千田好夫の書評勝手

イデオロギーとはなにか

ひきつけられた。平積みされず棚に並べられ、わずかに背中の文字だけがお客に見える無数の本の中の一冊。それがたまたま前回と同じ鷲田さんの本だった。前回はファッションがテーマだったが、今回は副題に「ホスピタブルな光景」とある。これで内容はわかるが、あの鷲田さんならどう書くのか。

中身が透けて見えるのは、関係性の問題だ。たとえば介助の場面で、介助する人は「強者」で介護される人は「弱者」と思われがちだが、実際は「弱い」方から力をもらって「強い」方もなりたっている。一方通行ではなく、支えあいの関係になっているということなのだ。そしてそれは、自分自身の新たな面の発見でもある。(筆者はこれを「ケア関係の反転」という)これ自体は言い古されていることだが、このような場面に関わらない人はなかなかそういうことに思い至らない。核家族化が進み、その核家族も「個」に分解しようとしている現在、人と人とのある程度「濃い」関係が失われ、むしろ敬遠されていることを考えれば、言い古されてきているとはいえ、何度でも繰り返し言う必要があるだろう。

この本の新しさは、これを介護という場面に関わらず、人間どうしのさまざまな関係の中に見いだしている点にある。たとえば、生徒と先生というのはわかりやすい方で、銭湯と簡易宿泊所をかねた健康ランドに集まる人たちどうし、絶叫詩人と観客あるいは死者と生者。朽ち果てる寸前の花と生け花作家というのまである。いずれも固定的な関係ではない。

その中に「先生」と呼ばれる性感マッサージ嬢の場面が出てくる。彼女には15歳くらいから90歳までのお客、それも男性だけでなく女性もついている。お客を寝かせ、言葉でいたぶりながら指をお客の肛門に突っ込むだけでイカせる。セックスでリードしなければと思いこんでいるヘテロな男性ほど、こういう形で受け身に立たされて快感を得ることにショックを受けるという。彼女は、性は多様でいいんだということを伝える伝道師になっているのだ。ここで「強い」はずのお客は完全に「弱い」立場に逆転している。あるいはその「逆転」こそが、この店の売り物になっている。

つまり、その人の内面世界に踏み込む「究極のナース」。ふだん私たちはお互いにそこまでの踏み込みを避けて生活している。しかし、何人かは常連がいるらしいが、この12年間で彼女のお客はのべ3万人。当然一回限りの客が大部分だ。このようなうつろいやすさは他の場面設定にも共通している。これを、筆者はさまざまに表現する。加減とか塩梅、潮時とか融通、ほどほどとか適当がそれだ。それを「経験を積んだひとの深い知慧」であると筆者は言う。

確かに、関係の長短・濃淡は常にあり「ホスピタブルな光景」をそこここに見いだすことは可能だ。13番目の場面に登場する元養護学校教師・遠藤滋さん。彼は重度の障害者で、介助者が24時間3交代でついている。介助者はこれまで延べ千人以上、さまざまな若者たちがここから卒業していった。彼は介助がなければ生きていけない。しかし、その無防備な己をありのままに開くことによって、逆に介助する側の個人的なこだわりやもつれをほどいてきた。ここで介助者たちは自分は一人ではなにもやっていくことはできないこと、お互いの命を生かしあうことを、卒業して二度と戻って来られないとしても、確実に学んでいく。

だが、この13番目の例が、それまでの12の例と同じに語れるのだろうか。後者は、あくまで仕事や趣味の上での関係であった。遠藤さんの障害は仕事や趣味ではない。障害は選べないのだ。そこに「ホスピタブルな光景」があるとしても。この違いを象徴的に現しているのが、ゲイ・バーのマスターの言葉だ。「みんなでなかよく生きていきましょうってひとって、どこか一直線なのよ。ぼくや彼みたいなクネクネオカマは、イデオロギーがそこまでいかないじゃない。あなたはあなた、じぶんはじぶんと。客だって、じぶんの家で飲みゃいいものを、現実から離れて飲みたいから来るんであってね」。筆者はこの言葉を、ゲイは「『世間様』から見下されながら、それを毒舌で評価し、そういうじぶんをも笑いとばすことで、じぶんを「社会」の秩序から外し、その「社会」が強いる抑圧をかろうじて和らげる」と評価している。だが、それは「毒舌」なのだろうか。それは彼の(地球人の)「本音」なのではなかろうか。

時あたかも地球と火星は大接近したところだが、いま再び遠ざかりつつある……