強者からの脱却
- 「ドイツ体験レポート」
島崎暉久/真文舎【Amazon】
先進国―途上国を貫いて世界的にインクルーシブ教育が進展している。それらは、アメリカのIDEAをはじめ、それぞれの国内法できっちりと保障されている。それに対して日本の文部科学省は、相も変わらず分離教育法体制を護持している。先日札幌で開かれたDPI世界大会の教育分科会において採択された勧告は、日本政府に分離を廃し原則統合を法的に整備することを求めるものであった。インクルージョンに対する日本語訳はまだないが、「原則統合」に落ち着きそうな気配すらある。
ところが、これに対して二つの反対論がありうる。一つは、統合は完全に貫かれるべきであって、どんな場合にも例外を認めるべきではないという主張だ。もう一つは、法でどんなことが規定されようと、われわれは我が道を行くのだから、どんな教育法が望ましいかという議論は無意味、むしろなにか規制されるだけ有害だというものである。
本書にはむろんそれらについての記述はない。日本の無教会派の学者がドイツに留学した体験を小冊子にまとめたものである。世界に冠たるドイツという選民意識を捨て、日本より人口の少ないドイツが400万人以上のトルコ人労働者を受け入れながら、EC統合の中核となりえたことの意味を考察する。それは、ニーチェやマルクスを代表とするドイツ哲学の主流が強者の思想であり、戦後ドイツ人はそれらの言葉の力を脱し、人間は本来罪深いもので誤りをおかす存在であるという考えに立ちかえり謙虚になったということだ。むろん、著者はドイツの醜悪な面も指摘しており、一面的な観察ではない。いかにもキリスト者らしい著作だが、私のような外道にもおおいに参考になる。
たしかに人間は言葉によって生きる動物であるから、言葉に厳密になろうとする傾向がある。たとえば、障害の害の字を「碍」に換えてみたり、「障害」と「」をつけてみたりする。それだけならかまわないのだが、なにもつけずそのままの障害を用いる人を、保守頑迷派であるかのように見下し、無用な対立をつくってしまうのである。われわれはもともと障害者と健常者という人間の二分法に反対しているのであって、現状で障害者差別が存在するので、それを表現するのに便宜的に使っているにすぎない。それさえふまえていれば「しょうがい」をどのように表現しようとほとんど違いはないはずだ。
さて、どちらの反対論にしてもこのような無用な対立をつくり出すのではないかと、私は危惧する。「完全」をつけても、実際の運用はどうするのか、あるいはろう者の団体が聾学校の存続を求めていることに対してどう考えるのかが問われるはずである。他方でそれに対して「カラスのかってでしょう」とけつをまくるのは、差別の多様な現れを無視することになる。また、立法化に反対することは、基本的人権は法に明記されなければ、どんな社会であっても最終的に保障されないことを無視し、そのための努力をせせら笑うことになる。まるで、善人さえいればエレベーターは必要ない、車いすを使うものは善人が現れるのを待て、待つのがいやなら善人を見つけ出せと、善人(強者)に依存することを強要するようなものだ。
それでは「原則統合」の原則とはなにか。「障害の有無を問わず共学を保障する、あるいは学籍を同じくする」ということになる。もちろん法的規定としてはもっと厳密な言い回しになるだろう。しかし、どのようになるにしろ、原則の意味は「分離は差別である」という以外にはない。また、原則には例外がある、つまりやむを得ない場合は分離を認めるのかという批判があるが、「分離は差別」に例外があるはずがない。あるとすれば、それはどうすれば統合が可能かを探る試行錯誤を「例外」としてとらえるべきではないか。ろう者が自らのアイデンティティを求めてろう教育を求めることをも含めて、試行錯誤、もっと大胆にいえば失敗することをも許すことだと思う。お互いに完全ではないのだから、お互いに許し合うのである。「分離は差別」をしっかりふまえてさえいれば、多少の回り道はありうることで、けっして非難されるべきこととは思えない。