千田好夫の書評勝手

「成果」とは何か?

本書は、前々回に紹介した中川明さんのと同じく、「障害児を普通学校へ全国連絡会」の研究集会でなされた杉本さんの講演と質疑応答をブックレットにしたものだ。

杉本さんは、明治維新からの日本の障害者施策における教育を概観しながら、「共育」を目指す運動の側の課題をあげている。特に、権利の保障を言いながらも教育の中味をイメージしきれず、ノーマライゼーションやインクルージョンといった舶来の思想に頼らざるを得なかった弱点を指摘する。それを踏まえて「分離教育」の原則を堅持する文部行政をどう崩していくかを議論している。

その中で、杉本さんは「何だかんだと言いながら地域の学校でともに学ぶ教育がこれだけ広がっている中で、…その成果を誰が見ても納得するような形で明らかにする必要がある」と述べている。成果とは何だろうか。まして「誰でも納得する形」とは 難しい。

まず思い当たるのは、障害児がいると健常児が優しくなるということ。これは様々な人が主張しているし、学校や教育委員会の文書にも出ている。経験的に言うと、そのような事実はないと断言できるし、障害児は健常児の「教材」ではない。子どもはいい意味でも悪い意味でも大人のような見方をしていない。

つぎに、受験を中心とした差別選別教育の環境を変えるのに、障害児の存在が役に立つと考える人もいる。これは先の主張とも関連して、障害児を環境緩和剤として期待するものだ。しかし、これにはなんら根拠がない。現場では相も変わらず「他の子の勉強の邪魔」と直接間接に言われ続けているのが大方の実態である。

さらに、障害児の障害の軽減に役に立つという考えもある。たとえば、積極性が出て体がよく動くようになったり、言葉が豊富になったりするという。これはそのような子が多いというだけで、反対に引っ込み思案になってしまう子もいる。そのような子は逃げるように養護学校に行き、普通学校にいたときよりものびのびとしている。

もちろんこのような批判は杉本さんの考えには当たらないが、私自身は何か効果があるから障害があってもなくても共にということを考えてはいないということが言いたいのだ。これは生き方の選択の問題であり、方針・政策の問題なのだ。「分けること自体が差別である」という主張は、分ける・分けないことの得失ではなく、人間の基本的人権の確立を求めているのだ。

そうなのではあるけれど、我々がそれを選ぶということは、そう考えない人に対して我々の方針・政策を「押しつける」ことであることも忘れてはいけない。恐らくその責任のとり方として、杉本さんは「成果」を強調しているのではないか。決して望ましい環境ではない普通教育へ障害児を入れるだけでいいのか。あるいは、特殊教育の解体は一方で文部行政と教育システムのリストラでもあることをどうふまえるのかということなのだと思う。

なかなかすぐには答えきれないけれど、これまでここで「能力」や「時間」や「他者への想像力」と言った議論をしてきているが、それが杉本さんの問題提起に少しずつ答えていくことになるのではないかと、私は考えている。