千田好夫の書評勝手

時間の意味

前回は「能力」について考えた。これは読み書き電算はもちろん、何かしら人を惹きつけるリーダーシップも含む広い意味での「能力」であり、「生きるための意欲」とも言い換えられる、ということであった。別に学校教育に限る必要は全くないけれども、「障害があってもなくても等しくともに」という場合には、場の統一と同時にそれぞれの「能力」を引き出すプログラムがなければ、「等しく」も「ともに」も確保されることはない。

それではこの「プログラム」とはどのようなものか。いまはまだ具体的に考えられないけれど、その場その場に応じて、非常にさまざまであることは予想できる。ただヒントはある。それは「時間」の考え方である。個性の違いや障害のありようによって人それぞれペースが違う。違うので時間を社会的約束として決めたのであったが、このペースの違いをまず認めあうことが「プログラム」の第一歩だ。

なんだそんなことかと思うかもしれないが、しばしば時間は社会的約束に過ぎないということが忘れられて、何か宇宙の「真理」あるいは「法則」であるかのように思われている。このことが「等しくともに」をまず阻害している。一般的にいえば、障害者は能率が悪い。とはいえ、資本主義社会では、納期に完璧な出来具合で納品しなければ、仕事をしたとは認められない。「甘い」ことばっかりは言っていられないので、できそうな障害者にはなんとか「障害を克服」して時間を守ることをしつけ、できそうもない障害者にはせめて時計の読み方ぐらいは仕込みたいということになる。いずれも「等しくともに」からは遠く、障害者を常に傷つけ、社会の約束の方を変えればいいという発想がない。教育がどこで行われるにせよ、マーケットの論理とは違った公共性を我々は見つけなければならないのだ。

それでは、時間とは宇宙の「真理」あるいは「法則」なのだろうか。上に紹介している二著は哲学と生物学というまったく違うアプローチから、似たような時間概念を提起しているのがおもしろい。哲学者の稲垣さんは、「科学的な」あるいは「常識的な」時間の観念が、生命的活動のリズムともいうべき「時間」をおおい隠しているという。考える、愛する、信じる、理解するといった「いのちの鼓動」を経験することが、我々人間の時間なのだ。我々はその時間の中で自己を実現し、自由を感じるのである。

生物学者の本川さんは、物理的時間とは区別された生物的時間があるという。なるほどゾウは百年生き、ネズミは数年しか生きないが、どちらも一生の内に20億回心臓が鼓動し、5億回呼吸する。心臓や肺を時計とすれば、どちらも感覚的には「同じ時間」を生きたことになるのではないか。時間の常識を覆すのが「サイズの生物学」なのだ。「さまざまな生き物の時間軸を頭に描きながら、ほかの生き物と付き合っていくのが、地球を支配し始めたヒトの責任ではないか」と本川さんは言う。

この二著から、私は障害の有無で時間が違うということを言いたいのではない。他者への想像力も「能力」に含まれる、ということを「時間」からつかみとりたいのだ