システムだけではないインクルーシブ教育
- 「インクルーシブ教育の真実――アメリカ障害児教育リポート」
安藤房治/学苑社【bk1/Amazon】 - 「親が見て肌で感じたアメリカ障害児教育の魅力」
佐藤恵利子・佐藤裕/学苑社【bk1/Amazon】
アメリカのインクルーシブ教育を伝える二冊の本を読んだ。一つは、「通常の学校で障害児に適切な教育が保証できる限り、インクルージョンを進めるべき」であるが、「同時に施設・設備や専門的人材の充実した障害児学校、教育環境の役割も否定されるべきではない」とする学者の立場から、アメリカのテネシー大学マーチン校を拠点に何校かの普通学校と養護学校をまわって、アメリカの「インクルーシブ教育の現状」を調査したリポートである。
もう一つは、夫の仕事で一家四人がアメリカのウイスコンシン州のマディソンに一年間滞在し、その間、重い自閉症を持つ十一歳の息子と障害を持たない八歳の息子を同じ地域の小学校に通わせた親の立場から、そこで実際に体験したインクルーシブ教育の実際が描かれている。
当然といえば当然なのかもしれないが、立場が違えば、こんなにも見え方が違うものかというのが、二冊を読んでの感想だ。九か月間の調査をもとに書かれたリポートは、資料的な意味はあろう。しかし駆け足でまわったという印象の強い学校訪問から導き出される結論めいたものには、違和感を覚える。「インクルージョン学校やインクルージョン社会は、聾学校、盲学校、養護学校がこれまで蓄積してきた障害児教育に関する人的、物的資源が、有効に活用されることで、その実現が早まるであろう。……(アメリカの)この数十年間の努力と経験にわが国も大いに学ぶべきであろう。」
なにか大事なものが抜け落ちている。重要なのは、アメリカの「この数十年間の努力と経験」がなにに裏打ちされているかだ。言い換えれば、学校は、教育は、だれのためにあるかだ。現在の段階でアメリカの「インクルーシブ教育にも限界」があるのはあたりまえだ。インクルージョン、あるいはインクルーシブ教育は、どこかに完結したモデルがあるわけではなく、社会総体の意志としてインクルージョンというゴールに向かって、守られるべき権利の主体は誰かを見定めた上で、そこに係わるさまざまな立場の人がさまざまな創意工夫を重ねてゆくものだろう。「わが国も大いに学ぶべき」はその精神なのではないか? それなくしては「障害児教育に関する人的、物的資源」の有効活用も、だれにとっての有効活用か、はなはだ心許ない。
これに対して、後者の本を書いた佐藤さん夫妻は、インクルーシブ教育の精神を実感している。長旅のストレスで入国審査の列でパニックを起こした息子さんに、両親が「この子は自閉症で」と言ったとたん、すべてを了解したアメリカ社会、両親の心配をよそに、学校ぐるみでサポート体制を組んだショーウッド小学校にすんなりと適応していった自閉症の哲平くん、その哲平くんを自然に受け入れるコミュニティ。
母親の恵利子さんは、福祉とか、恩恵的なサービスの提供ではなく、人権問題・公民権問題。差別撤廃運動として取り扱われてきたアメリカの障害者運動の歴史を知ることで、彼女が感じる、そこに暮らすことの「心地よさ」の秘密が明かされてゆくような気がする。
「なにが〈心地よい〉のかというと、障害者を見る一般の人々の目であり、障害者を取り巻く充実した援助システムであり、尊重される本人や親の意志であり、障害者の母親である私は介護者ではなく、子どもの教育監督者として誇りを持てることである。そしてさらには、障害のある子どもを育てることが自分自身の生き方を貫くために障害にはならないこと、女性や家族がとても大切にされること、またたとえ一時滞在のアジア人でも(サービスを受ける)ことに引け目を持つ必要は、全くない、ということだ。すべて法律でやさしく包み込まれるように守られているのだ。」
前者の本が無機的な印象だとするなら、後者の本は人のぬくもりを感じさせる。それは前者がシステムや建物やそのなかでの教える側の動きを見ているのに対して、後者は自閉症の哲平くんと彼と係わる教師たちや生徒たちとの係わりを肌で感じているからだろう。なにを問題にしてなにを見ているかの違いだろう。そして広大なアメリカには地域間格差があるから、佐藤さん一家の住んだ地域がたまたまいいところだったというのも、もちろん否定できないだろう。しかし問題はそういうことではなく、実際にこうした小学校のあるコミュニティが、アメリカには確かに存在するということだ。