千田好夫の書評勝手

犬型ロボットの「不自由」

先日ソニーから犬型ロボットが25万円で発売されると大きく報道されたが、まるで本物の犬のように感情をもちそれを成長させるという。動くたまごっち、のようだ。これからすると、身体は大きくならないが豊かな感情をもつアトムのような人型ロボットの完成も遠くないと考えられる。

このような「優れた」ロボットを作ろうとする発想は、人間を能力の集合体と考える見方につながっている。それは、障害を能力の欠陥と見る考え方と分かちがたい。介護ロボットがつくられ、ロボットと共に自分の部屋に放置される障害者・老人の姿が目に浮かぶ。そのうちに、そのロボットがますます精巧になって、障害者・老人はもとより、ロボットに「劣る」ごく普通の若い健常者も生きがたい世の中になるだろう。こう言うと「飛躍だ」「杞憂だ」という反論もあろうが、障害の発生予防や優秀な受精卵の選り分けの流れと一緒に考えれば、決して見当はずれではないと思う。

それではどう考えたらいいのか。障害は確かに不便で不自由に見えるけれども、それは単なる「不便」「不自由」ではない。いったい何を便利で、自由自在であると言うのだろうか。車の運転を例にとれば、車の全くない時代・場所では運転免許証など何の役にも立たない。逆に障害があっても運転できる社会的・制度的工夫があれば、その障害者は運転に関して便利であり、自由自在である。

つまり、何が不便で不自由かはその人の障害によってではなく、今現在の社会のあり方によって決められているのである。人間を能力の集合体と考えたり、障害を能力の欠陥と見たりするのは、ある社会の一断面を固定するものだ。もっとはっきり言えば、障害者が不便で不自由に見えるのは、社会の一人一人が、障害者をそのようにしているのである。あるいはF1レーサーがもてはやされるのは、車社会だからこそである。

この状況を突破するには、何が便利であり自由自在であるかを、社会的に拡大することしかない。重い知的障害をもつとされる池田円さんは、この3月1日から「わっぱ」の3階で自立生活を始めた。そこは、障害のある人もない人も一緒に働く共同生活の場で、彼が自立体験を重ねてきた場でもある。(わが無着さんと似た経過!)あれができなければ、これがなければと数え上げた結果ではなく、円さん自身が周りを引っ張ってやってしまったのだ。「意外なことに(円君に失礼か?)大丈夫なのです。円君の新たな一面を見せられた気がしました」と、彼の介助に入っている「生活援助ネットワーク事務局」の斉藤亮人 さんは書いている。

日本の障害者の自立生活運動の草分けは、60年代の「青い芝」の活動だ。「愛を否定する」彼らの運動は、常識的な採算と見込みを度外視した冒険だった。それによって自立概念が社会的に拡大され、今日の広範な動きを切り拓いたのだ。しかし、広くなった分、「ものわかりのいい」行政と親によって、常識的な採算と見込みが強調されるようにもなった。そしてそれに逆比例して障害者自身は冒険をしなくなった。

つまり、再び自由と不自由の社会的了解が固定されつつある。犬型ロボットの出現はそれを象徴しているかのようだ。円さんは、まさにこの状況に釘を一本さしているのだ。