千田好夫の書評勝手

教育基本法「改正」批判を通して原則共学(インクルーシブ教育)を考える・その2

さて、このような岡村さんの慎重な姿勢、様々な保障を現制度の下で現政府に要求することは、すべて我々が「支配される」ことに通じ、「改良的要求」はすべてだめということにつながりかねません。それでは、日々様々な改善が必要な私たちは動きがとれません。「革命」が成就するまですべて待っていなければならないのでしょうか。本書のどこにもそうとは書かれていませんが、論理的にそういうことになります。これでは、自縄自縛です。

もちろん、原則共学(あるいはインクルージョン、法的表現としては原則統合)がどのようなものかを私は具体的に述べることはできません。けれど、それは畏れおおいからではなく、つねに試行錯誤をへて変化するものなので述べることができないのです。しかし、思い描くことはできます。それは二つの場面に分けられるでしょう。ひとつは、そこにいたる過程。もうひとつは、共に育ち共に学ぶとはどういうイメージなのか、ということです。

なぜにイメージが大切なのか考えてみます。あるものの肯定と否定は同じ次元であって、何かを否定したからといって、それが即、次の次元を見いだすものではないと、普通には考えられているようです。たとえば、岡村さんの本がそうです。しかし、否定の中に次の次元の片鱗を見いだすのでなければ、人間は否定に魅了されないでしょう。この片鱗こそがイメージなのです。

原則共学にいたる道は、法制度的には原則統合として大谷さんが提唱され、古川さんが留萌の山崎さんの裁判を痛苦にふりかえりながら、日本でのその可能性を追求されています。ぜひ、お二人のお考えに直接あたってみて下さい。(大谷恭子著「『原則分離』の法制度をかえよう」全国連絡会ブックレットM、古川清治著「原則統合をもとめて」千書房刊、まだお持ちでない方は、どちらも事務局にお問い合わせ下さい。)

改良的要求に対する禁止的考えは、とりわけこの場面で強いように思います。法的整備なんて言おうものなら、ギリシャ神話みたいに石になるのでしょうか。

現代社会では、社会生活に予測可能性を与えるものとして法制度が確立しています。これは近代以前の君主や力の強い者の気ままな支配を再現させないためです。もちろん、法制度は中立ではありません。障害のある者には欠格条項や原則分離教育のおしつけなどがあり、実生活で不利益をこうむっているのですから、それをただしたいと思うのはけっして石になることではありません。ここで求められているのは、情報が公開され手続きが明快なことです。そうであれば、障害のある者の権利だけでなく、人権一般を確保することになるでしょう。

それでは、原則共学とはどのようなイメージなのでしょうか。

それを考える前に、改良的要求に対する禁止的考えはここにもあることを確認しなければなりません。「『共にいる』だけではいけないのか?」ときかれることがあるからです。確かに現在の学校は限りなく子どもたちを分けていく方向ですので、そのアンチとして「共にいる」ということは強力なパンチです。しかし、ここでもその内容は「ーはだめ」というだけではっきりしません。これについては20年以上も議論が進展していません。たとえば、北村小夜さんの『養護学校義務化以後』には次のように書かれています。「だって、私が『障害児』をもてあましているから可配してくれなんてことを言いたくない。言うとすれば、その子の障害を障害として言わなければならない。それはしたくないのです。……基本的には素手でやれるだろうと思っています。…精神主義だと言われればしょうがないんですが。」

北村さんの優しい気持ちと苦悩が伝わってきます。全国に北村さんのようにがんばっておられる先生方がたくさんいらっしゃいます。しかし、それでは現場の先生と本人の苦闘がいつまでも続くことにならないでしょうか。(続く