8月4日私たちルーテル教会では平和の主日をまもります。8月になると、教会だけではなく、日本人の皆が「広島」を覚え、平和を求めています。しかしテレビや新聞を見ると、目立つニュースは、小さい子供のいじめから戦争まで、人間のエゴイズムが生み出す戦いを見せています。
聖書の初めのページは、人間が神さまに背いた悲劇を語っています。人間の罪深さを象徴して「土は茨とあざみを生えいでさせる」(創世記3:18)。
4000年間も民の生存のために戦ってきたイスラエル人は「シャロム〜平和」という挨拶を毎日のように交わしています。政治家の話や兵役に服する若者の歌のテーマは「シャロム」です。しかし、現在平和交渉の大きな課題になっているゴランの高原には、戦争の跡は未だに消えていません。美しい展望台の道から一歩外れると、敵がうめた爆弾に踏む恐れが現実に残っています。
戦車が通っていた道端に白い花が咲いています。それを見たとき私は、「希望の花」と名付けました。人間が破壊した大自然の傷を、神さまは、可憐な花を咲かして癒してくださいます。
復活されたイエスさまは、心が砕かれた弟子たちに「シャロム」の挨拶をされ、彼らにそれまでになかった希望と喜びを与えてくださいました。
イエスさまが与えられる平和が、一人ひとりの心を癒し、そして愛の行為として広がり、戦いに悩んでいる世界に希望をもたらすのです。そのを祈りを私たちに教えるのは、平和の主日です。(v.ソベリ)