千田好夫の書評勝手

能力の意味

金井康治さんはあちらでアッカンベーをしているだろうが、やっぱり彼の死にこだわりを感じる。彼にもプライドがあったから「助けてくれ」とは言わなかったけれど、なぜ彼のSOSを私は見逃してしまったのだろう。

前に私は書いた。「人生の目標を模索しながら自分自身に力をつける生き方を彼に伝えることができたのか。その当然の努力を〈能力主義批判〉の名目でさぼってこなかったのか。真剣にそれが問い返されなければならない。

この〈能力主義批判〉とはまとまった考えではない。一種の雰囲気であり、言ってみると「障害児が普通学校から排除されるのは能力を問題にされるからだ。能力を云々するのは、文部省の分離教育に加担することになる。もしその必要があるとしても、こちらからそれを言うことはない」という懸念なのだ。この懸念を多少なりとも私も持っていたことは認めなければならない。言い換えると、「あるがままの私を受け入れてほしい」という恋愛感情のようなものだ。恋人でも難しいことを、文部省には望むべくもないのに。

彼は非常に豊かな感性を持っていて、勉強は嫌いであった。つまり普通の子どもだった。しかしその普通の子どもが、脳性マヒによる重度肢体障害と発語がかなり困難という言語障害を持っていた。否が応でも、彼は友人や介助者と共に自分の生活を築いていかねばならない立場である。そういう自分の生活を組織し、その組織にあたっては彼自身が主人公となるのは当然のことであり、そういう意味での「能力」が必要だ。これは読み書き電算はもちろん、何かしら人を惹きつけるリーダーシップも含む広い意味での「能力」である。それは、学校教育でのお勉強と重なり合う部分が少なくない。

ところが、「共に生きる」運動を担っているつもりの我々には、そういうのはわざわざ養成するまでもない、運動の中や普段の生活の中で「自然に」身につくものだ、という思いがあったことは否めない。しかし、その「自然に」というのは、ある程度自ら動け話せることを前提にしてはいないか。読売新聞に伝えられているような中学・高校時代に彼が受けた「いじめ」は、「自然に」そのような「能力」が身につくものではないことを示してはいないか。このことが、つまり運動の中の自分の位置と学校での自分の位置のあまりの落差が、彼のトラウマになってしまったのではないか。

彼には非常に申し訳ないが、残念ながらその当時、「能力」をそのように整理して行動することがだれ一人としてできなかった。憲法26条は「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」をすべての国民に保証している。この能力は「学力」といったように狭いものではなく、「生きるための意欲」というように広く解釈されるべきなのである。法の下の平等を説く14条と合わせると「生まれなどの差別で教育を侵害されず、意欲に応じて教育を受けられる権利」と考えられるのだ。ところが単に「能力」の一字でこの条文を毛嫌いしてきた我々は、文部省と同じ解釈をしていたことになる。

さまざまな子どもが一緒にいるところでは、障害児にはなんらかのフォローアップが必要であり、普通学級の中で孤立してはいけない。場の統一と同時にそれぞれの「能力」を引き出すプログラムがなければ、平等や「共に」は確保されることはない。上記のブックレットを読みながら、強くこのことを思わずにはいられなかった