過去大本営

四月へ 六月へ
トップページに戻る

2005年5月18日 水曜日

入院編・後編。

手術日。ついに手術がやってきた。
ついに、といっても本当にプレート抜くだけなので、ライフ・アンド・デス的要素は何もない。以前も緊張感は皆無だったが、さらにリラックス。まあ緊張してても患者には何もできないし。
あまりにもリラックスし過ぎていたせいか、あの病室でのドキドキステキナイトによる睡眠不足のためか、ふと気付いたら寝てしまっていた。起きたら手術も終盤。
しまっつ。自分の中身がバリボリいじられる感覚を味わい損ねた。くそう。
超イケてるアクセサリー。
外から見えないが。
我輩が目覚めたことに気付いたドクターが、顔の前に、たった今まで骨を固定していた取り出したてホヤホヤのチタンプレートを掲げてくれた。
「持って帰るといいよ、お土産に
ワカってんじゃんドクター。喜色満面で「ありがとうございます!」と答えたところ、なんか手術室ナースがやたらウケてた。
なんかヘンなこと言いましたか我輩。みんな欲しがるって絶対。
プレートを足に固定していた凶悪なネジ(φ5x50mmくらい)もくれと頼んだが、危険だからダメとのこと。
どう見ても普通のネジなのに、何が危険なんだろう。これがダメならホームセンターは地獄の一丁目だと思うが。
キミたちはもしかしたら我輩のことを、プレートとネジをじっと見つめているとなんとなく強迫神経症に駆られ、骨に戻すために自力で足を掻っ捌くとか思ってませんか。それは確かに危険そうだが、我輩はそんなことを考えもしない安全な人です。

手術終了、病室に帰還する。
たとえ仮の居所とはいえ、やはり一旦腰を落ち着けたベッドに戻るとそれなりに安心するものだ。
そして三十分もしないうちに病室引越。
いや確かに「近々引っ越せ」と言われてたけどさ。
なんというか……手術前ならいいし、手術後かなり安定してからでも構わない。手術してる間にこっそり部屋が変わってたらベストと思う。しかし、今、この時、身体に繋がった管は複数あるわ麻酔は半端に効いてるわ。タイミング最悪な気はしませんか。
まあいいや、カーテンの向こうがデンジャラスな病室から開放されたんだから文句は言うまい。
手術後の検査が一段落した頃、この時間は我輩にもわりと余裕がある。
麻酔もまだ効いてるし、そもそも手術を受けるというのは自分でも気付かないうちに体力を思いっきり消耗しているもので、手術中にも寝てたというのに再度、疲れて寝てしまった。
手術直後の爆睡中。アホみたいな姿だが本人は幸せ。
そしてちょうど日も暮れた頃、目が覚めた。
平和は終わり、眠れない夜がはじまる。
以前のプレートを埋める手術の時もそうだったが、麻酔が切れていくと同時に痛みがガンガン戻ってくる。文字通り身体をずっぱしと20cm近くも刃物で切って中身いじくってまた縫ってある訳で、鎮痛が利いてない場合は痛くないはずはなく、そして痛み止めなんか効きやしないことは以前の手術で痛感している(効く薬があるのは知ってるけどフツー処方されない。麻薬だし)。さらに手術前からずっと刺したままの極太点滴針が、身動きするたびにとんでもなく邪魔に感じるカテーテルが、それぞれ別種の苦痛を与えてくる。
ものすごい発熱と脂汗。まだ全然動かせないくせに、痛みだけ戻ってきやがる自分の足が憎い。捨てたい。下肢の重みに腰の骨と筋肉が悲鳴をあげている。いつもは全然効かない冷房がヤケクソに強く感じるが、まったく涼しさを感じることができず、舌を出して喘ぐ。喉がからからに渇く。水分を採るのは翌朝まで禁止されている。
深夜、点滴針とカテーテルは、あまりに痛くなってきたことを訴えると予定より一時間だけ早く抜いてくれた。ありがとうナース。
眠れない、長い長い夜を耐えた。西向きの窓から、直接的でない柔らかな光が差し込んでくる。朝の6時。
飲食をしてもいいと言われていた時間だ。
──と言われても。飲むもの食べるものありません。
巡回のナースに頼んでようやく茶汲みをしてもらえた。が当然、食のほうはどうしようもない。食い物なんか持ってません。配給の朝食は2時間後。しかし身体は食べ物に飢えている。血を欲している内臓が渇いた悲鳴をあげている。
何かないか。口に入れるものが何か。痛む足を引きずって自分の荷物に手を突っ込み、そして掴んだものは、
ごま塩。
朝の光が差し込む病室で、脂汗をダラダラ流しながら、ごま塩をなめる患者。
我輩が医療側なら違う病棟への隔離を真っ先に検討する。

超余談。
尿道カテーテルを外したあとで小用を足すと、ちんこから屁が出ます。
たいへん気持ち悪いので、是非みんな経験してみよう。

ようやく朝食の配給で人間の食事を得たことで、少し人間に戻った我輩。
久しぶりにすら感じる睡眠時間を15分ほど確保し、目覚めた時には異様に悪かった気分が少し回復していた。
しかし足はまだ、動かさなければ痛みも「普通に痛い」程度に落ち着いているものの、姿勢を少し変えるだけでもとりあえず呼吸停止と脂汗。手術前は「原則として翌日から歩行可能」とか言ってたドクター、貴様が歩いてみろと言いたい。
午前も終わる頃、その件のドクターが回診でやってきた。
骨には穴があいたまま。火がよく通りそう。
挨拶もそこそこにドクター、「痛いかなあ」とか言いながら脛を鷲づかァァアァアアアガゴゲグゴガッゴギゲゲゴ
「ごめん」それだけか貴様。
ドクター曰く「わかってるとは思うけど、歩いたら駄目ですから」。
いや言ってること違うんですが。医学用語の「原則」ってのは日本語の「多くの場合にあてはまる基本的な規則や法則(三省堂 大辞林)」とは違う概念らしい。
そして踵を返し、病室を去ろうとする寸前。奴は、聞き逃しそうになるほどにさらりと、聞き捨てならないことを言った。
「退院は来週の、末頃だね」
──入院前も、そして入院してからの手術前説明でもアンタは、手術翌週の月曜に退院していいと言ってたのですが。
「確かに退院はできる。だけど、手術直後は不安定だから。それに抜糸もそんなに早くはできないし。最初から手術後十日くらいは見たほうがいいね」
最初からそう言えボケナス。バイト先の仕事。我輩がいない間の処理は一週間分しか回るようにしてません。
陰謀のにおいがする。我輩はこの担当医の腕も人間性も信用しているが、言うことだけはどうも信用ならないと思っている。
実は手術中に切っちゃいけないとこらへんをこっそり切ってしまい、その証拠が治癒して消滅するまで病院で飼い殺しにする作戦じゃなかろうな。
でなければ医者という人種は、世界中で忙しい職種ってのは自分たちだけだと思っているのか。医学部とかでは「患者の予定はゴミクズのように扱いましょう」とか教えてるに違いない。

そんな感じで予定より伸びた入院。
この病室に一週間以上滞在することとなった。病室ってのは言わば雑居房で、だいたいにおいてプライバシーはない。その際は意外なことに自分のプライバシーよりも、前のヤバルームを見てもわかるように「他人のプライバシーもない」ということの方がはるかに精神的に負担がかかる。
斜め前にいるおっさん。この御方が、大変にぎやかな性質をしておられた。
声は大きいわテレビのボリュームは大きいわ屁ボリュームも大きいわ。やたら湿度の高いゲップしまくるわ。さらにたいへん江戸っ子な方で、テレビと大声で会話する(特に野球中継で顕著)。食べ物に大声でケチをつける。天気に対してすら大声でケチをつける。ナースが来る度にそれがまるで義務であるかのように下品セクハラトーク。この病院に入院する直前まで別の病院にいたが「追い出された」と自慢していた。それは自慢になるんですか。
口癖はなんとこの今の御時世に「最近の若い奴ぁ」で、三回目くらいまでは面白く聞いていたが三十回目くらいになるともう眩暈。
世の中、ああいうキャラクタが必要とされる場所はいくらでもあるだろう。声の大きさと遠慮の無さがなければ回らない仕事はいくらでも存在する。
が、病室には不必要だ。黙れ。
また、このおっさんがようやく寝静まって(間違い。もちろんイビキもうるさいため「寝騒いで」が正しい)も、この病棟には別のサプライズが待っている。
痴呆症のおじいさま。
ヤバルームの人とは違い、自力での歩行が可能。素晴らしいことだ。
しかし何があっても歩き続けるとなると話は別だ。ぶっちゃけ、いつ見てもペタペタ足音をたてて病棟内を徘徊している。
そして困ったことに、自分の病室を覚えていない。ナースもたまには気付いて病室まで連行していくが、もちろんそんなもので彼の徘徊欲求を抑えることなどできやせず、歩き回っていては自分の病室を探していた。
昼も──そして夜も。
深夜に我輩が自分のベッドで熟睡していたところ。突然、無造作にカーテンを開ける音にびっくりして跳ね起きたら、その向こうに虚ろな顔のおじいさんが立っていた。
こいつぁおったまげ級のスリルだぜ!新しい時代のテーマパークにどうですか「深夜病棟と徘徊老人」。

異様な充実装備。心の底からヤな病人だと思う。
予定の入院より増えて何が困るって、テレビ番組やらが見れなくなったこと。
以前は全くテレビとか見なかったが、さすがにHDDレコーダを買ってから「見たい番組」もいくつか出てきた。退院すれば見れることはわかってる。けれども、病室という暇で退屈な時間にこそ、それを見ずしてどうするか。
もちろん有料の病室テレビを見るようなブルジョワ気取りな行為は、断じて認められない。
ところで我輩は、前回の入院と同じく今回も、ノートパソコンにAirH"を突っ込んできている。この病院は携帯電話の使用を一応は禁止してるものの、相変わらず患者は誰も守ってないという無法地帯っぷりで、我輩は全く気にせずネットに繋いでいた。
ネットに繋げる、ということは、自宅にあるデータにもアクセスできる、ということだ。
おもむろに病室に持ち込んだノートパソコンから自宅のサーバを経由してHDDレコーダのRD-H1を遠隔操作。
録画してある番組を自宅の別のパソコンに転送し、めいっぱい圧縮処理をかける。終わった頃を見計らい、今度は自宅サーバにFTPでログインしてダウンロード。
無駄にサイバー感溢れるこの行動の難は通信速度で、病室の電波状態が悪いためかFTP転送の実効速度は平均4Kbyte/sec。100メガバイトまで圧縮したデータでも、こちらにダウンロードするのに7時間ほどかかる。
一体我輩は何をやっているのか。
巡回ナースにも「何やってるの?」と聞かれたが、説明を諦めて「貧乏人ならではの行為をしています」と返事せざるを得なかった。
で、そのナース。あなたは何故なんとなく納得した表情をする。

剃毛ワレメから汁が出ているドッキン衝撃画像。
良い子は見ないでネ!
そういった日々を送りつつ、回診のたびにドクターに「退院いつやねん」とせっつき続けていた。
一日でも長くいたほうが実は保険料とか考えると得だが、一日でも早く帰らないとストレスで内臓まで壊しそうな気がしてきた。ナースに幾度となく床に落とされたマウスはしっかり壊れたことだし(T_T)
しかしドクターは「んー……やっぱり来週月曜まで入院」とかナメたことを言ったりしていた。そんなある日。
最寄りのコンビニで店員が強盗に刺された。
同室の江戸っ子おっさんが大声で話していた内容曰く、たまたま早朝に出かけたところ、レジの周辺に飛び散った血の掃除とかで追い出されたとか。いや怒るどころじゃありません、それは。
そう言えば我輩が以前に入院していた時も、この病院は、ナースがストレス解消に入院老人のツメをぺりぺり剥がして全国ニュースになっていた。
そして強盗事件の次の日、回診にやってきたドクターは、我輩に「もう退院できます」と言った。
突然。
まさに掌を返すかの如く。
今までの引き止め方はなんだったのですか。
誤解だドクター。あなたは我輩を間違った見方で見ている。
推理マンガじゃあるまいし、我輩が入院してる時に限って血生臭めな事件が起こるとかそういう事実はありません。ありませんとも。


2005年5月17日 火曜日

最近、入院していた。
またか。という意見もありそうだが、これはまったく予定のことで、 前回入院したときに骨を固定していたプレートを取り除く手術のための入院だ。
そんなプレート一生入れとけや、とも思う。「年寄りはともかく若い人は撤去します」と説明を受けたということは、我輩は入れたままでいいということだ。
が、強度の違う物質が足の骨に入ってる状態は、一部だけ強度が高いのと同じで、全体はむしろ脆そーな気がしてきた。それで体重を支えたり飛んだり跳ねたりまたバイクでコケたりと思うと結構薄ら寒くなってきたため、処置した方がいい気がしてきた。のでハラくくって入院手続き。

以下、入院編・前編。

予定していた入院日に病院に出頭した我輩は、すぐさま病室に放り込まれた。
アンテナが怪しげ。
注:リンク先の写真はクリックでさらに拡大します
ナースステーションのすぐ隣。コールを押したら2秒でナースが駆け込んで来れる病室で、そうでなくともかなり頻繁に巡回される。各種のあやしげな機材が常備されており、いかにも緊急事態への対処が万全そうな、基本的には本気でヤバい人のための特等席だ。
えーと我輩は全然ヤバくないつもりだったんですが。もしかして、まさか、いやそんな。
──いや単にベッドが開いてないだけなんだけど。「後で引越してもらう」とか言われたし。
さすがにヤバい人御用達ルームだけあり、なんと電動パラマウントベッドで姿勢とかを楽に変えられる。おー。以前の入院時のベッドは姿勢変更は手動のハンドル式で実質的にロクに使えなかったことを思うと素晴らしい。ていうか前の入院時こそ、このベッドにしてくれよ。しかし高級ウレタンマット仕様は単に暑いだけで非常に不快。
パラマウントベッドの注意書き。しばらく眺めるとイヤリアルな映像が頭にこびりつく。悪い夢を見たい人にオススメ。
ともあれ明日にはもう手術。ほどなくナースがうようよやってきて、数々の手術前検査をしていく。
以前、入院していた我輩を覚えているナースもちらほら。非常に居心地が悪いのは、退院日に調子に乗って「記念に写真を撮らせてください」と頼んだせいで自業自得風味。(ゲットした写真は公開しません。我輩が一人で楽しむ)
新人萌えナースもやってきたり。以前よりだいぶ手際はよくなってたが、皮内注射でまだ針が刺さってないのに思いっきりぴゅーぴゅー薬液出したり、相変わらず血圧測定で異常に空気いっぱい入れるため血圧が極端に高くなったりしてて安心。
最高血圧130って、萌えナース以外が計ったら105前後になる我輩的には異常です。ていうか気付け。もしかして萌えナースに腕を捕まれていたことで年甲斐もなく興奮していたのか我輩。恐怖とかで。

一通りの検査やら毛剃りやらも終わり、イヤーな手術前点滴がはじまった。
この点滴は手術する間も、それどころか出た後も12時間くらい針を刺したままにする。刺しておくといざという時、血管内に即座にブツを押し込めるというメリットはわかる。だが、そのぶん普通の点滴針よりかなり太く、異様な存在感。ものすげえ疼いて痛い。
またこの点滴中はやたら気分が悪くなる。
「気分が悪かったら言ってください」とのことなので、「もうすでに悪いです」と言ったところ、
我慢してください
この手のナメたやりとりはなんとかならんものか。
最終的には1mくらい逆流していた。
刺された後、キャスタ付き点滴スタンド「お散歩くん」(我輩命名)を引き連れてトイレまで往復したところ、点滴管の中を血がものすごい勢いで逆流していた。針が太い上に、今の点滴スピードは異様に遅いので、少しの運動で血圧が上がったらすぐに逆流する。
勝手に戻るかとしばらく放っておいたが、点滴管のたるみの底に血が溜まっていつまで経っても身体に戻らない。見た目にグロテスクなので、がんばって点滴菅を持ち上げたり傾けたりして血を腕に戻していたらナースに怒られた。それくらいええやん許してくれよ。
この血は、点滴交換の際にいっぺん管の中に気泡が入った際に、その気泡に押されて一気に全部腕に戻った。こーいう気泡は大丈夫なのかしら、と思ったら「これくらいなら大丈夫です」とのこと。
血を戻している最中。 おそうじ気泡くん。
しかし、ナースさんが見てないところで同じような気泡が五つくらい、中には大きさ三倍くらいの気泡も入ってたんですが。とりあえず今のところ死んでないから問題はなかったよーだが、我輩の寿命は縮んだと思う。不安で。
ていうか、どうやったら点滴管にそんな気泡が入るのか不思議だ。

夜が来て、消灯時刻を過ぎた。
検査も終わり、後は寝るだけという状態になった。
が、この病室は伊達や酔狂で特等席なワケではなかった。まさにワンダーランド。
……世の中にはさまざまな病気があり、できるだけ色眼鏡でみないように気をつけようと思ってはいる。遠い(あるいは意外と近い)未来の自分の姿かも知れない。
けれども、同じ病室のお隣さんが痴呆、というのは無駄にスリリング。
うるせえのはガマンしよう。間違えてこちらのカーテンを全開するのも、まあ構わない。
しかし、オムツを勝手にはずす癖がある、というのは大変。しかもその「中身」を触った手であちこち触れるため、カーテン一枚隔てた向こうはもはや戦場。ナースは怒るわ掃除部隊は戦うわ患者は笑ってるわ、それを見てナースは呆れ果てるわ。
響く水音と漂う香りというシビアな現実から全感覚をそらして我輩はひたすらノートパソコンに逃避する。このノートは同居人の私物で、我輩はいらんと言ってたけれども「いいから持ってけ」との言葉に押し切られたものだ。
持ってきてよかった。今はとにかく感覚を逃がす先が欲しい。本当に欲しい。キーボードの隙間にまだ残る独特の新品臭すら、今の我輩にとって現実世界に戻る為の蜘蛛の糸も同然。
なんか違う香りになってたらゴメンよ同居人。

後編に続く。書かないかも知れないけれども。


2005年5月13日 金曜日

友人と久々に酒を飲んで店を出た。
その友人とは旧知過ぎて、今更なんの緊張もなく、時間を埋めるだけの不必要な会話も必要としない。
ただアルコールの心地いい麻酔感に身を任せ、数メートル先行する彼女の足音を追いかけるように緩やかに歩いていた。時間がゆっくりと流れていく。
やがて繁華街からほどよく離れて静かで暗い道に入り込む。我輩は酩酊した頭でなんとなく、性別的には女性である友人の真横に並ぶべきかと考え始め、その考えを実行に移す前に前方から男性が歩いてくるのが見えた。
我輩から見ても半端に老けた年頃の、決してフォーマルとは言えない格好。言葉を選ばずに言えば薄汚めな格好の中年男性。
狭い道とはいえ、幅は5m近くある。自然と我々はその男性とは逆側、なるべく離れた方へ寄った。緊張と警戒。
そしてあと二秒で擦れ違うというその刹那。男は、急に進行方向を変えた。
彼の進行方向は道の反対側、その先は――まっすぐに、我が友人に。
人気のない薄暗い路地。薄汚い中年男性。もはや警戒は戦慄となっている。こちら側に男の気を引きそうなものは我が友人の他になく、それを確認している間にも元から5m足らずしかなかった中年男と友人との距離はすごい勢いで縮んでいる。明らかに不自然。異常行動。その姿は敢えて例えれば獲物を見つけた肉食獣か。焦燥が走る。今や致命的な接触は避けられない。どう逃亡しても決して逃れられない必殺のキルゾーンが彼女を捕らえている。
彼女の身体が恐怖に強張るのを、我輩は見て取った。

結果から言えば、何も起こらず、男は再び進行方向を戻し、ただ我々は擦れ違った。

擦れ違った直後に気付いた。我輩の全身が、面白いほど戦闘姿勢に入っている。
内側に寄った肩と、頚骨の許す限り縮めて固めた首。腰と足首は回転に備え、重心を完全に掌握し続ける歩き方。腕は防御ではなく完全に攻撃のバランスで保っており、いつでも荷物を捨てる(もしくは叩きつける)準備を勝手にしていた。
我輩は格闘技の心得など何もない。あらゆる卑怯な攻撃手段をとるための伏線が全身に漲っていた。確実に効率よく友人の影から不意打ちで一撃を決め、友人を引っ掴んで走って逃げ出す脳内シミュレーションがいつまでも消えない。その男の顔なんかとっくに記憶から消えうせてるのに、蹴倒すターゲットとしての睨んでいた男の腰部分と、一歩半のステップと共に膝の力で踵を一直線に突き込む右ヤクザキックの攻撃動作イメージだけが未だに残っていた。
未だに前方より背後を気にしている。離れていく中年男の足音が異様に鮮明に聞こえる。その間も視線は、掴んで殴るのに適したものが手近にないかと泳いでいる。
ほどなく中年男の足音も消え、自然に友人と歩調が並ぶ。どちらともなく細くて長い溜息が漏れた。
ようやく行われはじめた会話の第一声目が、友人の「今のおっさんちょっと怖かったなー」。失礼といえば失礼だけれど、やはり二人して同じ感想を感じたようだ。やっぱりな。
と、友人が我輩を見て言った。
「覇者りん(仮名)、何か……殺気放ってる?
見てわかるほどですか。
確かに普段、我輩は「気配がないくせに殺気がある」と言われてることだし、眼つきの悪さに関しては「人が殺せる」と評判。
今もちょっと殺意の波動とか垂れ流しててたのかも知れない。
ていうか、その薄汚い中年男的には本気で我が友人に絡むつもりだったのかも知れないけれど、そのすぐ後ろを歩いてきた我輩に本気で命の危険を感じたという可能性すらゼロとは言えない。おー我輩ちょっと騎士(ナイト)ってカンジ?うひょーカッコいいぜ我輩ィ。惚れんなよウザいし。

さて問題です。
夜道を歩く女性を狙ってそうな、何をするかわからない、暴力的で不埒な卑劣漢。
第三者から見て、そういう存在である可能性が高いのはこの場合、前から歩いてきた「薄汚い中年男性」と「殺気を撒き散らして歩く我輩」のどちらでしょう。
単に、背後から迫る胡散臭い男(我輩)から女性を守ろうとしたが、殺気にびびった気弱なおじさんだったのでは。
いや、まさかそんな。


四月へ 六月へ
トップページに戻る