洗礼・聖餐・堅信

− 洗 礼 −

「信じて洗礼を受ける者は救われる。」(マルコ福音書十六章十六節)

 今月より三回シリーズで「洗礼・聖餐・堅信」について学びます。このうち聖礼典は「洗礼」と「聖餐」の二つです。「堅信」は聖礼典ではありませんが、聖礼典に次ぐ大切な儀式です。聖礼典はキリストの設定(キリストが行うように命令された)に基づいています。第一回目は「洗礼」についてです。

 ルターの『小教理問答書』の洗礼の項に、「洗礼は何を与え、どんな役に立ちますか」という設問があります。これに対して「それは、罪の赦しをもたらし、死と悪魔から救い出し、信じるすべての者に、永遠の救いを与えます」と答えています。
 その洗礼には「水」が使われます。しかし、洗礼で使う水は普通の水で、決してそれ自体が「魔法の水」というわけではありません。では魔法の水でもない水が、どうして人に罪の赦しや、死や悪魔からの解放、永遠の救いを与えることが出来るのでしょうか。
 それは、洗礼で使われる水が、「神のみことば」に結びつけられるからです。
イエスは弟子たちに、「あなたがたは行って…彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…」と命じられ、また「信じて洗礼を受ける者は救われる」との約束の言葉を残して、父のみもとに帰られました。
 ですから、そのみことばに結びつけられた水と、その水が注がれることによって「信じて洗礼を受ける者は救われる」とのキリストの約束のみことばを信じる信仰が、私たちに罪の赦し、死と悪魔からの救い、永遠の救いをもたらすのです。
 では、だれがそのような救いに与かる洗礼を受けるにふさわしいか? いつも立派な行いをしている人か、大きな功績を残した人か、優れた人格の人か…そうではありません。洗礼に最もふさわしい人は、「罪人」なのです。死の恐怖に捕らわれ、しばしば悪魔の誘惑に負け、罪に罪を重ねている…そのような人こそ、洗礼を受けるにふさわしいのです。
 ルーテル教会は「嬰児洗礼」を行います。信仰を告白できない嬰児がどうして洗礼を受けられるのかと、嬰児の洗礼を認めない教派・教会があります。それらの教会は洗礼における「信仰の告白」に重点を置いています。
 しかし、私たちの教会は、曖昧であやふやで、たえず心変わりをするような不確かな人間の決意や告白にではなく、洗礼を受ける者は救われるというキリストの約束のみことばに信頼して、嬰児を洗礼の場に連れてくるのです。洗礼は私たちの行為や所業に対する報酬として与えられるものではなく、あくまでも神の憐れみ・神の恵みにもとづくものだからです。そういう意味で嬰児の洗礼こそ、洗礼の恵みを示すものはないと言えるでしょう。
 洗礼で水が使われるのは、古い自分が溺れ死に、新しい人として誕生することのしるしです。洗礼を受けた者は、新しい人として生まれ変ります。永遠の救いに与った者として、日々感謝と喜びのうちに神のみ前で生きる者とされます。

(恵み野教会牧師 藤井邦昭)


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