千田好夫の書評勝手

アソシエーションとインクルージョン

3・4月号で「日本の社会保障」(広井良典著)が「眉唾」だということを検討した。つまり、広井氏のいう「環境親和的な」「持続可能な均衡ともいうべき」全地球的な高齢化社会とは、一定の社会保障を世界標準として担保する「世界政府」が必要なのに、広井氏がその議論を避けているのが、問題であった。なおかつ、その世界は物質的にぎりぎりの世界であるのだ。インクルージョンどころか生存さえ危ういのである。

どうすれば良いのかはこちらで考えねばなるまい。インクルーシブあるいはその元となったノーマライゼーションとは、何かの主義を表すものではない。人々は、自らの意志によるのでないかぎり、どのような理由にしろ切り離されてはならない、という生活のスタイルのことなのだ。子どもは子どもとして、大人は大人として尊厳をもって遇される。たとえば、病気治療が必要な場合は、原則として通常の市民生活のなかで治療される。障害があったり、高齢によって、心身の働きに支障がある場合は、その障害のままで通常の市民生活をおくる工夫がなされる。もし、その社会が物質的に貧しい場合は、その環境のなかで可能な共生のスタイルが追求される。エレベーターをつけるのがむずかしければ、総平屋建てにするか人々の協力関係で移動することになる。

ところが、経済のグローバル化、つまり規制緩和、そしてリストラ、福祉の切り捨てが「痛みを伴って当然」のことであるかのように言われている。人々は、昔の素朴な共同体を解体されたうえに、日本的雇用関係である終身雇用制・年功序列という身内の論理も、ごく少数の「勝ち組」と圧倒的多数の「負け組」に分解されて、失うことになった。人々の関係もインクルージョンもあったものではない。

今、80%を越える小泉人気によって、その実態が隠されたままグローバル化が推し進められようとしている。その裏では、小泉路線の破綻を見越して、不気味な「反米愛国・独自核武装」の石原が控えている。経済のグローバル化の「痛み」に対して、日本の歴史に「誇り」をもって、少なくとも、東アジア地域限定の帝国主義としての地位を築きたいという反動が人気を博する。それは、戦前のドイツ、日本の歴史が示している。そして、その石原は、重度障害者の人間としての価値に公然と疑問を表明しているのだ。

これに手をこまねいていてはいけない。頼みの企業にも見放された人々の関係を、新たな結びつきの元に再生しようというのが、松尾匡氏の「入門 今どきの経済」のいう「アソシエーション」である。本書は教養の経済学教科書であるが、経済学の入門にとどまらず、相当高度な内容が平易に書かれている。

たとえば、グローバル化、先進国経済の空洞化と途上国の環境破壊に対抗して、生産地のバナナを生協が輸入したり、資本が見捨てた労働者管理企業と消費者団体が注文と生産を調節したりすることが紹介されている。新たな人々の結びつきは、グローバル化を否定するのではなく、それを逆手にとるものである。そのテコはIT革命である。それはなにもグローバルレベルにかぎらない。国内では、郊外立地の大型店に押されて衰退しつつある旧繁華街が、高齢者組織、障害者団体と結びついて街おこしとして、以前ここでも取り上げた「タウンモビリティ」を試みていることなどが紹介されている。

なるほど、インクルージョンを経済学的に表現すれば「アソシエーション」となるのか。共に生き、共に学ぶのは、当然のことながら、障害者に限られる話ではないのだから。