ボランティアという生き方(1)
前回、シルヴァスタインの『与える』という絵本から、木を介護する人(ボランティア)、少年を障害者におきかえて、その間の「円熟化された関係」について若干触れた。その「円熟化された関係」とはどういうものなのだろうか。
それは、ボランティア活動をどう「評価」するかということと関係する。全くの自発的な行動なのだから、ひと様からの評価はどうでもいいようなものだが、ほめられれば励みになるし、何かよくないことがあれば改める必要もある。
とはいえ、評価される者はボランティア側であって、障害者や被災者といった当事者本人ではない。どんなにほめられようが、けなされようが、当事者本人の状態がボランティアが関わる以前よりも何かしら改善されるのでなければ、空しいではないか。しかも、改善が目に見えなければ、今度は果たして自分のやっていることが意味あるのかどうか疑問がわきおこる。
しかし、誰からみての「改善」なのか? 当事者は援助を率直に喜ぶ一方、そもそもこの人は、何ゆえに我々にかかわってくるのか、という、より根本的な疑問があることを忘れてはならない。何か裏があるのではないか、自分たちは利用されているのではないか、という疑念なのだ。さらに援助を受ける我が身が、援助に値するかという自身に対する疑念が起こる。
本書は、アメリカのボランティア活動の実際の問題点を、かかわる側から細かに分析している。要約すれば、ボランティア活動はこの両側の疑問に突き当たらざるを得ないということなのだ。特にアメリカでは、大学や企業が積極的にボランティア活動を推奨あるいは義務化しており、単位認定や採用の際には必ず参考にされる。援助される方もそれを知っている。(日本でも似たような状況になりつつあるので、興味のあるところだ)
さて、厳として援助を必要とする状況が存在するからといって、信用詐欺とならずに、お互いに関わり続けることは可能なのだろうか。本書に引用されている具体的な事例を通して、考えてみたい。