札幌教会牧師 斉藤忠碩

第十戒−足ることを知る−


  「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、
 ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」
(出エジプト記20・17)

 第六、七、八戒が「殺人、姦淫、盗み」という具体的「行為」に現われた罪に関係し、第九戒は「偽証」という、いわば「ことば」の罪に関係するとすれば、第十戒は「貪欲」という「精神」的罪を戒めるものといえる。

 さてこの「欲する」というのは、「みだりにほしがる」ということです。それは特定の行為であるよりは、その原因であり、動機である意志における問題です。この戒めのために十戒は極めて精神的、内面的な罪を問うものとなっています。「貪欲」とは、結局自分の与えられた、生きるに必要な賜物への感謝を忘れ、養われる神に信頼しないところから発するものです。すなわち、自分の生を神から受けとろうとせず、自分で確保しようとする不信仰から「貪欲」のわなに人間は陥落していくのです。「そらの鳥をよく見なさい。…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。…天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ6・26〜32)

 この戒めは、人間がその生を神に負っていること、「足ることを知る」ものとなるべきことを教えているのです。

 さて十戒を学び終えるに当って思うことは、十戒は決して束縛や冷たい道徳訓ではなく、恵みの真実を貫きたもう神への感謝の応答の行為として、自由の規定であります。すなわち、神の救いの約束に基づいて、十戒は私たちにめぐみによって生きる自由を教えてくれます。問題は「できる」とか「できない」とかでなく、私たちのすべてを知りたもう愛の神の戒めであるゆえに私たちへの約束であることを信じ、これに聞き続け、これを生き続けることが問題である。私たちは服従すべきものには本当に服従する時、私たちは自由なのです。