「みんなで悩んで大人になる」!
- 「みんな悩んで大人になる」
デイビッド・ヴィスコット、ジョウナ・カルブ共著/橋本恵訳/ほるぷ出版【Amazon】
今年の交換プログラムは2月3日から16日まで行なわれました。5日は早稲田のエコステーション見学と早稲田界隈の散策でした。コリー・スタウトさんが昼食のときに私の娘の年齢をきいたので16歳だと答えると、「オー、それは大変だ」とアメリカの人たちがいっせいに反応しました。「ティーンエイジャーは手に負えない」というのです。アメリカでも同じなんですね。「でもそのうち収まるものよ」とジュディが慰めてくれました。「日本でもそう言われます」と私。
もちろん、自分のことを考えてもその年代は多感な頃。する気のない勉強に追いまくられながらも、異性を含めた友達を振りまわし振りまわされ、親より友達が大事で自分中心に世界がまわらなければ気がすまない年頃であります。あ〜あ、でも歩けないばっかりに、学校の行き帰りを親に依存しなければならなかった私って、とっても不幸。
なに?人に迷惑をかけずにすんでよかったじゃないかって?よかったのは、迷惑をかけられたかもしれない方で、私ではありません。
でもそれでも、「オー、それは大変だ」という事態には変わりはありません。何が大変なんでしょうか。誰にとって?大人?子ども?
それで、この本を読んでみたわけです。ここでは大変なのは子どもの方のようです。この本のねらいは二つあります。一つ目は、だれもが成長するのに苦労していることを納得すること。二つ目は、自分の感情や人との接し方を理解することです。著者たちは、子どもは「小さな大人」ではありません。「大人になりつつある」のであって、その差は大きいと考えるのです。 この考え方はよく言われることです。でも、大人と子どもの区別は、障害者と健常者ほど明確ではありません。「子ども」というあり方は近代になって発見されたもので、それまでは「小さな大人」でした。ちなみに途上国では児童労働が一般的で、この発見は一定の経済的発展を前提にしているように思えます。
ひるがえってこの本の目次を見てみると、
- 感情について
- 両親とのつきあい方
- 友だちとのつきあい方
- 自信喪失について
- 自己発見ということ
- 両親の離婚について
となっていますが、「両親」を「子ども」に置き換えればそのまま大人へのメッセージともとることができます。次の一節を見てください。
「もし心に痛みを感じたら、なにを失ったのか確認するようにしてみよう。失ったものは友だちか、自分のものか、それとも友だちの評価か?そしてなぜ失ったものがそんなに大切だったのか、自分に問いかけてみよう。自分にとって友だちとはなんだったのか? どうして自分のものがそれほど大切だったのか?」
ほんとうにその通りだと思います。冷静に自己を見つめる態度はすすめられるべきものですが、それができる大人がどれだけいるでしょうか。子どももそうです。ここには大人と子どもの区別はありません。そうは書いてはありませんが、この本のほんとうのねらいは、大人もこれを読んでそのことに気づくことなのではないかとさえ思えてきます。訳者も親にも一読をすすめています。
「オー、それは大変だ」…なにが大変なことなのか。それは、昨日まで子どもだと思っていた、あるいは思われていた存在と、すでに大人になっている存在との新しいつきあい方のルールを見つけ出すことの難しさなのではないでしょうか。それは世界共通の問題のようです。「みんな悩んで大人になる」というより「みんなで悩んで大人になる 」のですね。