千田好夫の書評勝手

自壊(自戒)した大仏

果てしない砂漠と枯れ果てた山並み。アフガニスタンやイランを想像すると、どうしてもそういうイメージがつきまとう。現地について書かれた本やテレビの映像を見るとそのように思える。もちろん、点在するオアシス、カスピ海沿岸や、アフガニスタンから中国国境へ細長く伸びた回廊地帯には豊かな水があって、一律には言えないが、おおかた砂漠だというのが、ここらへんについての日本人のイメージには違いない。

しかし、われわれが「砂漠」というものは、イランの人に言わせれば「高原」である。確かに標高は高い。高原であっても石ころや枯れ草が広がる地帯は、われわれには砂漠としか言いようがない。しかし、そこで暮らす人々のことまで含めてその言葉を用いていないだろうかと、思い直さねばならないかもしれない。

普段はその場所さえ意識していないのに、やはり、ニューヨークのテロ以降、かなりアフガニスタンの地理に詳しくなった。首都カブールはおろか、マザリシャリフやカンダハルといった地方都市、ヘラート州といった地方名が知られるようになった。お隣の韓国より詳しいかもしれない。

詳しくなったのは地理だけではない。タリバン、北部同盟などの政治グループがあることや、かつては王制で王様がイタリアに亡命していたことまでわかってきた。しかし、その中身の違いまではよくわからない。オマル師、マスード将軍、前の王様、そして暫定政権議長。これらの人たちにどれだけ違いがあるのか。アメリカのブッシュ大統領でさえ口を極めて非難する女性への抑圧。売買結婚のもと、教育も受けられず、一生チャドルで身をおおい、泥を固めた煉瓦の家に閉じこめられ、水くみの他はめったに外に出られない女性たち。この人たちは、そういう女性の状態の上に安穏としているのは同じではないのか。罪人の手足をちょんぎり、身体障害者のイメージを極悪なものにしているのは同じではないのか。

そして、あのタリバンによる大仏の破壊。去年の3月に大々的に報道された。破壊されたのは、断崖に掘られた2体の古代遺跡であるバーミヤンの石仏だ。大きいのは高さ約53メートル、小さいのでも高さ約38メートルもある。1体は1800年前に、もう一体は1500年前に作られ、三蔵法師も見たかもしれないというもの。世界中から中止を要請されたが、タリバンは断固として爆破した。(そして美術館に所蔵されていた幾千もの仏像や絵画も破壊された。)

これらの事情は、タリバンだけでなくこの国に対するわれわれのイメージを限りなく悪くしている。悪くはしているが、はっきり言って9月11日以前にはそんなことはよく知らなかった。さらに大仏については、むしろ破壊されたことで世界中の注目を集め、その価値が急に上がったという皮肉な見方さえある。(チャールズ・ポール・フロインド、Slate、1月23日)

上記の恐ろしく長い題名の本は、この事情を数字をあげて詳しく説明している。「(人口2000万人超の)アフガン社会では、過去20年間に、戦争や飢餓により約250万人が死に、あるいは殺された。つまり死亡率10%、これはすなわち、アフガニスタンが危険な社会であり、そこで暮らす人は10%の割合で確実に死ぬということです。アフガン社会では、過去20年間で約650万人の難民を出しました。すなわち30%が難民となり母国を去っています。...しかし今日の世界は、世界を一つの小さな村のようにしてしまう集合的なコミュニケーションメディアを誇りながら、どんな国もいまだに自分の国や国民の問題にばかり気を取られています。...今日の世界の人々にとっては、仏像の破壊が、(戦争や干魃による)飢餓に苦しむ数百万人のアフガン人の死よりも悲劇的なことなのです。」「ついに私は、仏像は、誰が破壊したものでもないという結論に達した。仏像は、恥辱のために崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対して世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ」