなあかんねん。病院やっ」
「大ホールやったら、ようさん患者入るやろうなあ」
「なんでやねんっ」
という会話を思い出して頭から離れないのでしかたがない。大ホールへゴー。
待つこと2時間。くすぐったい触診。さらに待つこと20分。X線で腰椎を撮影。名カメラマンはいい写真を撮ることに夢中で、わたしはかなり恥ずかしい姿態を撮られた。加えて、くすぐったかった。
さらに待つこと20分。写真鑑定。早い話が腰痛であると。
もう笑うしかない。腰が痛いから腰痛だなんて。そんなの、東映「Vシネマ」を「Vシネ」って略すようなもんである。ここまでの触診と写真鑑定の結果から、まず、痛みのある部位からして、尿管結石などではない、とする。そして、どうもわたしの身体の固さは相当なものらしい。どうもこのあたりでもう、典型的な「腰痛持ち」らしい。
そして、腰から下の固さの裏付けとなるのが、脊椎下部の骨の奇形である。ある骨の表面の、へこみがあると期待される部位にへこみがない。そこに、へこみがあることを期待してお隣さんの骨がぶつかってきたらどうなる。ああ。神さま。最後の叫び声は笠原弘子姉さんのごとく。
わたしにできることは、[1]無理な姿勢で重いものを持たない[2]腰を冷やさない、の2点だそうだ。
ケーキを買って帰る。今日の昼食はミルフィーユだ。
ずいぶん前に、がっこで生体関係の研究をしている人の講議でこんなことを聞いた。医師が患者の心臓の音、略して心音を聴診器で聴くことがある。で、患者によっては心音を取るのにえらい苦労をするそうなんである。どうも、白いものを見ると興奮する人ってのがいる。興奮状態だとまともな心音が取れない。だから医師は白衣を脱がないといけない。白衣に相当思い入れの強い人はいずれこうなるのかもしれない。
で、なんでこんなことを思い出したかというと、病院で白い服の医療従事者がどこにもかしこにもいるのを見て、恐くなったからだ。白は落ちつかない色だ。
縦にも横にも1.2倍程度に引き延ばしたい衝動に駆られる箱庭のような複雑な建物で、患者がわんさと待たされている。寝た姿勢のまま運ばれる人が、両側に患者が座る狭い通路を通っていく。白い人たちが力強くもあり恐くもあった。白衣も帽子もストッキングも。なにもそこまで白くなくとも。この恐いまでの清潔感をありがたがるのは、野戦病院にかつぎこまれるときだと思った。
早い話が、白衣の色を淡いピンクか緑あたりにして欲しい、ということなんだけれども。
郵便で分厚い茶封筒が来た。真空管だった。Philips製の軍用品で6922という球。6N1Pの代わりになるらしい。2,250円なり。
うう。昨日の名残で腰に鈍痛。筋肉痛か。電車が走り出したり止まったりするたび起こる、身体内部の応力が気になってしょうがない。衝撃はすべからく腰にくる。もうしばらく、わたしの中では腰がマイブームの予感。
腰について考えていたら、牧伸二のウクレレ漫談を思い出した。
「オバタリアンの条件は、バストヒップとウエストの、くびれがぜんぜんありません。も一つないのが羞恥心」
あーんあんあやんなっちゃった、あーんあんあおどろいた。そうか。わたしはオバタリアンか。くびれがなくて日記に恥ずかしいことを書くオバタリアンか。いまどきこんな古い単語を思い出そうとは。次に思い出す日は来るのか。
突如、腰の劣化を抑えるために泳ごうと決意。週1回、会社の帰りに必ず泳ごうと決意。水曜は定時退社日なので泳ぎに行けるではないか。しかし水着なんて持っていないので延期。来週でいい。来週で。
2台目の本棚が来たら本をどう配置しようかと考えるのがとても楽しい。現在は著者名のあいうえお順で並べようとして破綻しているのだけども、これが2台目の本棚がくればもうちょっときれいに並ぼうってなもんである。某「12 Habit」を片岡みちるのクレヨン王国の単行本の隣に置いていいのか、福永令三の隣に置いていいのか、いやそういう問題ではないのか。
本を整理することでなにが素晴らしいといったら、続き物の単行本で何巻まで買ったかすぐに見て分かることだ。いまの本棚が来るまでは、本があっちの棚こっちの棚、表側裏側床の上天井裏、としっちゃかめっちゃかだった。もう「姫ちゃんのリボン」4巻がいつの間にか2冊になったりするような目にあわずにすむ。
保守党の松浪健四郎が議場で水をまくときのフォームはよかった。なにかに似ていると思ったのだが、今日職場で思い出した。突然動き出すのは、リング上のグレート・ムタのようだ。保守党ってのは保って守る党というぐらいだから貴族のためのサロンだと思っていたのだけど、乱暴はいかんなあ。
家族総出で車に乗って買いものに行った。バンダイの「パトレーヌコール」2,100円、「リズムタップ」1,625円、「ピコットポロン」2,145円。3割引ほどだった。箱に描かれたどれみさんが、わたしに買って買ってという。お安くしとくっスよ、という。そう聞こえた。なんでこんなに愛らしいんだよう。
商売上手なのか罠なのか。もう女児玩具売り場にいる間だけはどれみさんのことしか考えられなくなって、3個も買ってしまう。誰もいないときにこっそり動作確認をせねば。
あと水着一式と冬用のコート。合わせて17,000円ほど。一日で24,000円も使ってしまった。
今日は買いすぎて疲れたよ。なんだか眠くなってきちゃった。おやすみパトラッシュ。
2PM就寝。6PM起床。ヘッドフォンを近所の家電量販店に買いに行く。ソニーので7,000円ぐらい。安いのしとこうと思っていたのについ、思わず。5,000円ぐらいのもあったけどなんだか重低音爆発なのばっかりで買えなかった。3,000円ぐらいのはえらく乾いた音でこれも買えなかった。
Close 2Uで久しぶりに遊んでみる。主人公は相変わらず涼。
しばし潤子姉さんの話を復習。切ない感じ。進めるのが難しすぎ。潤子姉は難しいということを思い出したので、再びあずささんに目標を定めてやり直す。おおそうだ。温泉でエラいこと事件のあと放ったらかしではないか。あずささん話の恥ずかしさを思い出す。
メモ。7/30ごろにあったらしいカラオケ大会に参加できず。あずささん話に必要なのかどうかは不明。
さーもんぴんくというゲームがある。うー。そんな、肌もあらわに。とりあえず服を着ておくれ。
「ぴんくを可愛がってあげてください」と言われたら可愛がらないわけにはいかんじゃないか。これが山吹色だったり若草色だったりうぐいす色だったり江戸むらさきだったりその他大勢だったら、ほんとうにどうでもいいゲームなのだけど、ピンク色と来たらば。ひょっとしたら、ひょっとするのかもしれない。わたしと同じ病気の人が作ったのかもしれないじゃないか。
上記の紹介を読んでみる。うー。一目見てえろい。おおむねえろい。そういうゲームなんだな。幼なじみの美桃(みもも)さんに小悪魔がとりつく。生意気な美桃は服従の娘「ぴんく」に変わる。うー。アホだ。生意気、小悪魔、ぴんく、のあたりに同病の匂いがする。美桃というへんな名前がもうすでに病的である。これでもう少し髪が長かったり背が低かったり性格がとんがっていたら迷わず買いに行くのに。走って。
すでに、どんな話なのかではなく、どんなピンクなのかという点にしか興味が涌かない。美桃さんとぴんくはどんな娘なのか。どれぐらいピンクの色をうまく使えるか。どれぐらいピンクが好きか。アンタのピンクはどんなのだ。買えば教えてくれるのか。
これが勝利なのか敗北なのか。報告はこのあとすぐ。
下校の音楽は標準的にはドヴォルザークの「新世界より」らしい。しかし中には「エーゲ海の真珠」だったという人もいる。原曲よりむしろポール・モーリアのカバーしたやつか。ダニエル・リカーリの「は〜あ〜ああ〜」にめろめろになってから帰るのか。さらにお昼の音楽は「恋はみずいろ」っ。ぶははは。古っ。
変なことでも積み重なればいずれ変でなくなってしまう。しかしその積み重ねは変てこエネルギーを蓄積している。工場の昼休みにスキャットマン・ジョン、終業に「ランバダ」というのを発見したという人もいて、この世界にはかなり濃いものを感じる。
わたしが小学校の頃はどうだったか覚えていないけど、中学校の頃はわたしは「放送委員」ってのをやったことがあって、そのときは曲をいろいろ変えていたような気がする。
今朝、家具屋さんから電話あり。本棚は今日届くとのこと。今日わたしが帰ったら部屋に設置の予定。
ソフマップは夜の9時まで開いていることを知る。会社は8時に抜け出す予定だったのだけど、7時半に抜け出せることが分かった。十分間に合うではないか。
7時半に退社。駅まで走る。勢い余って快速の発車時刻の5分前についてしまった。走りすぎ。暑くてどこか痛い。8時10分頃に梅田のソフマップギガストアに到着。まあこれが。新しく店ができて2日目というだけあって、どえらい大賑わいである。8時を過ぎても会社帰りな方々がわんさかと吸い寄せられていく。
問題の「さーもんぴんく」はあっさり見つかったのだが、作戦はまだ終わったわけではない。レジまで問題のブツを持っていかなくてはならない。日本橋のソフマップ7号店ならばそっち方面売り場にはそっち方面用のレジがあるのに。あるのに。わたしたちは(わたしたちは)、このピンクの箱を持って(このピンクの箱を持って)、並ばなければなりません。このピンクの箱の恥ずかしさは、そのピンク色だけによってなされるのではない。箱に描かれたピンク髪の娘っ子の姿態がとくに問題である。せめてパンツをはいてください。ぱんつを。
で、一番近いレジまで歩いていったらば、そこは入り口のそばでとんでもない行列ができている。1列にずらっと。40人ほど。この行列、なにか見覚えがないだろうか。別のレジにも行列ができていて一番後ろでは店員さんが「レジ最後尾」と書いた紙を持っている。ああ。この雰囲気に見覚えがあると思ったら夏冬のまんが大会じゃないか。ソフマップも大手になったものよの。
この恥ずかしいピンクの箱を持ったまま行列に加わることは、穏やかに、そして冷ややかにわたしの自我を削る行為なので、ここでの購入はあきらめることにした。ピンクの箱を持ったまま閉店時間になったらそれはそれはみっともない思いをすることになるだろう。午後8時20分、店を出る。
このあと、梅田から難波へ向かおうと地下鉄御堂筋線の駅に向かうのだけど、ふだん通らない道を通って迷ってしまったりなんかしながらなんとか電車に乗って、難波に着く。8時40分、ソフマップに着く。こっちの店でも問題のブツはあっさりと見つけることができた。テレホンカードの付いてない方はおよそ7,000円。高っ。そっち方面の買い物はそっち方面専用のレジで支払った方がナニかと痛くない。午後8時50分、店を出た。袋の外から透けて見えるピンクの箱と、細い筒状に丸めたポスターを持って、もときた道を全部たどって家まで帰る。
残業65,521円。休日出勤3,178円。アレしてナニして手にするのが190,271円。
そんなわけで。「さーもんぴんく」で遊んでみる。
あらすじ。三田村健一の祖父の遺産の一つに悪魔召還の秘術があった。なんか知らんがとにかく召還である。召還した悪魔は召還主の命令をなんだって聞いちゃうというではないか。悪魔を召還するには媒体となる人間の身体が必要で、つまり、媒体となった人間は主人の命令をなんだって聞いちゃうことになる。媒体にするヤツぁこの世に一人。ことあるごとになにかとつっかかってくるわ、いきなり殴りかかってくるわの恐怖の幼なじみ小峰美桃(みもも)以外には考えられなかった。
祖父の残したメモ書きの通り、美桃のピンク色の髪の毛を使って儀式を行うがなんの変化もない。こんなうまい話があるはずがないとあきらめていた矢先に、美桃が部屋に飛び込んでくる。まあ、これが。恐怖の幼なじみとはまったくの別人格で健一の命令を聞いてくれちゃうんである。服を脱げといえば脱ぐんである。ああ。なんてこったい。聞くところによると美桃が夕食を食べている最中に健一に召還されてしまい、走ってきたらしい。目の前で裸になられて腰を抜かす健一の股ぐらをごそごそ。美桃の姿をした悪魔は、健一の服を脱がせて悪魔流の食事を始める。はむ。そして食事は終わるのだった。
健一は美桃の姿をしたそれに「ぴんく」と名付ける。ぴんくは一週間しかこの世界にいられない。そして美桃の意識が覚醒していないときにのみ、ぴんくの人格が現れる。生意気な美桃と、世間知らずで従順なぴんくの二人との、不思議なつきあいが始まる。
感想。世界初のぴんくゲーと勝手に推測しているのだけど、同病の匂いがあまりしない。あるとしたら、美桃に枝毛があるとうそをついて髪を1本抜く場面でのその美しさに関する記述だとか、インターフェイスがなにかとピンク色だったり、幼い頃の美鈴お姉ちゃんと遊んだ記憶だとか、妙なところでわたしのツボを突かれる。総じて軽く、ぴんくの世間知らずという設定に沿ったギャグが多い。ナニな場面になると突如として記述がまったりとする。
1回目を終わらせたのだけど、まあこれが大失敗。美桃をからかって遊んでいたら嫌われてしまったらしく、どういうわけか美桃の姉である担任の先生、美鈴姉さんとまったりなことになってしまった。もうまったり。ああ。そんな。だって美鈴姉はピンク髪じゃないしー。もともとあたしは、従順なぴんくには興味があまりなくて、生意気な美桃さんが好きっぽかったのだけど、これが裏目に出たらしい。たぶん、ぴんくとあんなことやこんなことに至るうちに、健一は美桃さんのことも好きになっちゃうんじゃないかと推測。次への反省点とする。
美鈴姉との禁断の関係はそれなりにしんみり。それはもうあんなことやこんなことに及ぶのだけど、それなりにしんみり。最終的に二人の関係がうまく行ってしまうあたりでうさんくささを感じてしまうのは、美桃さんを追っかけるはずが2進数の運命のいたずらで妙な進展になってしまったものだから仕方がない。美術部の後輩の娘だとかなぜか女性同性愛者の同級生だとか、他の登場人物がらみの進展をもうちょっと追わねばなるまい。
ただのえろいゲームなのか、それとも話を読ませようとしているのか。笑わせようとしているのか。
本棚の設置の続き。2台つながったでっかい本棚は4畳半の部屋ではかなりの威圧感。本を詰め直す。薄くて高い本の扱いに迷いまだ入れていない。現時点で、すでにかなり恥ずかしい本棚である。
2回目終了。美桃さんな話に持っていこうとそれらしき選択肢を取り続けてみる。まあ、これが気持ち悪いぐらいに甘々な話に。うげー。中間はないのだろうか。
しかし。なんか、こう、ありがちだと分かっていても抜けだせない感覚を得る。美桃さんの強がりと素直さの行ったり来たりだけで、いい気分になってしまう。もう、すんげえ恥ずかしい。とんがった美桃さんが見せてしまう素直さがもうすんごく恥ずかしい。もうすべての行動が恥ずかしい。児童文学のごとく恥ずかしい。願わくは、追いかけられたりどつかれたりする日常が、ずうっと続いてほしかったのに。
ぴんくがなぜか毎朝訪ねてきて、えらく激しいやりかたで起こしてくれる。ついでにえらく激しい朝食を作ってくれる。カドミウムイエローのスープを飲まされたりする。これらが日に日に人間の常識の範囲内に近づいてくる。このあたりは、美鈴姉の話だと浮き上がってしまうのだけど、今回のように美桃さんの話ではこの娘がしだいに変わっていくさまと対照的なものに見えてくる。も一つ、ぴんくの記憶が美桃の記憶に影響していることが分かるあたりでしんみり。
2回目なもんで既読の台詞は早送りにする機能を使って進めるのだけど、えらい短い。この程度だったのか。あと、ナニな行為がやたらと多くて、ナニな行為そのものが話の核になってるんじゃないかという勢い。先入観なしで評価しているのだけど、やっぱこれはナニなゲームだと思う。
白泉社の「MOE」という雑誌がある。絵本だとか童話だとかが好きな人用の雑誌。サンリオの「詩とメルヘン」とどうすみ分けているのかはよく知らない。で、たまたま本屋さんの児童小説の売り場で「MOE」を見かけたのだけど、表紙に「新世紀、素敵な『魔女』になろう」と書いてあったので困った。わたしも弟子にしてください。でも決して魔女の秘術が記されているわけではないことに気がつき、買わず。
書けば書くほどに恥ずかしくなってくる。
3回目はぴんくの話。冒頭、召還されたぴんくがナニしたあとに、美桃とぴんくのどちらを好きになってしまったかという選択肢で、ぴんくを選ぶだけで話がかように変わるらしい。へぼっ。美桃を選ぶとそれ以降、美桃さんか美鈴姉としかくっつかないらしい。一度やり直してこの2人と仲良くならない方向で話をすすめると誰ともくっつかないまま終わってしまったので、冒頭の選択肢で分岐しているのだと気がついた。
ピンクの病ここに極まる。意地悪な美桃にではなく健一は美桃の中のぴんくを求めるのだけど、これは悲しい。美桃はただ媒体にされて悲しいわ、健一は実体のないぴんくを追っかけ続けて悲しいわでダブル悲しい。わたしも他人事でなく悲しい。ところが満月の別れの前に、健一は美桃の中の本当のぴんくの姿を見るのだけど、これまたピンクの髪なおねいさんなもんでもう大変である。わたしが。この世に実体化した本当の姿のぴんくと、別れの前にはやっぱりナニな行為に及ぶのであった。そして健一は自分の中のぴんくの記憶を消してほしいと願う。
さんざん媒体に使った美桃をすまなく思いながら、魔法のために急速に薄れいくぴんくとの記憶にすがりながら生きていく。二度と会うこともないピンク髪の小悪魔が残した黒い羽は、いずれカラスの羽にしか見えなくなる。健一は抜け殻のようになって、美桃の顔を見るたびに意味不明な呪文をつぶやいている。悲しいだろう、悲しいねえ。
ところが。最近様子がおかしい健一を美桃が心配して教えてしまう。美桃の夢に出てきたピンクの髪の娘が告げた「真実の名」を。で、健一は「真実の名」を使って本当の姿のぴんくを召還してしまう。真実の名を知られたぴんくは悪魔の掟に従い、一生召還主に仕えて暮らすのでした。めでたしめでたし。健一の、一生浮気できない生活の始まりである。
で。真相に薄々としか気づかぬ美桃は放ったらかし。ダブル悲しい。
アナログプレーヤの針が昨日届いたので交換する。音が出ることを確認。
以前より噂されていた、あずまさんの部屋一斉家宅捜索は今日は行われないとのこと。干していた布団を入れておひるね大会を決行。今日はいい天気だ。最高のおひるね日和である。
突然思い立って「メイド狩り」の続き。結末の一つであるハーレムを見る。4人の娘たちをナニする回数を数えておいて、だいたい7回ずつぐらいにしておけばよい。必要な回数は正確には分からないのだけど。まだ絵が揃わん。
昨日の夜、本棚に突っ込んだままになっていた本を整理していた。篤見唯子の「オトモダチ」が出てきた。1995年に出た薄くて高いほたちびな本。1996年の3月頃に池袋のアニメイトで買ったような記憶がある。おお。これだ。あのころ浸っていたへろへろ感。
先月修羅場を見たときの基板が発注先で完成し、今日の昼に到着。当初は基板の面積はB5版ぐらいあるという話だったのだがずいぶん小さくなった。484ピンのBGAの配線をするために恐怖の10層基板になったのだけど、その副作用でずいぶん面積が小さくなってB6版ほどになった。表面も裏面もコネクタがびっしり。基板のことはよく知らないけれど、見た瞬間にとにかくすげえと思ってしまう。
恐怖の10層基板なもので、配線ミスはすなわち基板の死を意味する。基板の内層の配線は変えようがない。わしは不器用なもんで、たぶんどこかでやっちまっているような気がする。そういうことってあるよね。なっ。
ボスから報道の調査を仰せつかってしまい、新聞を山ほど積み上げてめくりにめくっていた。電波新聞と日経新聞と日経産業新聞。バンダイが「キャラクター」に関する研究に助成金を出す、と書いてある。むむむう。たかが100万円の助成金を欲しがる機関といえば大学の研究室か。むむむう。そういう大学の研究室に行きたいぞ、あたしゃ。
また、ウチはウチで、キャラクターものの商品を拡充する、と書いてある。ようやく売れる家電製品の条件に気がついたか。回らない電子レンジだとか排気の出ない掃除機を苦労して作らなくとも、キティさんを筐体に印刷しておくだけで売れるのだ。むむむう。回路設計よりも意匠設計の部署に行きたいぞ、あたしゃ。机の上にキティさんを置いて仕事したいぞ、あたしゃ。それ以前に大学の芸術学部には入れないぞ、あたしゃ。
一向に目的の記事は出てこず。
せらちゃにて「萌え」感情について考える機会を得る。
定義[1]「萌え」は感情を表現する語で「好き」と似ているが、あいまいに区別される。
定義[2]「萌え」は主に架空キャラクターへの感情表現に用いられる。
定義[3]「萌え」感情は論理的に理解することは困難で、感じるしかない。
定義[4]「萌え」感情はとても軽い。
上記を踏まえて。
理解[1]「萌え」は浮気もののあたしにピッタリ。ピンク髪、エプロンドレスなどとっかえひっかえも可能。
理解[2]「萌え」は「好き」の部分集合っぽい。ピンク髪の娘というだけで振りむいてしまう人がここにいるけれども、髪単独では面白くない。その娘の一部分について萌えといえば萌え。その娘のことが好きといえば好きなのかも。
理解[3]「萌え」感情の対象はかわいい。もう、とにかくかわいい。感極まって床の上をごろんごろん。
理解[4]「萌え」感情は恥ずかしい。その軽さゆえに、さげすまれがち。
なぜだか会社の帰りに白泉社の「MOE」12月号を買ってしまう。うむむむ。かなりディープな雑誌であった。表紙に、アート・エンタテインメント・ワールド月刊MOE12月号、巻頭大特集「新世紀、素敵な『魔女』になろう」と書いてある。この表紙を見てもなんの雑誌かさっぱり分からんあたりがイカす。
開いてみると、絵の投稿ページがあったり、短い小説があったり、そこだけ数ページの絵本になっていたり、書評があったり、まあ、とにかく絵本の好きな人用の雑誌である。しかしまあ、なによりものすごいのは、今月の巻頭大特集である。
魔女の家はときめきと不思議がいっぱい。いたるところに魔法グッズが見られます。いい魔女の家はやさしいハーブの香りに包まれていてうっとりしますが、悪い魔女の家はなにかが腐ったような嫌なニオイで鼻がひしゃげそうになります。(19ページより抜粋)
「おジャ魔女どれみ」の第1話でどれみさんが読んでいそうな記述である。わたしの期待した通りのことが書いてあったので思わず目を引かれたが、重要なのはこんなことではない。重要なのは、この特集にただよう、なんかこの雑誌はエラいことになってるなという感じである。
「魔女の宅急便」の原作者、角野栄子に魔女を語らせている。魔女に興味があるという読者からの便りが多いと述べる「MOE」編集者を介して、角野は「魔女のまなざし」が大切だと説く。垣根に登り、向こう側とこちら側の両方を見通せる人。常に反対の角度で見られる人。このあたりはまったく共感する。あたしも魔女見習いにしてください。しかし、ちょっと待てよと。
わたしも人のことは言えないけれども、魔女になりたい、魔女に興味がある、という意見を読者が寄せてくるというのは、なんだかはっきりしないけれども、すごいことのような気がする。そんな、果てしないことを手紙に書いて送るとは。「わたしはちびうさちゃんが好きです。麻布十番の公園に舞い降りる日を待っています」と、わたしが講談社の「なかよし」編集部に手紙を送るかのような、そんな絶望的な遠さがある。せめて編集部にではなく「美少女戦士セーラームーン」の原作者の武内直子に送るべきところだけれども、それでもシルバーミレニアムは遠い。
「MOE」にただよう、エラいことになってる感はとても刺激的なのだけど、これが商業出版として成り立っているのか不安になる。A4版フルカラー106ページ。760円。
「さーもんぴんく」を何度もやり直しているのだけど、一向に美鈴姉とぴんくと美桃さん以外の話になってくれない。由貴姉と果歩嬢の道に踏み込めない。ちゃんと分岐を記録していかねばならんのか。とにかくわたしは局所解の落とし穴にはまるんで困る。わたしみたいなのは、仲の悪い家族と舟に乗ったら殺されるのだ。
あ、あかん。あきまへん。あずまさんってば最近変であります。「さーもんぴんく」でちょっと壊れたのやもしれない。漢の中の漢のための、えろいゲームの中のえろいゲーム。「Luvllatio * Maniax」をうっかり買ってしまいそうであります。定義されたジャンルがすごいぞ。あまりのすごさに感極まって片仮名五文字も使っちゃうさ。「徹底フェラチオ専門ノベル」ってなんなのさ。
このレビューをうっかり見てしまい、めっちゃ笑った。台詞がエラいことになっていて、そこでもさんざん取り上げられている。ずうっと下の方の「あ、あたし、フェラチオ部ってあったら絶対入っちゃうっ!」のあたりで倒れそうになった。これを書いた人はすごい。すごいアホだ。
で、片仮名五文字をここに書くことはかなりためらわれた。さっきアクセスログを見ていたら、検索エンジンから「乳首 電極」というえらく痛そうなキーワードでうちの日記に飛んできてしまった人がいて、あたしももうちょっと言葉を選ばねばと思ったのだった。
追記(2000/11/29)。これを掲載すべきか否か、1日悩んだ。
これは青少年に有害だ、などとえらい人に言われるなんざ、わずらわしいと思えばわずらわしい。名誉と思えば名誉。残虐な絵を撮って、それを見た人がこれは残虐すぎる、と言ったってそりゃあほめ言葉でしかない。わたしはそんなの好きじゃないけれども。それでも、表現は自由である。
公開前の映画を見た主婦の人が、この映画は有害ですから先生の力でなんとかつぶせないでしょうかとかなんとか言ったんだとえらい先生は言う。その主婦もすごいがそのえらい先生もすごい。殺人事件を起こした人が「あの映画を観た」って言ったらアンタ、どう責任取るんだ、と言ったえらい先生もいる。簡単に他者のせいにしてしまうわれわれの考えに問題があるのだということは考えもしない。
かくのごとく程度の低い日本国民には有害だから消し去れというのなら、言いたいことの意味は分からなくもないけれども。たかが映画に何を言う。世界一つまらない毎日新聞の「アサッテ君」であろうと、大学教授の撮った性交渉の場面であろうとも。それでも表現は自由である。
定時退社日。ついに。会社帰りに泳ぎに行く作戦を決行。たいして広くないプールを行ったり来たり来たり行ったり。歩いたり歩いたり。もう10年ぐらい泳いでいないのだけどもなんとか泳ぐことができた。後ろには進まなかった。2時間半ほどプールにいたのだけど、そろそろどこかを痛めそうな気がしてやめることにした。いま、両肩が痛い。
「さーもんぴんく」で行き詰まったので「Close 2U」に戻ってくる。あずささん話の続き。
風呂場覗きであんなこと事件を経て、庭でもっとエラいこと事件も経た。で、そのあといい感じになっていくのも見た。そうだ、以前に同じ話を見ているではないか。前にやったときの結末では、涼はプロのサーファーになるのをあきらめ、あずささんとは友だちとして続いていったのだった。今度は大丈夫だと思いたい。
同人版の頃からナニな記述にえらく気合が入っているのは相変わらずで、もう温泉旅行の部分を読み終わるのにえらい時間がかかるのだけど、まあこれがきれいに書かれているのでつい読んでしまう。普段のマップ上の会話はあってないようなものなので登場人物はそれぞれのイベントの中で描かれることになるのだけど、花火大会や夏祭りだけでなく、ナニな場面を読み飛ばしてしまうと重要な記述を見落とすことになりそうな気がする。
あずささんは面白おかしい。寂しくても、明るい。でもこれは強がりと言うよりも、むしろ、逃げである。いや、逃げというよりも生活の知恵みたいなものだ。衝撃をじわっと受け止めて、またじわっと後ろに逃がしてやる。こういうヤツの考えることは、なんとなく、分かる気がする。
会社の古い計算機にWindows 98を入れる羽目になった。実に不毛な作業である。Windows 95が入っているのだけども98じゃないと動かないツールがあって、そのために98を入れないといけなくなった。計算機が古いといっても333MHzで動くPentium IIが入っているのだから、まだまだ新しい。
その計算機はソニーのVAIOという名前のものでミニタワー型のもの。もともとWindows 95が入っていたのだけれど、メーカからWindows 98のCDは以前送られてきたらしいのだ。で、そのCDが手元にないものだから仕方なくほかのCDを使って入れることにする。ライセンスはあるのだからいいだろう。Windows 98 2nd Editionを入れて再起動すると、Windows保護エラーというつれない返事。そのままお亡くなりになる。起動しようとすると必ずお亡くなりになる。では2nd Editionじゃない古い方のWindows 98を入れたらどうなるか。
やっぱり動かないんである。じゃあ、なんだ。過去にソニーから送られてきたというWindows 98のCDはひみつのCDなのか。このCDを見つけださんことには断定できないけれども。ソニーのwebを見ても、マザーボードのBIOSだとか修正パッチのようなものは見つからない。Windows 98を入れるとまずいことになるというような記述も見つからない。
原因がさっぱり分からないので挫折。さらばVAIO。
研究所内の技術展示会があったのでのぞきに行く。説明員じゃないので気楽なもんである。質問しまくる。さすが社内。答えてくれまくる。
むむむ。昨日泳いで帰ってきたのに、夜中の2時までC2Uで遊んでいたのがまずかった。全身がだるい。
うう。腹が減る。朝に時間がなくてパン1個しか食べなかったのだけど、昼食をはさんで午後5時のいまごろになって、えらく腹が減る。ケンタッキーフライドチキンで、チキンを5個ぐらい休みなく食べたい気分。チキンだけ。無理なら、餃子の王将で餃子4人前を食べたい気分。餃子だけ。なぜいまごろになって腹が減るのか。身体はいま本能的に栄養を蓄えなければならぬと判断しているのか。そんなに脂肪を蓄えたいか。
「さーもんぴんく」と「シャーマンキング」は発音が似ている。
絵をスクリーンに映し出す、プロジェクタ用の液晶パネルってとんでもない解像度だということの重大さに気がついた。ごくおおざっぱに書くと、液晶パネルに光を当てて、そこから出た光をレンズで拡大してスクリーンに映し出すのだけど、液晶パネルはだんだん小さくなりつつ、同時に少しずつ画素密度を上げてきた。
たとえば、ハイエンドな機種に載っているものだと、対角1.3インチで1,024x768pixelのものが載っている。アスペクト比1:1.25として、横幅1.02インチ。その中に1,024の画素が詰まっている。ということは密度は1,000dpi。プロジェクタだと液晶パネルを3原色に合わせて3枚使うので、この液晶パネル1枚だけだとモノクロになってしまう。同程度の微細加工技術で1枚だけで3色出せるようにしようと思ったら、解像度は色の数の平方根で割って、だいたい580dpi。この画素密度を保ったまま3インチぐらいの板を作ることができれば、紙を使わないメモ帳が作れそうな気がする。それも、とんでもなく画質のいいものを。でも、きっと、それはまだしばらくは無理なのだ。
いままでにもこんなとんでもなく高密度の液晶が作られていたんじゃないか。いままで見落していた。いままでは単純に画素の数だけに目を奪われたり、また板の大きさだけに感心したりしていたのだ。ノートPC用だとかに使われている液晶パネルはちょっとずつ大きくなって、ちょっとずつ画素数も上げてきた。一方ではとんでもない解像度の液晶パネルが作られているのに、わたしはそんなことにも気付かないし、とくにパソコン周辺技術ばかり追っかけていると誰も教えてくれない。
で、ここからは予想なんだけれども、画素密度を上げる技術と大きな面積の板を作る技術というのは、まったく独立に発達してきたんじゃないだろうか。IBMと東芝から相次いで、大面積で300dpiの液晶パネルが発表されているというあたりに、面積を小さくしながら画素密度を上げてきた技術と、面積を大きくしながら画素数を上げてきた技術の両者が、やっと歩み寄ってくれたかのような印象を覚える。