札幌教会牧師 斉藤忠碩

第六回-生命の尊重-

「殺してはならない」
(出エジプト記20・13)

 この第六戒の殺す「ラーチャハ」ということばは、個人的に人を殺す場合に限られています。したがってこの戒めが直接意味しているところは、「故意による殺人」ということです。憎悪と怨念による私的殺人は、律法によってきびしく審かれました。その殺人者は「人を打って死なせた者は 必 ず 死刑に処せられる。」(出エジプト 記21章12節)のです。ですから生命は血に宿るものと考えられていた当時は、生命は生命によって、すなわち血によってあがなわれなければなりませんでした。

 創世記9章6節に「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」とありますが、ここにイスラエルに復讐の制度が生まれたのです。よって殺人の罪を犯した者を放置することは、神の義にそむくことになります(イザヤ書26章21節)。
 そこで復讐してくれる者(ゴーエル)が求められました。元来殺された者の近親者がこれに当りましたが、のちには復讐者は神ご自身であることが強調され(申命記32章35節、詩編94)、復讐制度は実質的に克服されました。

 ヨブ記の中にそのことが見られます。ヨブはその苦悩の中から「わたしをあがなう方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるのであろう。」(ヨブ記19章25節}と呼ぶ時、制度による復讐によっては満たされない、神によるあがないという、新約聖書の信仰への道供えが示されています。「殺してはならない」という一見消極的な戒めは、その反面に「生かしなさい」という積極的な「生命の尊重」の命令をもっているのです。