千田好夫の書評勝手

人相は伝染する

「どうして入れてくれないんですか?」

私は声を荒げていた。相手の親父は、年のころは50代後半、白髪の中に黒い髪がスジの様に残っている。蝶ネクタイをきりっと締めて、いかにもカラオケ屋の主人である。それが、戸口の前に立ちふさがって我々を中に入れない。

「お気持ちはわかりますが、あと30分で閉店ですし、車イスの入店はご遠慮願いたい」

「時間が遅いのがいけないのなら、また明日きます。それならいいですか?」

「それもちょっと…」

「車イスがだめなんですね」

「…そうです」

介助者のK君が親父につかみかからんばかりであった。私はそれをおさえて、

「あなたは、もし自分が車イスに乗っていて、そんなこと言われたら平気ですか?」

「お気持ちはわかりますが、真に残念ながら」

「では、構造上の問題ということなら、1年待ちます。来年入れてくれますか?」

「そう言われても」

親父の顔は苦汁でねじれた。眉間の皺はいつもつくっているらしく、へらでえぐったように深い。

「あなたがそういう態度をくずさないのなら、我々はまた明日もきます。ビデオカメラも用意してきます。警察を呼んでくださっても結構です」

と言い残して、別のカラオケ屋に行くことにした。別の店はあっけないほど簡単に入れてくれた。腹の虫のおさまらない我々は、そこで閉店の朝5時までがなり声で歌いまくった。

それにしても、さっきの親父は今どきには珍しいタイプだ。1年後という私の誘いにも乗らず、正直者には違いないが、差別的正直さである。リップサービスさえ拒否しているのだ。あんな眉間の皺をつくるほど、障害者が嫌なのだろうか。もっとも、対する私も、同じ様な顔をしていたのかもしれない。そう気がつくと、少し気がめいると同時に不思議に気持ちが落ち着いてきた。

我々人間は、顔の表情をもコミュニケーションの重要なひとつの手段としてきた。ネコにも多少の表情の変化はあるが、とても人間とは比べものにならない。その上人間には、表情があるパターンをもつと、その人の顔のイメージ、人相というものまでできてしまう。だから、表情がコミュニケーションの手段なら、人相も伝染するに違いない。あの親父の人相が、そのまま私の鏡でもある可能性が強いとすると、これはよほど気をつけなければならない。

上記の本は、ピテカントロプスの復元された顔から、100年後に予想される日本人の顔のコンピュータ合成の顔までにわたる「顔学」の入門書だ。ただ、人相について云々するのは、容易に差別と結びつくとして、著者たちは慎重に差別にわたらぬように注意して書いている。しかし、差別によって、どんな表情や人相がつくられるのかも恐らく研究しているはずだ。差別事象を避けるのではなく、それを率直に書いてもらいたいものだ。