洗礼・聖餐・堅信

− 聖 餐 −

「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタイ福音書26章26節)

 聖餐式には「パンとぶどう酒」が用いられます。それ自体は普通のパンとぶどう酒です。そのパンとぶどう酒が「取って食べなさい。これはわたしの体である。これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われ、「このように行いなさい」と言われた最後の晩餐でのイエスのみ言葉に結びつけられるときに、聖なるパンとぶどう酒になるのです。
 パンは、私たちを罪と死と悪魔の支配から解放し、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さるために十字架上で引き裂かれたイエスの体であり、ぶどう酒は流されたイエスの血です。聖餐において私たちは、そのイエスの体であるパンと流された血であるぶどう酒をいただくのです。
 洗礼式が一生に一度であるのに対して、聖餐式は繰り返し行われます。それは、聖餐において私たちが洗礼の約束をたえず確信するためです。洗礼の約束とは「罪の赦しをもたらし、死と悪魔から救い出し、信じるすべての者に永遠の救いを与える」ことでした。
 弱い信仰しか持てない私たちはたえず聖餐に与り、洗礼において与えられた神の約束に立ち帰り、神の愛と恵みに生かされていることを感謝し、新しい力を与えられて困難なこの世の生活に遣わされるのです。ですから聖餐は−それにおいて洗礼の約束に立ち帰ることですから−イエスを「主」(救い主)と信じて洗礼を受けた者だけが受けられるのです。
 洗礼も聖餐も共に神の特別な恵みであって、私たちがそれを受けるにふさわしい人間であるから洗礼を受け、聖餐に与るわけでもありません。全くそれに値しない者であるにもかかわらず、ただ神の一方的な恵みに招かれていますので、私たちはその神の愛に感謝して聖礼典に与るのです。
 説教が「見えない神のみ言葉」と言われるのに対して、聖礼典は「見える神のみ言葉」と言われます。それは、水やパンやぶどう酒という目に見える物質を用いてそこに神のみ言葉が示され、それによって神の恵みが与えられるからです。ですから、聖礼典は「恵みの手段」と言われているのです。私たちは説教や聖礼典という手段を通して、神の恵みをいただくのです。

「だれが、礼典にあずかるねうちがありますか」という設問に、ルターは『小教理問答書』で「『罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのために与えられ、流される』とのみことばに対して、信仰をもつ者こそ、まさしく、ねうちのある、ふさわしい人です。しかし、このみことばを信ぜず、疑う者は、ねうちのない、ふさわしくない人です」と断じています。
 み言葉に信頼する者こそ、聖礼典(洗礼・聖餐)にふさわしい者です。

(恵み野教会牧師 藤井邦昭)


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