ちっとも「謙虚」ではない教科書
この教科書には、様々な批判がなされている。いわゆる、神話教育の復活、皇国史観、国家主義、アジア蔑視、戦争美化とくに第二次世界大戦(いうところの大東亜戦争)の正当化などだ。文部省検定で137カ所も修正させられてもなお、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下つくる会)の執筆者たちと扶桑社は、「教科書」として出すことに意義があると押し出してきた。しかも、国内外からの糾弾の声に対し、「国民に判断してもらいたい」と掟破りの形で市販本まで出したのだ。
しかし、教科書として採用したところは、数校の私立校と、公立では東京と愛媛の一部の養護学校だけだった。石原知事が「採択しないとこの国は滅びます」と教育委員会を叱咤激励したが、とりあえず今回はこれだけだった。西尾の「国民の歴史」がなりふり構わずばらまかれた「実績」から比べて、なぜこれだけの採択にとどまったのだろうか。
つくる会は「一部の活動家集団が妨害した」と言っている。韓国や中国では「日本にはまだ良識がある」と思ったようだ。各教育委員会は内部での議論や、教師や保護者との軋轢をさけたのだろう。つくる会の主張は論外として、議論をさけた「良識」はなぜ生じたのだろうか。
市販本を読んでみた。上記の諸批判は当たっている。しかし、それだけではない。教科書というには、妙に感情的で、傲慢な書き方が鼻につく。たとえばこんな具合だ。
「世界にほこる日本の美」口絵の説明だ。「飛鳥時代は、ギリシャの初期美術に相当するといってよい」「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵するほどである」「ヨーロッパのバロック美術にも匹敵する」……気恥ずかしくなってくる。どうして単純に「美しい」と言えないのか。そもそもそう言うことが必要なのか。欧米と比較するのはいいが、なぜコンプレックスを丸出しにするのだろうか。
本文に入って「(聖徳太子のころ)ヨーロッパは、まだ存在しない」とある。これは理解に苦しんだ。ようやくわかったのは、英独仏伊といった国々がまだなかったということらしい。つくる会の「歴史」とは、国単位なのだ。日本史の教科書だから当然かといえば、そうではない。日本という国号は8世紀にできているが、日本人が「日本国」という意識を持ったのは、江戸時代より前ではない。実際には、ヨーロッパがローマ帝国だった頃、日本列島にどんな国があったのかよくわからない。そんなことはお構いなく、とにかく日本は古い国だ、と主張したいらしい。だから、縄文人と弥生人のつながりにはいろいろ学説があるのに、「(突然に切りかわったのではなく)もともと日本列島に住んでいた人々の生活を変えていったのである」と断定している。まだまだある。「(元禄文化では)日本の科学は西洋諸国にくらべても、当時すでに高い水準に達していた」「日本の浮世絵は、西洋の芸術家に大きな影響を与えた」。
人種的偏見もある。「有色人種の国日本が、当時、世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは、世界中の抑圧された人民に、独立への限りない希望を与えた」と、それを裏付けるかのような資料を並べているが、そんなことは幻想であったというインドのネルーの見解は無視している。突然有色人種のチャンピオンに躍り出たのだが、台湾や朝鮮を植民地にしていることは都合よく忘れている。
巻末に「歴史を学んで」という生徒諸君へのメッセージがついている。「日本の歴史を今、学習し終えたみなさんは、日本人が外国の文化から学ぶことにいかに熱心で、謙虚な民族であるということに気がついたであろう」と言う。しかし、いかにつくる会の教科書が謙虚でないかは、以上に若干見ただけでも明らかである。
続けて言う。「ヨーロッパやアメリカに、日本より進んだ珍しいものがだんだん少なくなり」「理想や模範にする国がもうない」と。子どもの権利条約・人種差別撤廃条約を形ばかり批准し国内法整備をネグレクトし、ほっかむりしている日本、ADAのような障害者差別禁止法のない日本、神話として女性のストリップショーをこの教科書に載せる日本、憲法9条をなし崩しにしてアメリカを手本に軍事大国化を目指す日本がどうしてこのようなことが言えるのだろうか。このような教科書を障害児に押しつけた石原知事の差別性と、不採択にした各教育委員会の重たい「良識」が明らかになったと言うべきである。