千田好夫の書評勝手

夷をもって夷を制する

「おっ、君は蝦夷(えぞ)だね」と、原田伴彦先生は初めて私に会うなり言った。もう20年も前のことだ。

故原田先生は被差別部落の歴史研究では第一人者だった。その「専門家」に太鼓判を押されたのだから、私は蝦夷の末裔(まつえい)に違いない。大きくて四角い、いわゆる赤鬼とか青鬼とか、桃太郎に「征伐」された鬼のお面を想像してもらえばいい。そう言えば、私のほとんどの苗字も「志子田(しこた)」と、いかにも当て字である。出自はわからないが伊達藩の足軽だったので、少なくとも江戸時代からの苗字であることは確かだ。

私のご先祖様かもしれない、この「蝦夷」というのは、一体どんな人達だったのだろう。西日本が弥生時代になっても、本州の北部・北海道では縄文式土器の時代がつづき、独自の発展をしていったのは考古学的に知られている。その担い手が蝦夷だったのは間違いない。それではその人達は、日本人(東北人)あるいはアイヌの人々のどちらにつながるのだろうか。本書によれば、そのどちらも含まれる。やがて、次第にアイヌ的要素が強まり、縄文を受け継いだ擦文文化が樺太南部から青森県に広がる。アイヌの人々に広がる。アイヌ語の地名も東北北部に濃密に残っている。それが江戸時代にはいると、蝦夷地は、北海道、蝦夷はアイヌの人々に限定されてしまう。それぞれ画期となるのは、源頼朝による奥州藤原氏の打倒、豊臣秀吉による松前蛎崎(かきざき)氏の大名としての承認である。「日本」の領域が北上するにつれて、次第に蝦夷の人々の生活領域が狭められていった。

しかし、当時の日本式農耕にあまり適さない東北・北海道をめざして「日本」が北上していったのは何故だろうか。それは、蝦夷地は莫大な経済的利益を生み出す地域だったからだ。砂金や毛皮、海産物などはもちろんだが、奥州藤原氏の富強はそれだけでは説明できない。蝦夷地は、北樺太を通じてアジア大陸と連なっているだけではない。蝦夷の人々は、日本「国家」とはかかわりなく船で自由に大陸と往来していたのだ。いわば舶来の北宋銭(中国貨幣)や陶磁器、蝦夷綿をいわれる中国製衣類などを大量に日本に輸入する窓口であった。しかも、できるだけ安価に。

輸入品が安く手に入るのは、蝦夷そしてアイヌの人々の犠牲の上に成り立つ交易だったからだ。蝦夷そしてアイヌの人々は、樺太から黒竜江を遡るルートによって、毛皮や海産物とこれらの大陸の製品を交換し、それをさらに日本人と鉄製製品や米など生活必需品に交換していたのである。後者の窓口が奥州藤原氏や松前氏に独占されるようになってから、元々自由な交易だったものが、次第に和人に強制されるものに変わっていった。江戸時代には、松前藩の苛斂誅求がひどくてアイヌの人々が樺太のギリヤーク人に身売りをしていたほどだ。本書ではそれがよく明らかにされている。

蝦夷・アイヌに対する抜きがたい差別がそれを可能にしていた。事情を複雑にしているのは、藤原氏や松前氏が「俘囚の長(降伏した部族の長)」という立場であったことだと思う。それは、夷(い)をもって夷(い)を制する「日本」歴代政権の政策であった。明かな被征服地なのに、東北人にはその歴史意識がまるでないし、その資料もほとんど保存されていない。にもかかわらず他地域への劣等感と差別感がごく近代にまで残ったのは、それから説明できると思う。