千田好夫の書評勝手

絵本を読む

「みんな 引っこしをする時がきたんだよ」

「死ぬということも 変わることの一つなのだよ」

「やわらかくて 意外とあたたかでした。引っこし先は ふわふわして居心地のよいところだったのです」

(葉っぱのフレディ)

「ぼうやにいのちをくれた人はだれね〜?」

「そうするとぼくのご先祖さまは百万人?」

「オバアにわかるのは、数えきれないご先祖さまが誰一人欠けても、坊やは生まれてこなかった、ということさあ」

(ニチヌグスージ)

この二つの絵本はよく知られています。両者とも「いのちは永遠に生きている」ということを、子どもに(そして大人に)伝えようとするところで共通しています。そして、あるすがすがしさをも届けてくれると思います。ちなみに「ニチヌグスージ」とは沖縄の言葉で、いのちのお祝い・いのちのお祭りという意味だそうです。

これを一枚の紙にたとえれば、「葉っぱのフレディ」を横軸、「ニチヌグスージ」を縦軸とする「いのち」の座標軸ができあがります。「葉っぱのフレディ」が横軸なのは、フレディは同じ木にはえたたくさんの葉っぱの中の一枚であり、横に広がりつつ、それぞれちがいをもつことが強調されているからです。

「生まれたときは同じ色でも いる場所がちがえば 太陽に向く角度がちがう。風の通り具合もちがう。月の光 星明かり 一日の気温 なにひとつ同じ経験はないんだ。だから紅葉するときは、みんなちがう色に変わってしまうのさ」

私たち一人ひとりは、この座標軸上の一点一点なのです。

草場さんは、毎日新聞で「きっかけは2003年7月に長崎市で起きた幼児誘拐殺人事件。『命の貴さを視覚的に教えられたら』と思い立」ち、「ほぼ一年がかりで完成させた。『いかに自分がかけがえのない、奇跡的な存在であるか分かってもらえれば、他人の命も貴いことが理解出来るはず』と」、創作の想いを話しています(04.6.16)。つまり、なぜ人の命を奪ってはいけないのかと言うと、ずーっと続いている「いのちのお祭り」を途中で終わらせてはいけないからだ、ということなのです。

しかし、レオ・バスカーリアは「アメリカの著名な哲学者」ですが、原書が出たのが1982年、この30数年の間にアメリカ合衆国は超帝国主義として暴虐の限りを尽くしています。その一方で、移民や障害者をふくめたインクルーシブな社会めざしている多くのアメリカ人もいて、アメリカ社会は分裂しつつあるようにも感じられます。

日本でもまた、自民党の出している「憲法改正草案」に見られるように、戦争のできる「フツーの国」になりたいという野望が、偏狭な「愛国心」の強要とともに憲法的地位を得ようとしています。そして、基本的人権を制限した上で、権利の主体を「日本国民」に限定しようともしています。インクルーシブ的寛容さの薄い日本社会は、より深刻な状況にあるといわざるを得ません。天皇家の「ご先祖」だけが尊ばれ、私たちの「ご先祖」がないがしろにされる傾向が強まっています。「いのちの祭り」として同等のはずなのに、「負け組」「一般庶民」「障害者」「外国人」等が「自己責任」の名目で差別されています。

これらの絵本に本当に向きあわなければならないのは、たまたま人の命をあやめてしまった「触法少年」たちよりも、このような事態を計画的・組織的に押し進めている人たちでしょう。沖縄を舞台に選んだ草場さんは、そこまで織り込んでいるのかもしれません。

ただ言えるのは、これらの絵本を読んだ人が必ずしも「いのち」のかけがえのなさを感じているのではなさそうだ、ということです。それどころか、かつてオウムは「ポア」という言葉で、死もまた一つの変化に過ぎないと殺人を正当化していたのです。

それでは、あの「すがすがしさ」は幻覚なのでしょうか? いえ、そうではありません。座標軸のある部分(=象限)ではそうなのです。残念ながら、全ての人が同じ象限に立っているのではないということ、つまり、この座標軸上にどんな線を描いていくのかは、どんな関係の中で動いて(生きて)いこうとするのかによって変わることを、踏まえておく他はなさそうです。