ボランティアという生き方(2)
ボランティアという生き方(1)より続く
ボストンのスラム街で、ハーバード大学の学生が子どもたちと遊んだり勉強を教えたりするボランティア活動をやっている。ゼミナールの一環としてではあるが、大学生たちは使命感に燃えて子どもたちに接している。彼らは勉強だけでなく、子どもたちを性暴力や麻薬から守るため、地域のマフィアと対立することもある。当然、そのような活動を行う学生たちは、子どもたちから兄や姉として慕われ、尊敬され、スラムの大人たちからも賞賛される。だが、その賞賛や尊敬は、やや屈折したものであることが報告されている。
ある例で、子どもが突然学生にきいた。「ねぇ、これってなんのため?」「これって?」とその大学生は思わず聞き返した。それが、自分のボランティア活動の理由を尋ねているのだとわかると、なんと答えていいかわからず黙り込んでしまった。人の助けになりたいとか、キリスト教精神の為とか、ここへ来ると楽しくて自分も元気づけられるからと答えようとしたが、肝心なことがぬけていたからだ。子どもたちはそれを察して「先生、答えなくていいよ、先生のこと好きだから」と慰める。意を決して、その学生は「この質問になかなか答えられなかったのは、ここに来るとみんなに会えて楽しいってことがあるけれど、僕の履歴書の内容を良くするためってことも絶対あるからなんだ」と告白すると、子どもたちはけろっとして、「気にしなくていいよ、先生はりっぱだよ」と何事も無かったかのように笑いさざめいていた。
別の例では、スポーツも学問も万能という学生が献身的に活動している。とてもかっこがいいので、たちまち子どもたちの憧れの的になる。教えるのも上手で、子どもたちの成績がふんふん上がる。しかし、子どもたちは彼を「先生」とはよばず「兄貴」とよんでいる。これは気安さのためではなく、逆に溝のようなものが感じられるとその学生は言う。何人かの子どもにインタビューするが、よくわからない。そのうち、ある子どもがこう言った。「兄貴は確かにすばらしい人だが、それは俺たちが助けているからなんだ」子どもたちは、羨望と同時に、自分と彼との距離を正確に感じているのだ。
著者は、教えようとした相手から逆に教えられることが多い、と書いてから、「私達は奉仕させていただいているのだ」という、ドロシー・デイの言葉を引用している。従って、むやみに相手を賞賛することも、自分を卑下することも必要ない、と結んでいる。
本書は、ボランティアに入る側としてハーバードの学生のような恵まれた境遇の者ばかりとり上げているわけではないが、これらの例からわかるように、本書のスタンスとしては、「助け−助けられる」という関係にしぼっている。著者はいつも「助ける側」にいた。それでも、これだけ「助けられる側」の気持ちを拾い上げているのはりっぱという他はない。後は、「助けられる側」の本を待つのみだ。
ボランティアの学生が帰ったスラムに、また夜がやってくる。マフィアのお兄さんたちも帰ってくる。その中で、夜明けを待っているのは、子どもたち自身なのだ。