教育の公共性
- 「現代教育政策論の焦点」
- 嶺井正也/八月書館(2006/2)
- 【Amazon】
- 「『障害のある者』は二級市民ではない!」
- 古川清治/千書房
教育基本法が12月15日に全面「改正」された。
去年の小泉劇場選挙の余韻のあるうちに、政府与党は戦後保守勢力の懸案をほとんどすべて決めてしまおうとしている。あの選挙で与党に投票した人々の多くは郵政民営化についてのみ賛成したつもりだったのに、それがほかの懸案事項にも賛成だということにされてしまったのだ。それも復党騒ぎで劇場そのものが否定されたのに、高い観劇料はいまだに徴収され続けている。防衛庁の「省」昇格や、教育基本法「改正」もその一つだ。
憲法に次ぐ基本法といわれる教育基本法が、緊急「改正」の理由説明やたいした議論もなく全面的に書き換えられたのはとても残念だ。
野党の抵抗も、民主党が訳のわからない対案を出したり、圧倒的な数の差の前に蟷螂(かまきり)の斧のような抵抗しかできず、だいぶ腰砕けだった。国会前で反対のための行動が連日行われていたり、反対のための様々な活動があったが、マスコミはこれをほとんど報道しなかった。
しかし、そのような野党やマスコミの動きには、人々の関心の低さが反映されている。教育基本法なんて法律の存在も、改正されて初めてその存在を知った人もいただろう。これではまるで、訃報で初めてその名前を知られた人のようだ。また、教育基本法がどうであろうと、現場の教育にはすぐに影響がないし、現場の教師や教育委員会の職員を縛っているのは、憲法でも教育基本法でもなく、学校教育法でもなく、ましてや「子どもの権利条約」でもない。それは、様々な指導要領や通達である。つまり、お上の上意下達システムだ。それは重々承知しているが、だからどうでもいいというわけではない。
では、何が大きく変わったのか。第二条の「愛国心」か、第四条の障害者の別学分離を認めるかのような規定か。もちろんそうなのだけれど、男女共学の旧第五条廃止、能力主義のいっそうの強調も含めて、行政の恣意性(かってきまま)が、はっきりと教育基本法で認められたことだと思う。
旧第十条の「不当な支配」は、今までは教育内容に関する行政権力の不当な介入を「不当な支配」と争える余地があった。
しかし、第十六条(教育行政)には「不当な支配」という言葉は残ったものの、「教育に関する施策を総合的に策定し、実施」する主体は、国つまり文部科学省になった。つまり、何が「正当」で「不当」かは文部科学省が判断するのだ。
たとえば、愛国心も何が「愛」で何が「国」なのかを人々が決められるのなら、人畜無害の規定になる。「障害児教育」も 同じだ。だから今回の改正の要は第十六条なのだ。
そもそも教育は、とりわけ義務教育段階の教育は、子どもが大人になる重要な期間の教育はどうして学校に集められて行われる必要があるのだろうか。それは、家庭教師ですべてまかなえるのは一部の金持ちに限られるし、社会性を身につけるには限界がある。それで子どもたちを集めて教育することになる。とすると、この教育には一定のルールや内容をある程度決めておく必要がある。それを「教育の公共性」と言うとすると、これを誰が担うのかということは、別に決まっているわけではない。
つまり、今回の教育基本法「改正」は、「教育の公共性」を国(文部科学省)が決めるという法的裏付けをしたことになる。なんだ、そんなことなら最初からそうじゃないかと言われるかもしれないが、歴史的には国家が教育に介入するようになるのはごく最近のことらしい(嶺井50頁)。地方分権、学校評議員、市場原理の導入だといっても、管理は国(文部科学省)がするというわけだ。
これは逆に言うと、法的裏付けは必要だが、「教育の公共性」は私たちで決めるということもできることを示している。インクルージョンの導入、障害者の権利、子どもの権利の拡充といっても、それと並んで(いや、その前に?)私たちはこの「教育の公共性」を僕らの元に引き寄せることが課題となる。本書の言葉で言えば、「市民社会内部での日常的なヘゲモニー争奪を通じての公教育変革」(同52頁)の取り組みを構想しなければならない。つまり、取り組みの土俵を拡大していくことを考えたい。
これが、古川さんの言う『「〈万人の共生〉をめざす教育」のイメージを提示することが、「〈教育〉の再定義」の中身だ。その作業は「障害児と健常児の〈ともに〉」をめざすだけでは不十分だ』という「宿題」(古川16頁)に答えていく方向だと私は考えている。