千田好夫の書評勝手

これでもいいっ「つう」の?

支援費制度が、障害者本人や家族の不安をよそに、内容を完全には明かされないまま、来年4月の開始が迫っている。そこでこの2冊を読んでみた。おおよそ、(1)は身体障害者向け、(2)は知的障害者向けと考えていい。両方ともとてもわかりやすい。

いまは更正施設・授産施設、通勤寮、居宅介護事業、デイサービス、グループホーム、短期入所事業などのサービスが行政によって措置されているが、それらは障害者である「利用者」が「支援費」という補助金を受けながら自ら購入するサービスとなる。つまり、福祉サービスの多くが商品となり、障害者本人が事業者と契約する主体となる。主体というと何やら気分がいい。

それでは、利用者が(2)の言うように「自分の生活や夢」を自分で考えて、それに必要なサービスを受けられるのだろうか。できればそうありたいし、そう願いたい。(2)はかなり楽観的だ。しかし(1)は懐疑的で、自分の住む区市町村にそのサービスを提供する業者が存在しなければ、そもそも、サービスが受けられない。あるいは、行政が「支援」を認めなければ、全額自己負担か、サービスをあきらめるしかない。また、支援費はあくまで補助なので、収入に応じた自己負担金がある。その収入認定は、必ずしも障害者本人ではなく、家計中心者の収入によって認定される。これは、介護保険よりも後退している。

これでは、利用者が「自分の生活や夢」を自分で考えても、実現できない恐れがある。その上、「主体」であるかどうかも実は疑わしい。利用者と事業者は最初から直接向かい合うわけではなく、利用者は支援費の申請をまず行政の窓口にだす。支援費の支給が決定されて利用者は「受給者証」をもらう。その 「受給者証」を示して業者と契約する。そして、支援費はいったん利用者に支払われるのではなく、直接行政から業者に支払われる。これを「代理受給」という。どうも、支援費をもらうかぎりでは、「契約の主体」とは名ばかりのようである。なおかつ、もし利用者と業者の間にがトラブルがあっても、行政は責任を負わなくてよい構造になっていると言わざるを得ない。

さらに、利用者が「自分の生活や夢」を言うことができるのか、という問題がある。

これは何も知的障害者にかぎったことではなく、社会生活の経験のあさい身体障害者、まわりに気がねをせざるを得ない利用者が、本当に自分の意志を言えるのかはおおいに疑問である。それは介護保険でも問題になっているところだ。

口当たりの言いことばで、福祉予算を切り捨てるのが国の狙いなのだ…とここまで考えて、暗澹たる気持ちになった。このような「批判」はあまりに当たり前すぎる。

それなら何故、全国的に反対運動が起きないのだろう。「福祉」は、日本ではお恵みで、ただでもらってるものなら、多少削られても仕方がないということなのか。

この9月にまた交換プログラムでアメリカ・オレゴン州のユージーンに行ってきた。通訳をしてくれた一人に日本人のお母さんがいた。小学4年生のダウンの子がいる。アメリカ人の夫はその事実から逃げて離婚してしまった。しかし、彼女は言う。「アメリカは日本とちがって、障害児に手厚い。幼稚園から小学校まで普通学級にいられて、しかも障害にかかる費用はすべて無料。これは親の収入とは関係ない」とのこと。これを福祉というのなら、アメリカでは福祉は権利なのだ。「でも、近頃福祉予算を削ろうという動きがでているので、闘わなくてはと話しているところだ」とも言う。ADAやIDEAで障害児・者の権利は保障されているが、そのうえなお「闘う」という世論ができている。アメリカのふところの深さをまたも見せつけられた。