札幌教会牧師 斉藤忠碩

-初めに-

「十戒の意味するもの」

 キリスト者の信仰と生活で最も重要なのは、第一は「あなたは・・」と呼びかけて、唯一の神への服従を命じる「十戒」です。第二は「私は信じます・・」と告白する「使徒信条」です。第三は「私たちの・・」と祈る「主の祈り」です。第一が、神に、真の神にのみ服従して生きる人生の指針が示され、第二は、神の前にひとり立って信仰を言い表す人生の基盤が示され、第三は、イエス・キリストを中心とする自由な人生の共同生活を指し示しています。

 今日ほど「いかに生きるか」について考えなければならない時代はないでしょう。私たちが「福音にふさわしい生活」(フィリピ1:27)を願うならば、私たちは聖書にかえらねばなりません。この1年「十戒」について今日における意味を学びたいと思います。

 律法によって表されているのは神の意志であり、神の義です。この神の義の要求である律法は信仰者の生活のために、二つの働きをもつといわれます。「キリスト教生活においてもまた、律法は罪を自覚させるものとして、また愛の業を喚起し、それに追いやる力として、律法の機能の二つの面において働きをなす」(アウレン「教会・律法・社会」)と理解されます。

 イエスさまは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」(マタイ5:20)といわれます。この義とはどういう義・ただしさのことなのでしょう。より高い律法の要求を意味するのでしょうか。私たちは律法について、また十戒について、これを成就されたキリストから離れて考えることはできません。パウロが「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」「それは肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(ローマ8:2,4)という時、彼の意味していることは、自分の手で自分の「義しさ」を確保し主張するのではなく、キリストによってのみ与えられるところの新しい「義しさ」によって生きることを語っています。

 ファリサイ人にまさる義とは、ファリサイ人よりもいっそうきびしく戒めを固守することによって獲得する「義しさ」ではなく、神の前に罪人でしかない者にキリストが与えてくださる新しい「義しさ」であり、「死に導く」のではなく、「新しい命」(ローマ6:4)に導く義のことです。新しい義とは、古い律法を廃したのではなく、かえって成就されたキリストの命じられた義しさのことです。キリストの命じられた義しさとは、「キリスト抜き」の義しさ(律法によって生きる)ではなく、「キリストによる」義しさとは(恵みによって生きる)であります。

 神の新しい義を告げる十戒は「キリストの福音」なのです。何よりも信頼と感謝をもって十戒をくり返して聞いてまいりましょう。