千田好夫の書評勝手

議論なきデザイン

今は昔、公共の建物は「威厳」にあふれていた。戦前の裁判所、大学、官公庁あるいは東京駅などのデザインは、西欧風の荘重な建物にとどまらず、交番や郵便局など小さな建物にもそれらの意匠が施された。それらはごてごてした彫刻や、高い天井、訳の分からぬ段差や階段に満ちていた。歩行に障害がある者にとっては、不便この上もない建築だったが、なぜか郷愁を誘う。実際、仙台駅がどこにでもあるような新幹線の駅ビルになったのを、ちょっと残念に思う気持ちもある。

だが、高度成長期を迎えて日本の公共建築は大きく変貌する。旧都庁舎や○○会館などの建物のように、よけいな装飾をなるべく使わず、基本的に打ちっぱなしのコンクリートと大きな広間を特徴とする建物に変わった。産業社会の発展によって、「合理的・機能的」なデザインがよしとされるようになったのだ。それでも、足下の不安はそれほど解消されたわけではなかった。相変わらず、行くてをふさぐ階段や、意味のない段差、使いにくいトイレなどはそのままだった。極めつけは最高裁判所。むき出しのコンクリートを重ねたようなその建物は、権力の象徴のようにさえ見える。

なぜ、そのように見えるかといえば、変貌したといっても、それは我々一般民衆(障害者を含む)に何の相談もなく、デザインされたものであることに変わりがないからだ。デザインだけではない。たとえば、かつて東北大学が青葉山に移転されることに対し、学生たちが反対した。移転について大学当局が問答無用という姿勢だったからである。さらに、その青図をたまたま私が見る機会があり、障害者に配慮された設備が何もないことがわかった。用度係と面談した際に、どうして必ず入り口に数段の階段があるのかを尋ねると、「何もないと威厳がないでしょう」という答えだった。(それで「エレベーター設置を要求する会」をつくってそれらの設置を要求し、半年後に一部を勝ち取った)

ところが80年代以降、またも公共建築に大きな変化が起きた。トイレや電話ボックスあるいは交番などに奇妙なデザインの建物が現れ始め、それらは市庁舎や図書館、博物館、はては学校といった大きな建物にも採用されるようになった。それが、本書でいうところの「ディズニーランダゼイション」である。全体的な傾向になってるとはまだ言えないが、ディズニーランドの成功や様々な博覧会のテーマパークの手法に促されて、「メルヘン」の世界を公共建築に取り入れようとするものである。

かわいらしいデザインは、パチンコやラブホテルにとっくに採用されていたが、それらは商品を売り込もうとするものだ。だが、河童のトイレやミカンの学校、東京駅ふうの町役場、お城の児童館などは商品を売るものではない。それらのデザインは、その建物の公共的機能とはまったく何の関係もない。公共空間に突如現れる奇妙なデザインは、「かわいらしい」という一部の人の感覚を押しつける一種の「公私混同」である、と本書は指摘する。とはいえ、「よそよそしさ」を解消したいという熱意の現れであることは評価されねばならない、ともいう。

熱意の現れかもしれないが、それらのデザインは文字通り「取って付けた」ものにすぎない。たとえば、きのこを上に載せているからといって、使いやすいトイレとは限らない。車椅子対応のトイレが一部の建物に採用されはじめたのは、この動きとは何の関連もないことを、著者はどう考えるのか。

つまり「公私混同」は今に始まったことではないのだ。ごてごてした彫刻も打ちっぱなしのコンクリートもメルヘンも、選択の余地のない住民や利用者に何の相談もないデザインであることに違いはない。23日の朝日新聞によると、大規模公共事業にも住民の声を反映させようという運動が始まっているという。とてもいいことだ。そこに、バリアフリーの視点をどう調和させるのか、おおいに議論を持ちこみたいものだ。