千田好夫の書評勝手

明日もまた今日のように?

前回はだいぶ厳しい話になった。しかし、世間には石原のような考え方をする人がそれほど珍しくないことは事実だ。今回はそれを別の角度から考えたい。

紙芝居「かっちゃんのやきゅう」は、ある幼稚園の話。かっちゃんは、赤ちゃんのときの病気で歩けない。いつも窓から友だちが野球をしているのを見ていた。見ているうちに自分もやりたくなって、僕もやりたいと言い出した。子どもたちは快く受け入れ、かっちゃんに合わせたルールを作り出していくという話だ。

これはほんとにあったことだという。私も「ヒロオの夢」に同じような話を書いたので、このようなエピソードはどこにでもあるということなのだろう。確かに子どもたちの心情はすばらしい。歩けないかっちゃんが野球をするとは普通には考えられないので、発想を変えさせるいい話だ。

それに、見ている人は安心できる。「ああ、いい話だ。みんなやさしい子ばっかりで」「差別だなんだって理屈をこねてもわかりにくいだけよね」もとより理屈をこねるつもりは毛頭ないが、一人ひとりがただ「やさしく」なればいいということではない。明日になれば、「やっぱりかっちゃんがいるとおもしろくない」という意見が出てくる。かっちゃん自身がそう思うかもしれない。人生は山あり谷ありで、大なり小なりの葛藤が伴う。普通の人間が子どもをやっているのだから、それが当たり前である。

それなのに「いい子」すぎて、やさしい先生達の見守りという縛りの中で子どもたちは動いているのでないかとさえ思わせる。本当は、かっちゃんがやりたいと言ったときに反対する子どもがいたのではないか。そんなに「いい子」たちなら、どうして昨日までかっちゃんが一人で部屋の中で絵本を読んでいるのをほっておいたんだろう。さらに、かっちゃんは歩けないので、部屋の中でも園庭でもはいずりまわる。野球のときもそうだ。それを快く思わない人がいたのではないか。「不衛生ですよ。かっちゃんが大きくなってもそうさせておくのですか」

そういう子どもや大人は確実に存在する。重要なのは、それがみんな不当な意見とは限らないことだ。障害のある子もない子もそういう葛藤を経て大きくなり、地域社会で障害者が自立生活をしようとするときにも必ずそういう過程を経るのであって、それを隠すことはかえって障害者と健常者の間を隔ててしまう。「差別者ばっかりだ」とか「ひねくれたやつだ」とかそっぽをむきあえば、割に合わないのは障害者の方だけである。

また、かっちゃんは自ら進んで申し出ることによって、事態を切り開いている。これもおそらく好ましい印象を与えるだろうが、実際にはそんなに積極的な障害者は少ないし、障害者がなにか言い出さなければ変わらないのも困ったことである。言い出せなかったら、ずっと一人で絵本を読んでいてもいいのだろうか。

一本の紙芝居でなにもかも盛り込めないのは当然だ。しかし、一つの葛藤でもいい。それを描くことができたなら、とてもインパクトのあるお話になっていたと思う。