千田好夫の書評勝手

あいぴぃ 障害を持つ娘あいをとりまく普通学級でのすったもんだ

『あいぴぃ』は、「ことばがない、歩けない」あいぴぃこと熊谷あいさんのことを知ってもらおうと、地域の小学校の普通学級入学とともに発行しはじめた熊谷家の家族新聞だ。あいさんが小学校1年生の1992年から、中学2年生で亡くなる1999年まで発行された。それを編集してできたのが、この本だ。

この本は、「学校からはじかれまい、地域でふつうに暮らしてゆきたい」と願ってきた共働き夫婦のしなやかでしたたかな奮闘の記録だ。

そういうと、決意の固い親であるかのようだが、あいさんの誕生の際の親としての心の揺れが率直に書かれている。あいさんは水頭症をもって生まれ、足の指が六本あった。可能性としてあり得ることは知っていたが、いざそうなってみると「背筋が寒くなり、頭はボーッと」した。しかし、あいさん自身の生きる意欲と医者や学校の差別的対応によって親は鍛えられていく。決してドラマチックではないけれど、この過程こそがこの本の眼目である。

どんな障害があろうと、ふつうにみんなが行く学校で、同じ地域の子どもたちのなかで我が子を育てたいという親のごくふつうの願いを通すには、どれほどのエネルギーがいり、そしてその願いを市教委や学校はいかなるやり方でつぶしにかかるかを、余すところなく教えてくれる。

あいさんが1年生のころ、あいさんの両親も学校もぴりぴりしていた。しかしそうした大人たちの緊張関係をよそに、あいさんのまわりには少しずつ友だちの輪ができはじめる。この友だちの輪があいさんの両親の最大のエネルギーの源になってゆく。子どもたちのあいさんに接するさりげなさ、率直さ、子どもたちってすごい、と。そうした輪のなかで、あいさんはゆっくりと着実に、いまの学校の評価では評価されない成長を遂げてゆく。

そして2年生からは少しずつ学校との緊張関係、対立関係が緩和してゆく。その一つの要因は、あいさんが着実に学校の一員としての地位を築いてきたことにある。そしてあいさんのご両親は、学校にたいして、あいさんを「学校ぐるみで受けとめてほしい」とつねに主張しながらも、臨機応変に学校に協力してきたことにあるようだ。そして遠足の付添でも、この機を逃さず、ほかの子どもたちや学校の先生たちとの信頼関係づくりに励む。

「……今の学校に言いたいことはたくさんありますが、ダメだダメだからはなにも始まりません。子どもたちが、学校があいを受け入れてくれた、ここを原点にしてゆけば、問題や困難を学校とともに乗り越えてゆけるのではないか、そうあってほしいと『あいぴぃ』編集方針は立てられていったように思います。……」

それでも、あいさんの両親は痛感している。少しずつ訪れてきた平穏さも、分離が原則の制度のもとでは、微妙なバランスのうえに成り立つ危ういものでしかないことを。そして学年が上がるにつれて、授業のすべてには参加できず、「お客様」にされているあいさんの学校での不本意な時間に。

けれども当時の、そしていまの学校教育制度、学校行政のなかでは、これが精一杯というものだろう。地域とは縁が切れてしまうお仕着せサポートのある養護学校と、地域で生きる人間関係の豊かさはあるけれど、授業では基本的にノーサポートで「お客様」にされてしまう普通学校。そんな原則分離の教育制度の「オカシサ」が、あらためてこの本によって思い知らされる。

真に残念だが、あいさんの突然の「死」で『あいぴぃ』は終わってしまう。だが、あいさんの物語は決して終わりではない。あいさんは「与えられるだけの存在」に見えながら、親をはじめ出会った様々な人々をひきつけてきたのは、逆に多くのものを与え続けていたからである。その人間としての存在の普遍性のなかに、また私たちもいることに思いいたすとき、あたらしい物語が始まる。

その一つが、姉・そら知さんの成長の物語だ。『あいぴぃ』の随所に彼女のイラストとマンガが年代順にのっている。これを追うのも実に楽しい。(そら知さんは、今年大学一年生になった)

※青海恵子と千田好夫の共同執筆