―使徒信条―

岡田 薫牧師 (札幌北教会)

その1
〜私たちの信仰の基準となるもの〜

(マタイによる福音書 28・18〜20)

 新しい年を迎え、皆さま益々主の恵みと祝福の内にお過ごしの事でしょう。これからしばらくの間、斉藤牧師の十戒の学びに続いて使徒信条の学びを担当させていただくことになりました。

 みなさんにとって、とても身近で親しみのある信条の一つが使徒信条。初代教会以来、信仰の遺産として大切に伝えられてきた、私たちの財産です。初めての連載で緊張が隠せませんが、どうぞよろしくおつきあいください。

 さて、今回は導入としてひとつ世間話をさせてください。年末のある主日の夕方、珍しく福岡に住んでいる弟から電話がありました。彼は私と同じキリスト教系幼稚園出身ですが、自称無神論者です「ひとつ聴きたいことがあるんだけど・・・」何だかはっきりしない物言いに「どうしたの?」と声をかけると「あのさぁ、三位一体ってどういうこと?」との質問。あまりの唐突さに一瞬ひるんでしまいました。 牧師がこれじゃいけないのですが、みなさんならばどのようにお答えになるでしょう?相手はキリスト教用語もよく知らないのです。この電話によって、私は自分自身に改めてチャレンジが与えられたと感じました。近しい存在である家族に対して隣人に対して「どのように信仰を示していくのか?」という課題。そのためには、まず「私」がしっかりと神さまに捉えられている事を感じていなければなりません。聖書に記されている神さまの救いとその働きについて、よく聴き、学び続ける中で。

 使徒信条は、福音が広がってゆく過程において聖書に反する教えが台頭し、正しい信仰から人々を引き離そうとする中から生まれてきました。私たちの生活の中に生きて働いてくださる、父なる神、子なる神キリスト、そして助け主である聖霊なる神への信仰を告白していくために。

 使徒信条は「私は信じます」と「私」の主体的な信仰告白の形をしています。「私」に働き掛けてくださるお方を感じ、その恵みに応えていくこと。これがまず、私たちの信仰の第一歩です。そして、共に唱えることで「私たち」の信仰へと成長させて頂くのです。

その2
〜わたしたちはどこから来たの〜
(創世記 1章〜2章)

 人類は足を踏み入れてはならない領域に力を振るうようになってしまいました。小さな羊ドリーから、まだ数年しか経っていないのに・・・クローン人間誕生のニュース! 皆さんはどのような思いで受け止められたでしょうか?

 新しい《いのち》の誕生。そこには厳粛で神秘的な感動があります。どんなに小さな草花や昆虫であっても、すべての生きとし生けるものの《いのち》には輝きがあります。そしてその輝きは、私たち人間が作りだす何ものにも勝っています。なぜなら、すべての《いのち》には、主なる神の祝福と愛が与えられているからです。

 使徒信条の第一項目は「われは天地の作り主、全能の父なる神を信ず。」です。ルターの小教理問答書には「わたしは、神がわたしをすべての物とともにつくられた事を信じます。わたしは神がわたしに、からだと魂、目と耳と両手両足、理性とすべての感覚を与えられたこと、今もなお保たれることを信じます。」とあります。

 土と塵によって造られた人に、神の息が吹き込まれたことによって「人は生きる者となった」と創世記2章に記されていますが、これによって私たち人間には特別な賜物が備えられました。それは、ルターが書いているように、私たち人間には様々なことを感じ取り、神に応答するために《器官と感性》そして《理性》が与えられているという点です。

 ところが私たちは、神さまによって与えられた体や知識を、神を愛するため神さまのみ心を行うためではなく、自分の利益や快楽、誉れのために使うようになりました。その結果、それぞれが思うがままに生き、身勝手な振る舞いをする事によって、互いに傷つけ合い《いのち》の輝きには目もくれなくなってしまったのです。

 それでも神さまは、私たちを愛し、み恵みを与え、祝福のうちに生きることを望んでおられると思います。なぜならそれは、私たち人間が今もなお滅ぼし尽くされず、神さまによって養なわれ、生かされているからです。

 ではなぜ、神さまは私たちにみ子主イエス・キリストをお与えくださり、十字架によって、私たちの罪を赦し、キリストの復活と共に私たちに神の子として生きる道を開いてくださったのでしょうか?それは、祝福と愛をもって私たちをお造りくださった神さまの恵みを私たちが感じ、それによって自分の思いではなく、神さまのみ心を行う者、主に仕える者となるためです。

 神さまによって造られた世界に生かされている私たちは、被造物を通して、神さまの偉大さと、み心を知ることがゆるされています。そのためには、知識を磨くだけではなく、私たちに特別に備えられた賜物である感性を磨くことも重要な要素なのです。

その3
〜赦されて、生かされる≪1≫〜
(マタイによる福音書 1章18-25)

 今月から、使徒信条の第二条項について学びます。ルターは信仰の糧となる小さな書物、小教理問答書を著わしたとき、使徒信条の三つの条項を《創造》《罪の赦し》《きよめ》と表現しました。

 私たち人間は、全能の父なる神の祝福を受けて創造されましたが、自らが神(主)となることへの誘惑に陥り、罪を犯してしまいました(創世記三章)。自分を世界の主としようとする《利己主義》は、やがて《自分絶対主義》となり、人間は互いに愛し合う存在として創造してくださった神さまのご意志を忘れ、与えられた《いのち》を謙遜な思いで生きることが出来なくなってしまいました。

 そのような私たちの罪を赦し、もう一度「愛し合う」事を教え、神さまとの正しい関係に戻してくださったのが、神の独り子、主イエス・キリストです。

 キリストは贖いの小羊として十字架の上で、罪のない尊い血潮を流し、私たち人間の罪を真っ白に洗い流してくださいました(黙示録七章十四節)。この「私たちの主」がどのようなお方であるかを示しているのが、使徒信条の第二条項です。
 神のみ子がお生まれになった情景を記している二つの福音書を見てゆくと、そこには人間的なあらゆる思いがうごめいていても、神さまのご意志がはっきりと示され、御心のままに人々がそのご計画の中に生かされてゆくことがわかります。

 救い主の誕生は、旧約聖書によって昔から約束されていた出来事でした。しかし、それにもかかわらず父親として選ばれたヨセフは、いいなずけのマリアの妊娠を知って苦悩しています。彼の苦しむ姿は神さまの隠された御心を知らされた者の真実の姿ではないでしょうか。利己的に考えれば、マリアを離縁する事がヨセフにとって最善の策でした。しかし「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」という天使のお告げによって、ヨセフは神さまのご意志を引き受け、その中で生きる者へと変えられます。

 聖霊によって身ごもったマリアから、人間の男性の関わりなしでお生まれになった主イエス。これは、この幼子が神のもとから来られたお方であることと同時に、ひとりの人間として、私たちの歴史の中で確かにお生まれになったことをも示しています。

 このようにして、神のみ子は私たちと同じ肉を持った存在としてこの世にお生まれになりました。そして真実の愛(アガペー)を示し、私たち人間が互いに愛し合う存在であること、相手のために生き、仕える愛、無償の愛に生きる喜びを再び教えてくださったのです。

 私たちはこのお方を「神の独り子キリスト」として信じ、告白することによって、主の愛によって生きる者へと導かれるのです。

その4
〜赦されて、生かされる≪2≫〜
(イザヤ書53章・マルコによる福音書15章1節〜15節)

「神の独り子キリスト」である主イエスは、権威ある教えやへりくだった姿を通し、救いを求める人々に福音を語られました。それは福音を聞き、主に従う人々に、父なる神との正しい関係を再び結んでくださるためでした。しかし、主によって《神に逆らう自分たちの本来の姿》があらわにされることを恐れた人々は、主を憎み、捕らえ、十字架の死へと追いやってしまいます。

 ゲツセマネの園で捕らえられた主は、最初、大祭司の屋敷で開かれた最高法院で裁かれました。そこでは偽証による裁判と、多くの食い違いがあったにも関わらず、目的通り「死刑」が決議されます。次に、ローマ帝国から遣わされていた総督ポンテオ・ピラトのもとに引き渡わたされますが、そこでも「死刑」の判決が言い渡されました。ピラトは取り調べの際、主に何の罪を見いだすこともできませんでしたが(マルコ15章10節)、激しく「十字架につけろ」と叫ぶ群衆を満足させるために、公正な裁きを行なわずにキリストを十字架に引き渡してしまったのです。

 このように聖書が記している《人間の真実の姿》は、現代に生きる私たちにも当てはまることが多いように感じます。なぜなら、キリストの時代も現代も、私たちに大きく立ちはだかる罪の一つに「神からの誉れを好むか、人間からの誉れかを好むか」(ヨハネ十二章四十三節)ということがあると感じるからです。

 裁きの場にあって、ご自分をさげすみ、むち打ち、辱める人々を前にして、ただ黙って耐えておられる主イエスのお姿は、イザヤ書五十三章にある通りです。このようなお姿、そして十字架の死は、私たち人間の罪深さを示すと同時に神さまの深い愛と憐れみを示しています。

 ポンテオ・ピラトの時代に起ったキリストの十字架での死。そして、葬られ、陰府に下り、三日目に復活されたことは、人間の罪が現実的であればあるほど、キリストの痛みも現実的なものであったことを示しています。これは、神が独り子の死と復活という形で私たち人間の罪をあがない、救いを完成されたという真実を伝えているのです。

 私たちは「主が金や銀をもってではなく、ご自身のきよく尊い血、罪なくして受けた苦しみと死とをもって、失われ、罪に定められた人間である私を、全ての罪と、死と悪の力とから救い出し、あがない出し、勝ち取ってくださったこと」(小教理問答書)を信じることによって、主のものとされるということを知らされています。だからこそ、「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り」と信仰告白を口にするたびに、キリストの受難の厳しさと尊さを重く受け止め、喜びと感謝と共に、主に従う者として常に立ちち帰るチャンスを頂いていることを知る必要があると思います。

その5
〜赦されて、生かされる≪3≫〜
(ヨハネによる福音書20章1節〜29節)
札幌北教会 岡田 薫

「成し遂げられた」と言い、頭をたれて息を引き取られた。」(ヨハネ19章30節)とあるように、主イエスは、世にお生まれになった時から最後まで、父なる神の御心に従順でした。一方、十字架を前にたたずむ事しかできなかった女性たち、そして、主を見捨てて逃げ出してしまった弟子たちの胸の内は、恐れと不安に支配されていました。

 その悲しみの日から三日目の日曜の朝早くマグダラのマリアは主の墓で入り口を塞いでいた石が取りのけてあるのを見て「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と急いで弟子たちに告げに行きました。マリアの言葉によって墓に駆けつけたペトロたちも、度重なる思い掛けない出来事にすっかり気が動転している様子が窺えます。それは「彼らはまだ聖書の言葉が実現したことを理解することができていなかった」(ヨハネ20章9節)からです。

 なぜ、彼らはこの喜びの朝の出来事をすぐに気づくことができなかったのか?この問いを探るとき、私たち自身も人の心の不確かさ、そして疑いや迷い、驚きや不安によっていかに惑わされやすいか、ということに目を向けさせられます。
 「わたしは主を見ました」というマリアの言葉を信じることができなかった弟子たちの《不信》は、復活の主ご自身がそのお姿を示して「あなたがたに平和があるように」と呼びかけ、十字架で受けた傷跡をお見せになることで、ぬぐい去られました。そして彼らは。《疑う者》から《信じる者》へと変えられていったのです。

 主イエスの《復活という出来事》は、人間の罪の結果として備えられた《死》の恐怖から私たち人間を解放し、《罪の赦し》と《永遠のいのち》への約束を示しています。私たちはこの真理を知らされている者として、また、この恵みの内に生かされている者として、人生のあらゆる場面において、驚きや疑いや迷いに心を支配されるのではなく、主イエスが共におられる事、そして私たちを導いてくださっている事を信じる事が求められています。

 キリスト者の霊性の教師として世界で広く親しまれていたヘンリ・ナーウェンはその著書で「信仰とは、この世に存在する得体の知れないどんな力よりも、神の愛は強く、暗闇の犠牲者から光の僕へと私たちを変えることができると、心底から信じることです。」(「いま、ここに生きる」出版・あめんどう)と言っています。
 主の十字架と復活、この出来事が《私》のために《私の罪の赦し》のために起こされた父なる神の大いなる愛の恵みである事を受け入れ、その父の御心に従っていくことが、キリスト者にとっての《喜び》となるのではないでしょうか。

その6
赦されて、生かされる≪4≫〜
(ルカによる福音書24章50節〜53節)
「使徒言行録1章86節〜9節」

 復活から40日目。主イエスは弟子たちの心の目を開き聖書を悟らせ、信じるすべての者に罪の赦しと永遠のいのちの約束が与えられたことを「宣べ伝えなさい」とお命じになりました。そして、この宣教命令を弟子たちにお与えになった後、祝福しながら彼らから離れ、天に昇って行かれました。

 これまで使徒信条のキリスト条項の中では、乙女マリアから「生まれ」、「苦しみを受け」、「十字架につけられ」、「死にて葬られ」、「陰府に降り」、「復活し」・・・と動詞はすべて過去形でした。しかし「天に昇り」という主の昇天の出来事以降は「全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りたまいて、生ける人と死にたる人とを裁きたまわん。」となります。そう、イエス・キリストの出来事は遠い過去の出来事として完結したのではなく、継続している出来事、つまり現在進行形であるということを示しているのです。

「天」は父なる神様のおられる場所、そして主はその右の座におられるといいます。これは、主イエスが人間を地上に置き去りにし、捨ててしまわれたということではありません。そうではなく、むしろ地上の時間や人間の知識の枠を越えた普遍的な神の権威をもって、世を支配し、被造物に対する溢れる愛によって常に祝福し、見守ってくださっていることを示しているのです。

 弟子たちは「イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にて、神をほめたたえていた」(ルカによる福音書24章52〜53節)とあります。これによって弟子たちが昇天される主によって与えられた祝福と約束の言葉によって豊かな励ましと、勇気と力に満たされたことがわかります。そして、主の再臨の約束に信頼を置き「神の時を待ち望む」という信仰者の基本的な姿勢をあらわしているようにも感じます。

 聖書は主の再臨について、その日その時がいつ訪れるのかを明確にはしるしていません。主イエスご自身も「その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(マルコによる福音書13章32節)とおっしゃっている通りです。しかし、だからといって疑ったり、諦めたりする必要はありません。なぜなら私たちが生かされている現代も、この約束の過程にあるのですから・・・。

「神の時を待ち望む」その過程を生きている私たちは、同時に私に与えられている神さまからの「時」を生かされている者でもあります。天の父なる神さまの右に座しておられる主は、そのような私たちにひとりひとりにあたたかい眼差しを向けてくださっています。この主の愛、祝福によって私たちも、喜びの福音を宣べ伝える者へと整えられてゆきたいと心から願います。

その7
〜共にいてくださる方≪1≫〜
(ヨハネによる福音書14章15節〜17節
「使徒言行録2章1節〜13節」)

 イエス・キリストは天に昇られる時、ご自分に代わる助け手を与えてくださると約束されました。それが、使徒信条の最後の項目であつかう聖霊です。

 私たちが「神とは?」との問いを受けた時、「創り主なる神」や「救い主御子主イエス・キリスト」を思い浮かべる事が多いのではないかと思います。なぜなら、「創り主」「救い主」とその働きが明確だからです。しかし「聖霊」は、はっきりと目に見えるわけでもなく、触れたり、においを感じたり、確かめることができないので、その働きを適確に表現することが難しいのです。

 主イエス・キリストは、約束の聖霊のことを「傍らに立つ者(弁護者)」と表現されました。それは、ご自分がが地上におられた時、弟子たちと共に過ごし、行いと教えによって彼らを真理へと導かれたように、聖霊なる神は目に見えなくても常に共にいてくださり、私たちを信仰へと導いてくださるからです。

 信仰へ導くというのは、「また、聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言えないのです。」(コリント・12章3節)とパウロが証ししているように、私たちを信仰告白へ導くという意味です。このような働きをしてくださるので、聖霊は「真理の霊」とも言われます。

 聖霊を信じると言うことは、私たちが自分自身の持てる力や知識に頼るのではなく、常に自分を超えたお方の存在に心を留めておくと言うことだと思います。また、困難や迷い、恐れや不安があったとしても、「あなたは決して一人ではない」と言うことが約束されていることを思いだすことではないでしょうか。聖書を開き、みことばを聞き、祈る事・・・。また、誰かから祈られていることを知ることも、本当は聖霊の働きなのでしょう。

 四世紀のキリスト教共同体には『主があなたの前に、後ろに、また傍らや、上にも下にもいてくださり、常にあなたを導き祝福してくださいますように・・・』というような祝福の祈りがありました。これは互いに祈りあうことによって、常に、神の力が注がれていること、そしてその力によって悪に打ち勝つ力、真理へと導かれるという事を、心から願い、信じる祈りだと思います。

 現代は、環境問題、生命倫理、社会問題など簡単には解決できない問題が山積しています。そして一人では挫けてしまいそうになることも、たびたび起るかもしれません。しかし、私たちには「まして、天の父は求めるものに聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11章13節)とあるように、祈り求めることが許されています。共にいてくださる神、聖霊の力を信じ、たえず導きと助けを祈り求めるキリスト者でありたいと願います。

その8
〜共にいてくださる方≪2≫〜
(マタイによる福音書18章15節〜20節
コリントの信徒への手紙1、12章27節)

 私たちをキリストへの信仰に向かわせてくれる聖霊は、同時に信仰に生きる他者の存在にも気付かせてくれます。私たちは信仰によって結ばれた兄弟姉妹との交わりを通して、私たちの周囲にいつも生きて働いてくださる聖霊を感じることができます。

 キリストの弟子たちは、主の昇天を見届けた後、命じられた通り《福音》を世界に向けて発信していきました。使徒言行録やパウロの書簡などを読むと、キリスト者を取り巻く環境が良かったとばかりはいえません。しかし、どんなに困難な状況であっても彼らは信仰の交わりである共同体を形成しながら《福音》を宣べ伝えて行きました。

 この共同体が教会です。教会を示すギリシア語《エクレシア》には「呼び集められた者の集合」という意味があります。当時は「キリストの仲間」と揶揄されたキリスト者たち。彼らは迫害という危機的状況にあっても「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向って心からほめ歌い」(エフェソ5:19)ながら《福音》を知らされた者としての喜びを伝えていきました。また、時には共同体の中で起る生活上の問題やいざこざなどにも、人間的な思いや行いによってではなく、みことばを中心に悔い改めと赦しを祈り求めてきました。

「教会はキリストの体」とたとえられますが、共同体に集う一人ひとりには、異なった賜物が与えられています。その一つ一つの働きは違い、あまり関連性が感じられないものもあるかもしれません。それぞれ異なった賜物ですがどれ一つとして不必要なものはありません。キリストを頭とする体を形成してゆくためにはすべて必要なのです。聖霊は相互に働き掛けて、一つ一つを結び合わせる働きをしてくださっているのです。

 教会とは、欠点のない、完ぺきな人たちの集りではありません。自らの力を誇らず、聖霊の導きを信じ、常に主によって「呼び集められた」事を受け入れた者たちの群れです。教会が伝える《福音》の内容とは、主によって養われる事、みことばに聞き従い、祈りよって力づけられる喜び、そして、互いに仕えあうことによって、さらに豊かな恵みを味わう喜びです。私たちの教会がまことに生きた交わりであることを心から願い、パウロの言葉を最後に引用します。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(コリントの信徒への手紙2、13章11節〜13節)