千田好夫の書評勝手

うんちの本質

アメリカのインクルーシブ教育を考え千書房で絵本をつくる企画が進んでいるので、本屋さんの店頭に並んでいる絵本を参考のために調べていたら、たまたまこの2冊が近くに並んでいた。

『防犯絵本 まもる!』は、そのものずばりで、子どもが犯罪から逃れるために自ら身を守ることを教える絵本だ。小さな子どもが犠牲になる事件が相次いでいるので、こういう絵本が出てくるのは不思議ではない。

帯には「こんな声に応えました!」と、「我が子の安全を守るために、親子で読める絵本がほしい」という親の声や、「おとなに対する恐怖心をあおらずに、防犯について子どもたちにどう伝えるのかが、私たちの大きな課題です、子どもにわかりやすい絵本はありませんか?」という幼稚園の先生の声が紹介されている。

非常に切実で、それだけにわかりやすいテーマだ。だがこれに「応える」のは大変むずかしい。本書は果敢にそれに挑戦している。たとえば「ママがびょうきだから、いっしょにおいで」という誘いの言葉に対し、「いかない!」と大きな声で応える練習をさせる。この誘いの主には「知らない人」という説明をつけていない。

虐待にみられように、加害者は親や先生や知人など子どもに身近な存在であることが多い。見知らぬ人には、子どもだって動物的本能で避けようとする。身近な存在による被害は避けようがない。読み聞かせる場合は、親や先生の力量がためされる。私はできないが、うまく説明できる人もいるかもしれない。

だが、字を読める子どもが一人でこれを読んでいる場合は、「知らない人」に漠然とした不安を抱かせて「おとなに対する恐怖心をあおる」恐れがある。反面、身近な存在にはますます無防備になる。「知らない人」という説明をつけていないことは、あまり役に立たないように思える。

つまり、当たり前のことだが、子どもが自ら身を守るということには大きな限界がある。この限界を縮めるには子どもの考える力を伸ばすしかない。その意味で『うんちをしたのはだれよ!』は、子どもの好奇心を引き出す好著である。

もぐらが土から顔を出したとたん、とぐろをまいたうんちが頭にのっかった。「だれだ、ぼくのあたまにうんちなんかしたやつは?」そこでもぐらは頭にうんちをのせたまま「はんにん」さがしに出かける。ハト、ウマ、ウサギ、ヤギ、ウシ、ブタのうんちは形も色も違う。「はんにん」を教えてくれたのは、動物のうんちを食料にしているハエだった。「これはイヌのうんちだよ」そこで、もぐらは寝ているイヌの頭にうんちをして「すっかりまんぞくして」穴に帰る。

帯によると、この絵本は国際アンデルセン賞と画家賞を受賞した作品らしい。でも、私が選考委員なら賞はあげない。「はんにんさがし」がいけないのではなく、「はんにん」は「ニンゲン」の方がよかったと思うからだ。もぐらの頭に降ってきた「ソーセージ」のようなうんちという表現はニンゲンのうんちにこそふさわしいし、皮肉がきいていておもしろいではないか。

とりわけ『防犯絵本 まもる!』に引き寄せなくとも、「はんにん」がニンゲン自身であることは、子どもにかえる問題性に気づかせるヒントになるのではないか。知らない人も、知っている人も、そして自分自身もいろいろ問題を抱えている。近くにトイレがなければ、ノグソもやむなし(経験あり!)。それが時には他人に迷惑をかけ、犯罪にだって問われかねない。それがうんち=犯罪の本質であり、本質を知ってこそ対処の仕方があり、身を守ることもある程度できるかもしれないと思う。

なお、これは蛇足(といってもこっちの方が言いたいの?)だが、最初にもぐらが土から顔を出してうんちが頭にかかったとき、「でも、めのわるいもぐらくん、はんにんをみつけることはできませんでした」という説明をつけているのはナンセンスだ。目がよかろうが悪かろうが、ふいにうんちがふってきたら「はんにんをみつける」なんて余裕はありっこないし、別の状況では「めがわるくても」即座に「はんにんがわかる」場合だってあり得る。このネガティブ表現も、私が賞をあげない理由である。