連日のように医療市場の是2: Felice さんに反論されたから、再反論からアクセスされていますが、わたしはブログ形式にしていないため閲覧者は該当箇所を見つけるのにやや不自由されていると思います。ここに該当箇所および掲示板でのやりとりを掲載しますので、まとめてご覧ください。


 「ガリバー旅行記」で知られるジョナサン・スウィフトは、「穏便なる提案」という風刺文書でも知られています。
アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案(Wikipediaでの解説)
HTMLテキストとして、こちらで全訳を読むことができます。
スウィフトは、当時のアイルランドの格差社会を描き、貧困層の子供を裕福層が文字通り「食い物」にすることで貧困層の拡大を防ぎ、貧困層に一定の収入源を与え、救済案になりえると痛烈な皮肉として表現しています。
 人肉食というタブーと、臓器売買というタブーは、微妙にタブーの度合いが違うかもしれない。特に前者は人の死に直結し、後者は直結はしないという点で、違いを見いだすことはできる。しかし、わたしは、
「臓器売買は貧困層の収入源として救済案になる。良い臓器を販売するために、富裕層が拠出した財源から保健事業を興して貧困層の健康向上に努めることも、救済になりうる。」
という案は、スウィフトの「穏健なる提案」の皮肉部分を取り除いたものだと思う。皮肉として描かれた場合は痛烈ですが、本気で表現し、「本気で貧困層の救済を考えています」という人間は、人としてどうなのか。



2008.01.03.の日記 市場原理は万全ではない

(注:木公氏の最初の記事では、冒頭の但し書きはない)

医療市場の是([alm-ore])
 わたしは医療・福祉に市場原理を導入することは反対です。木公さんは献血ではなく、売血制度にし、輸血を保険外にして患者に販売することで、貧乏人は収入を得られるほうが良いと主張されているけど、売血せざるを得ないような貧困層はその血液にも問題を抱えている場合が多いでしょう。感染症の確率は富裕層(自らの健康管理に金も時間も気遣いもできる層)より高い。以前ミドリ十字がHIV感染した血液製剤を販売したのも、アメリカで貧困層から血液を買い、滅菌が不十分だったからだ。現在、血液製剤に対する滅菌技術は当時より進歩しましたが、初めから危険を排除しておくことは重要です。そもそも、日本でも昔は売血が行われていました。木公さんの言う、「他に食い扶持のない貧乏人がじゃんじゃん血液を売っていた」んです、かつて。その結果、C型肝炎が蔓延したのです。在日大使だったライシャワーが輸血により感染したことで問題が認識され、献血制度に移行することで危険な原材料(血液)を排除し、売血常習者という貧困層も浮き彫りになったのです。時代を逆行してどうする。(参照:血液.com 血液製剤の歴史 この血液.comでも安全な原材料の確保は前提であると記されています。その上で滅菌技術の更なる進歩というものが求められているのです。ライシャワー事件や過去の売血における問題等はこちらを参照してください。)
 仮に「完全な滅菌技術」が確立して原材料が汚染されていても「絶対大丈夫」という状態だとしても、売血制度は貧困層に所得の再分配をするよりも多くの不利益を与えると思う。売血したお金に頼らなければならないような人とは、庶民レベルというようなほどほどの貧乏ではない。市場原理が導入されれば、買いたたかれることもあり得るんじゃないの? 木公さんは患者に売る製剤を高く釣り上げて、もうけを貧困層への保健事業に使えば良いと言っているけど、結局それって富裕層が病気になったときの「生きた資源(製剤源)」としての貧困層の健康確保ってことにならない? 貧乏人を資源として飼育しているだけだ。酷い社会だとわたしは思う。
 金は人を動かします(ほりえもんの言っていたことは正しい)。だからこそ、献血制度であることで貧困層の血液は守ってあげられるんだと思う。

 あとさ、マンキューって人がどんなに偉い経済学者か知らんけど、「機能する腎臓を一つも手に入れることができずに死んでいく人々がいる一方で、ほとんどの人は別に必要もない余分な臓器をもって生活している。これで公平といえるだろうか。」ってさー。頭悪いやろ? 「必要もない余分な臓器」て、そんなん盲腸くらいや。ギリギリ生きていくだけの機能しか持ってなかったらちょっと体調崩しただけで死ぬから、予備や余裕のために持っているわけで、「必要がない」わけではない。あんた、キンタマ二つあるやろけど、二つ目は意味無いからって取り出してええんか? 自転車で転んだだけでも潰れるのに、予備は持たなくてええんか? 一個潰したろか?<マンキュー キンタマは潰れても命に関わりはないからって、平気でいられるかね? 
「必要もない」って大言する以上、自分の腎臓をいつでも売るなりあげるなりする心の準備はできてるんやろな? 「あなたの腎臓ください、一個は必要ないでしょ」って言われたとして、自分が提供できるかどうか、どんな状況なら提供するか想像してみるべきだ。自分の身内が移植を必要としている場合を除き、他人に自分の再生しない臓器を与えるなんて、相当経済困窮した人間しかやりませんよ。スペアの腎臓を売った貧困者が、その後腎臓病になったらどうするんさ。腎臓を売るほど貧しいんだから、腎臓を買うような金はないぜ。(この辺のことについては、提供者は後で保証される制度を作れば良いと言われそうですけど、貧困者が金持ちのための「生きた資源」とされる以上、金持ちが資源価値のなくなった貧困者を保護するとは考えにくいし、更に貧困者が「資源」を求めることに寛容ではないでしょう。医療を自由化すれば、資源は金持ちのためのものだ。行政に介入させるにしても根本的に自由市場取引を許している以上、圧倒的に金持ち有利で話は進む。その制度が有効に機能するとはわたしには想像できない。)
 血液は健康状態を維持できたら増産(再生)されるから、限度を設けて献血するのは容認できるのです。肝移植や骨髄移植も同様です。市場原理に載せたらその「限度」をズルして守らなくなったり、買い手に都合良く変更したりできるでしょ? それをきちんと管理できるようなシステムが、現代社会にはまだないでしょ? 金持ちばっかり得するような社会でしょ? だからダメだと思います。

 そう言えばこの間出張先で救急車を呼びました。通りすがりに体調が悪くなった人を見かけたので、救急車を呼んでわたしが救急隊にその人の状況を説明したんですけど、救急隊員のてきぱきした仕事ぶりには感心しました。んで、倒れた人は意識がなかったので、木公さんが仰るように「○○円まで出せます」なんて言えないんですよ。持ち物から身元を割り出して家族に連絡するとかはできるでしょうけど。そうやって家族に連絡取って支出できる金額を確かめている間に死ぬかもしれませんね。独り者ならお金はあっても意識を失った時点でもう医療は受けられないってことですね。

 血液や血液製剤の不足に対する解決としては、世の中の知的水準および生活水準を上げ、献血制度を理解する人々を増やしていく方法でどうにかしていくべきじゃないですか。ちゃんと自分の健康管理をできる経済状態の、制度や医療事情を理解できる人を増やす。血液や臓器を売らなければ生きていけないような貧困層をなくし、献血する余裕のある階層人口を増やすべきです。貧困者を生きた資源として社会が飼うよりも、そのほうが健全だとわたしは感じます。貧困層をなくす方法は、わたしには具体的な案がありませんが(だから説得力がないかもしれませんが)、貧困者を資源とする限り、その社会は常に一定の割合の貧困者を要求し、貧困層の解消はありえなくなる。そんな社会にわたしはしたくないですね。
 初めの方にも書きましたが、かつては日本でも売血が行われ、血液銀行という民間企業がありました。ライシャワー事件(昭和39年、1964年)をきっかけに売血制度は危険な材料を集めてしまっていることや、管理体制の悪さが明るみになり(利潤を追求すれば管理は悪くなります。去年の食品業界の偽装と同じこと)、献血制度に移行しました。初期は血液は本当に不足しており、わたしが子供の頃には、献血制度の理解を求める広告や街頭での呼びかけは非常に多くありました。学校の保健授業に絡めて「大人になったら献血しよう」と教育もされました。「二十歳の献血」というCMも始まりました。わたしが初めて献血したのは、満年齢16歳に達したときです。当時から自衛隊や公的機関(つまり公務員)は積極的に献血するように求められ、今でもその辺は変わっていません。(わたしも仕事がそんなに混んでいないときは職場に献血車が来たら参加しています。) 現在、毎年約700万人が献血をしています。教育効果というのはあるんですよ。それでも、血液製剤を使用する場面が現在では増えてしまったため、血液不足は起こっています。現在は年間1000万人の献血が必要だそうです。あともうちょっと、献血できる階層を増やすことは不可能じゃないと思います。
 それから、医学研究者にとっての命題は「いつか人工血液を開発すること」でしょうね・・・・・・。


2008.01.04.の日記 補足とマンキューへの謝罪・正当な怒りの表現

医療市場の是2: Felice さんに反論されたから、再反論
 掲示板にもご意見いただきました。木公さんのご意見は
「血液供給の量を増やすという問題と、供給された血液の質を高める(汚染された血液を排除する)というのは、別次元の問題なので、分離して対策を考えるべき。一緒くたにして議論することは簡単だけど、問題解決を先送りにする。なお僕自身は、前者の問題がより緊急を要すると思っている。」
とのことです。
また、PonchiKunからは
「国内の提供者からの献血で間に合わず、海外から輸入している時点で、成り立っているとは言い難いので、いずれ売血制度が復活するだろう。」
とのご意見をいただきました。(その他に大道寺さんやぶたぴぃさんから書き込みをいただいていますが、概ねわたしと同じご意見だと思うので紹介は割愛します。書き込みありがとうございます。)

 供給量の確保と質の問題は分離すべきだとのことですが、木公さんが言うほど分離できる問題ではないと思います。(それについては木公さんも「トレードオフだろう」と認めていますね。) 売血制度では献血制度よりも汚染された血液を沢山集めてしまうので、ハネ品が多くなることを考えると献血なら年間1000万人の協力で供給量に達するのに対し、売血なら1500万人とか2000万人から買わなければ供給量に達しないだろうと容易に推測されます。量の確保のために質が関与してくる。(1500万とか2000万とか言う数字はあてずっぽですが、とにかくもっと沢山集めなくちゃならないですよね。) で、その充分な売血者という貧困者を常にキープし続けなければいけない。昨日リンクした木公さんの最初の記事では、「売血制度は貧乏人に富を再分配することができる」となっているけど、それは非常にわずかな分配で、社会が貧困層の存在を要求し続けることになる。売血制度にすることで血液量を確保することができても、売血者が金持ちのための生きた資源となる倫理的な問題点を解決できない。労働者というものは広い意味で資源であることは事実ですが、技術や時間や知識を売る場合は労働に対する誇りを維持できますが、自分の臓器(血液を含む)を売ることは誇りには繋がりません。売血で血液量を確保できても、社会全体は大きな問題を抱え込むことになります。

 また、献血制度より多くの提供者を必要とすることから売血制度での検査コストは上がります。献血制度でも検査と滅菌はするのだから、その部分は変化しないと考えられているようですが、現在献血一人分ずつを検査して汚染血液を排除しているその方法は変えるべきではないので、提供者が増えればこの部分でコスト高になる。また、「ハネ品」は汚染物質ですから安全な処理をして廃棄しなければなりませんが、売血制度のほうがハネ品は増えます。ここも献血制度よりコスト高となる部分です。
「無償の献血だとその人のHIVが発見されやすくて、有償の献血だと発見されにくいわけではない」
というのが木公さんの言い分ですが、当然そういう意味ではない。現在の献血制度ではHIV検査の代わりに利用されないために
「HIVが陽性でも本人には通知しません。ただ廃棄するだけです。」
ということになっています。(通知しないことには賛否両論ありますが。) 従って、HIV感染の心当たりがある人はほとんど来ない(無自覚なキャリアはいるだろうけど)状態で血液を集めています。HIVを例に挙げましたが、それ以外にもある時期イギリスに滞在していた人とか、既に輸血された人は、無償であれば
「自分はもう献血できない・無駄である」
と判断してもう来ない。
一方、売血制度では、採血即支払いでなければ売血者にとってうまみが少ない。採血後数日間の検査終了を待って合格した血液にだけ料金が支払われるのであれば、なかなか売血者を集められないでしょう。一般的に売血したいと思うほどの貧困者は現在においても感染症の確率は高い。昭和30年代より低いけど、今の日本全体の平均値より高い。だからそれなりのハネ品率は出てきます。
「売りに行ったけど後でなんやかんや言われて結局金にならんかった、血ぃ取られて損した」
みたいな印象が出ると売血者を集められないから、量の確保を図るなら採血即支払い制度になります。とすると、自覚のあるHIVキャリアも売血に来る。イギリス渡航歴を隠して売血に来る人もいるかもしれない。汚染血液が発見されにくいのではなく、汚染血液の割合が格段に跳ね上がり、検査と廃棄にコストがかかるのです。そして、現在の技術では検査をすり抜ける病原体があるので、初めから汚染の可能性が低い状態で集めておくことで製剤のリスクを下げるのです。この見地から献血制度は売血制度より安全な製剤を得やすいと言えます。
必要なのはあくまでも「信頼度の高い血液製剤」です。木公さんは「質」よりも「量」が緊急の問題ではないかと言うけど、今より質を低下させるわけにはいきません。血液の買い取り価格も必要ですから、売血制度になれば血液製剤は今よりかなり高価なものになるでしょう。その結果、保険適用していたとしても「95歳の認知症の老人に投与するのはもったいない」という判断は出てくるでしょうね。木公さんの言うように「供給量が充分であれば元ネタ患者の皆さん、あきらめてください(天国へのビザ)で描かれたような”もったいない”問題は起こらない」ということにはならない。高価になれば今より血液製剤を使わなくなり、売血者が少なくて済むようになるかもしれません。しかし同時に製剤を使えばもうちょっと良い医療を受けられるけど高くてそこまで手が出ないから諦めるという、患者にも医療者にもジレンマを産む状況が今より増えると思います。売血者が殺到して血液が沢山集まり、値段が下がっていく時期が来るかも知れないというのは、それより後の時期です。
 結局、売血制度が解決するのは、量の問題だけではないか。無論、不足しているという問題は大きく、また不足分を外国から買っていることについても問題はあるので、それが解決するだけでも良いじゃないかというのが木公さんのご意見だと思います。一方でわたしは売血制度による供給量の解決は同時に消耗しきった人々を生み出し、社会が病巣を拡大させる可能性があることを問題視しています。不足分については、それこそ「95歳の認知症の方には、投与を控える。ご家族のメンタルケアは行う」ことで一部対応したいと思っています。

 不足解決について。知的水準と生活水準を上げていくことで献血者を増やすことは、時間が掛かりすぎる・あるいは達成できないだろう、現時点での不足問題を解決できない、というデメリットを抱えています。でも、まだやれることはあります。
 昨日わたしが引いた「現在は年間700万人が献血している」というのは、総務省や日赤のデータではありませんでしたので、この点については木公さんのほうが正確です。そして献血者が減少しているというデータなわけですが、一頃より街頭での献血呼びかけは少なくなっているように感じられます。わたしが高校生の頃は、「16歳の記念にまず献血」みたいなムードがあり、そこから定期的に・あるいはふと気が付いたときなどに献血するようになる人は多かったのですが、掲示板で大道寺さんが買いてくださったように最近はピアスをするため、最初の機会を逸しているのかもしれません。献血というと善意オンリーのように見なされているかもしれませんが、健康なときに献血して誰かに提供しておき、自分が輸血を必要としたときに他人の献血から提供してもらう、お互い様な制度と考えることもできます。自分の将来のためだというような導入があっても良い。木公さんは教育が失敗していると捉えていますが、わたしはまだできることがあるはずだと思っています。
 例えば昨日「公務員は積極的に献血するように促されている」と書きました。しかし実際にはやりかたがあんまり良くないのです。わたしの職場に献血車が来るのは年に1回くらいですし、来るのも1週間前くらいに知らされ、当日庁舎内にアナウンスされる程度。正直、年に1回では少ないし、1週間前に知らされても時間の都合はつけにくい。公務員は、こういうことを率先して行うべき存在だと思うので、もっと献血する機会を増やし、初任者研修でも教育して促してはどうかと思う。あるいは、職場から賞賛されるようにするなどがあっても良い。公務員はスピード違反をしたときに警察に罰金を払うだけでなく、職場からも昇級延伸という形で罰金刑を受けるのだから、良い行いについてはちょっと評価してほしい。賞与は売血になるのでダメですけど、とかく公務員は叩かれけっ飛ばされる世情でもあるので、献血することを評価してくれたら居場所を感じられるしもっと積極的になれると思います。

 木公さんも教育を否定しているわけではなく、「自由市場と共存ではどうか」とも仰っていますが、多分、献血と売血が同等に存在することは難しいでしょう。売血制度が導入されれば献血による血液提供はかなり減少するのではないか。また、献血者が売血者を蔑視するような風潮が出てくるかもしれない。

 いずれにせよ、木公さんが「とにかく量の問題を解決できれば良い」のに対し、わたしは売血の弊害を避けながら時間はかかるけれども量の問題を解決していきたいと考えているわけです。
そのことの是非は判定できるものではありません。両者が自説の欠点や課題を考えていけば良いでしょう。

 さて、木公さんが二つ目の記事で書いた「余分な臓器のこと・あるいは"Feliceさん、落ち着いたら?"」について。これはわたしが二つの問題をごっちゃにしていましたので、ここで整理してお詫びする点についてはお詫びしておこうと思います。
 まず、腎臓が二つあることをわたしは予備的なものと表現しましたが、医学者が「現代人にとっては予備と言うにはあまりある余力」と判断していることは知っています。それ故に移植できることも知っています。しかし、それでもわたしは臓器を販売することは反対です。これも売血と同様に貧困層を求めること等の社会問題を懸念するからです。同列に比較することは無茶かもしれませんが、個人的な関係によって成立するセックスが社会的に認められることであるのに対し、セックスを売買するのは蔑視されます。特に売り手は被差別階級となります。買い手は自ら欲したにもかかわらず、売り手を蔑視する傾向がある。同様のことが臓器にも起こるのではないか。売春は隠せばなかったように装えるかもしれないが、売った臓器は(再生しない臓器であれば)戻ってこない。身内の危機に対応したり、ドナー登録から臓器を献呈する場合を美談とされる一方、売ることは「臓器を売る以外に能がない」という評価を提供者に付与する。木公さんも「能のない貧乏人はじゃんじゃん血液を売れば良いんだ」と平然と馬鹿にしている。技術的に可能だからやったらいいとか、お金になるから貧乏人には良いじゃんとかいうだけでやって良い行為だとはわたしは思いません。一方で臓器売買のブラックマーケットがあることも知っていますし、金持ちの日本人がアメリカやヨーロッパで臓器を横取りしていることも知っています。臓器売買が解禁されたらブラックマーケットは消滅・縮小し、日本人が海外で臓器を横取りすることはなくなるでしょう。わたしは解決方法を提示することはできないし、臓器を欲しいと思う人の気持ちもわからないではないので、この問題に対して有効な議論をすることはできません。単に問題提議にとどまります。
 次に「落ち着いたら」について。はい、落ち着きました。わたしはマンキューに対して怒りの表現をしてしまいましたが、これは間違いです。わたしが怒っているのは木公さんに対してなのですから。マンキューが全体としてどういう議論から臓器移植の話を持ち出しているか知らないまま、木公さんが引用したごくわずかな文章、木公さんのバイアスによって切り取られた文章、あるいは翻訳が不適切だったかもしれない一文から、マンキューを「頭悪いやろ」と罵倒するのは間違っています。従ってわたしはマンキューに対しては謝罪しなければなりません。申し訳ありませんでした<マンキュー。わたしが判断を誤り、不当にマンキューを罵倒した文章を、今削除したり当たり障りなく書き換えるのは不適切だと思うので、放置してわたしの恥をさらしておきます。わたしが馬鹿であることをお嗤いください。もし、マンキューあるいは代理人が削除訂正を求めるならそうしますが多分そんなリクエストは来ないので、わたしが自省するために残しておきます。
 木公さんはこの部分を「消化試合」としていますが、わたしにとってはこの部分は消化試合ではありません。そもそも二つ目の記事(わたしに対する再反論)のようなスタイル(文体)で売血制度の利点を述べておられたら、わたしは激しい怒りには駆られなかったと思います。昨日リンクしたこの記事の文体は全体に酷い。本人はそのつもりがないのかもしれないが、自分より恵まれない人間・貧困層を馬鹿にしている。暴言かもしれないがと途中で断っているけど、暴言にもほどがあるだろう。いや、暴言というより傲慢なのだ。
「貧乏人はじゃんじゃん売血しちゃえ、そのお金で焼き肉でも食えば、また血ができる。」(そしてまた売血に行けと奨めているのか?)
「貧乏人が救急車を利用できなくしてしまえ。そしたらたらい回しもなくなるでしょ。」
酷い表現だと思います。わたしはこれに腹を立てたのです。そうです、わたしがキンタマを潰してやりたいのはマンキューではなく、木公さんなのです。マンキューには重ね重ねお詫び申し上げたい。木公さん、救急車利用についてわたしの反論には返答頂いておりません。あなたが若くて健康で救急医療をイメージできないのは仕方がありませんが、もっとよく考えた表現で意見してください。

 医師は、技術者なので、自分の技術を高く売りたいし職場環境を良くしたいと思っています。でもなおかつ医療を自由取引することを否定する医師は多い。市場原理に載せれば医療を受けられない階層が沢山出てしまうからです。医師・小松秀樹の著書は、医療行政や医療報道に対する批判がメインですが、事実上自由診療のアメリカの例も引いていて、何故医療者が医療を市場原理に載せたがらないかの参考になると思います。
 何でも市場原理に載せたほうが効率的だ、という基本概念で小泉内閣は行政を行い、貧富の差を広げました。それも富める者が更に富むというよりも、最下層を更に下に押し下げるという形で。自己責任という言葉を押しつけて。売血や臓器売買も制度化したらその手段を選択するのは貧困者本人ということで処理されるでしょう。わたしはそこを懸念しています。


掲示板およびメール









最終レスに記載しているわたしからのメール本文は以下のとおり。

===
最初に木公さんの医療自由化についての文章を読んだときは腹を立てましたが、もしかしてかなり思いつきで書かれたのでしょうか? 先ほど掲示板への書き込みに返信させて頂きながら考えたのですが、いくら木公さんが若く健康で救急診療をよく知らないとは言え、本来的な目的での救急車出動シーン を全く想像できないとは思えないので・・・・・・。
あなたはわたしより強く「市場原理は健全だ」と信頼していると思うので、軽い気持ちで「医療にも持ち込めば良い」と書いただけで、さほど本気で検討はしてきてな かったのかなと思い始めています。
だとすれば、今あんまり討論しても不毛だし、あなたが少し煮詰めて考察するのを待ってから、いずれまた機会を見て意見を出し合ったほうが良いのかなと思います。 それにわたしもかなり感情的になって不適切な罵倒をしたりしてしまったので(これはすみませんでした)、クールダウンするためにも時間をいただけたほうが良いし。

と言うわけで、少しこの問題について木公さんとわたしとの議論は、休憩しませんか。掲示板のほうは、そのつもりで返信しました。日記本体でも当面話題にするつもり はありません。
ご検討よろしくお願いします。
===


 後から付け加えた但し書きに「貧困者への支援を真剣に考えている」と書いているが、彼は掲示板でも支援方法を提案できないし、わたしとしては助け船を出したつもりです。
なお、「例えばどんなときに富裕層が選択的に排除されますか」というわたしの質問に対しても、現時点では彼は回答を持たず(彼からの返信に記載)、「富裕層が排除される場合もあるでしょう」という書き込みも、何ら考えがあってのことではなかったようです。

このわたしのメールを受けた後の木公氏のコメントは以下。



 ありもしない男女関係や密約(時間をかけることは掲示板でも公然とわたしは提案している)を匂わせる意図はわからないが、このような虚偽を記載する人物と、わたしは今後一切私信を交わすことはない。2008.01.22.記

付記
もしわたしが男性であれば、木公氏は男女関係を匂わせただろうか? しなかったのではないか? 議論に負けたことも認められず、その代わり相手が女であることを見くびってセクハラ発言によって自分が優位であるように自分の友人達へメッセージを流しているのである。マンキューという有名人をバックにつければ傲慢な発言が正当化されると思いこんでコンテンツを書き、批判されるとこうして卑劣な手段に出る人物である。(2008.01.31.記)

その後。






「貧富の差なく必要であれば救急搬送する」ことに「同意する」と書きながら、「必要性」の判断基準が「支払い能力」になりえるかもしれない、というのは矛盾しないのか?

結論として、虚偽に対して謝罪する気はないらしい。


参照リンク

市場原理と医療  米国の失敗を後追いする医療改革
医療における市場原理は何をもたらすか
医療サービスの自由化と市場化の相違(PDFファイル)
日本の社会と医療を破壊している新自由主義とは?(天夜叉日記、2008/01/08)
医療を受けさせぬ後進国化(長州新聞 2007/11/16)
保険自由化のひずみ(読売新聞 2006/07/18)
小泉・安倍政権の医療改革 −新自由主義的改革の登場と挫折−(PDF)(月刊・保険診療 2007/12/10)
医療と市場原理(効率化を考える)(開業医による記事、2002/11/15)
「医療費増額が医を荒廃から救う」(CBニュース 2008/01/15)
日本の医療を食いものするアメリカ 株式会社病院の解禁をせまる
ファッショ小泉首相、国民医療まで米国に売るのですか(我が輩は猫である 2006/01/11)
[混合診療]についての見解〜わが国における医療のあるべき姿〜


医療経済学(Wikipedia)
医療経済を考える


献血できない人間が「血の一滴」について考えてみた(1)(ぜろだま)
献血できない人間が「血の一滴」について考えてみた(2)(ぜろだま)
献血できない人間が「血の一滴」について考えてみた(3)(ぜろだま)
献血できない人間が「血の一滴」について考えてみた(番外編〜フィクションの中の輸血)(ぜろだま)